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敗戦後遺症を乗り越えて
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政治・社会
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グローバリズムの罠

『敗戦後遺症を乗り越えて』
[著]渡部昇一 [著] 伊藤隆  他 [発行]扶桑社


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佐藤芳直  

text by Yoshinao Sato


生き残った大正生まれの人々の使命



 日本は昭和20(1945)年、大東亜戦争(太平洋戦争)に敗れ、それから約7年もの間、米国を中心とする連合国に占領されました。他国に占領されたのは日本の長い歴史上、初の出来事でした。それでも我々日本人は、戦後の焼け野原から復興を果たし、世界第三位の経済大国にまでなることができました。


 しかし、世界中の国々が羨むほどの豊かさの中で、当の私たち日本人は、「何かが違っている……」という違和感を拭えずにいます。


 今年は戦後70年ですが、日本は戦後、何を得て、何を失ったのか、長年、企業経営を見てきた立場からお話ししたいと思います。


 まず、日本の戦後復興と高度経済成長の原動力は何だったのか考えてみましょう。日本は米国にあれだけの大敗を喫したにもかかわらず、どうしてここまで来られたのでしょうか。


 大東亜戦争を実際に戦った兵士たちの多くは、大正生まれの世代でした。大正元年から15年生まれの男子は、昭和20年には2035歳です。彼ら約1348万人の内、約15%が戦死。実に7人に1人の割合でした。


 終戦を迎え、生き残った人達は、その時、何を思ったのでしょうか。


 私がまだコンサルタントの卵だった頃から訪問させていただいた、埼玉県行田市の十万石という和菓子屋があります。そこの創業者の横田信三さんはインパール作戦の生き残りで、餓死寸前の骨と皮だけになりながらも日本に引き揚げてこられた方です。横田さんは私に度々次のような話をしてくださいました。

「日本が戦争に敗れ、思い返してみると、自分よりも優秀な人がみんな死んでいった。なんであんな優秀な人が、という人から死んでいって、自分は生かされた。生かされた以上、自分は亡くなった方々に何かで恩返しをしなければいけない……」


 私が仕事でご一緒させていただいた大正生まれ世代の経営者には、このような方がたくさんいました。自分は生き残った、せめて戦前と同じ水準までこの国を高めていかないといかんのだ、それは生き残った者の使命だと、本当にそういうことを黙々とやってこられた人達がいたのです。


 そして、「自分には何らかの使命がある」と考えた時に、やはり物量、あるいは豊かさに対する日米のものすごい差に思いが至ったのではないでしょうか。


 だから戦後、企業戦士として自分の人生を「日本が豊かになるために」、あるいは「米国に絶対に負けないように」捧げようという意識が強かったのだと思います。


「包み込みの思想」



 ところで、日本人の生きる姿勢の基盤は何かと突き詰めて考えていくと、私は、聖徳太子が作ったとされる十七条憲法に行き着くと思います。


 よく知られているように、十七条憲法はまず第一条で「(やわらぎ)を以て貴しと為し、(さか)ふること無きをむねとせよ」と始まります。これは、和を貴び、人にさからうことのないように心がけなさい、つまりAとBの二つの意見があっても喧嘩をせずに調和を考えて、結論を出すようにと聖徳太子は定めたのです。


 また、第十七条には「()れ事独り(さだ)むべからず。必ず(もろもろ)とともに宜しく(あげつら)ふべし」ともあります。これは、物事を独断で決めるな、みんなで議論して衆知を集めなさい、ということです。


 異なった意見を排除するのではなく、融合する。争いごとで決着をつけるのでなく、議論して、納得を第一とする。この「和を以て」と「独り断むべからず」を、私は、「包み込みの思想」と呼んでいます。


 この「包み込みの思想」は、海外からの技術や文明に対する態度にも伝統的に表れています。6世紀に公伝した仏教と、皇室の信奉する神道の習合、そして、キリスト教の祝祭の生活への取り込みは好例でしょう。日本は「包み込みの思想」で世界のさまざまな文化を融合しながら、独自の文化を築き上げてきたのです。


「自分にもできる」という気概



 そして、いろいろな事を「包み込んできた」日本人には、「誰かにできたことは、自分にもできる」と考える「気概」がありました。


 例えば、西洋以外の人間社会が、初めて西洋の文化文明に触れたとき、ほとんどの民族はとにかくその先進性に驚いて、恐れ入ってしまいました。


 しかし、江戸時代、嘉永6(1853)年に浦賀沖にペリー提督率いる4隻の巨大な黒船が姿を現した時、日本人はさほど驚きませんでした。確かに江戸中はパニックになりましたが、一方で、冷静にその機構を観察し、自分も造れる、と思った人たちがいたのです。

『ペリー提督日本遠征記』には、黒船・蒸気船に対して怖がる様子も見せず、構造と仕組みを専門的に問いかける、日本人の好奇心の高さも繰り返し綴られています。黒船という、当時の日本人から見れば途方もなく巨大な軍艦に驚き、恐怖を感じながらも、外国人が造ったのなら我々にも造れる、と考えたのです。


 ですから日本人は、大東亜戦争に敗北しても、米国があれだけの物量を持ち、大量の兵器を作れたなら、自分達にも必ずできるだろう、と考えたはずです。

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