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「自ら学ぶ力」の育て方

『叱る力』
[著]坂田信弘 [発行]_双葉社


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 私は子供に説教する。


 挨拶のやり方が悪いと叱り、練習態度が悪いと叱る。私は、子供よりもきちっとした挨拶ができているし、子供よりしっかり練習してきた自負を持つ。だから子供を叱れるし、叱る理由を説明できる。


 己に自負なければ叱れぬと思う。もちろん、私には人様に言えんようなことが沢山ある。それらについては、とても我が子とジュニア塾生に指導なんぞできやしない。


 私は最初から今までずっと、現場の人間だった。だからできること、できぬこと、やってきたこと、やってしまったことがハッキリしている。すべて己のことだから、当たり前と申せば当たり前の事ではありますな。


 それがためと思うが、衝動的に指図する人間の前に立つと、

「それだけの資格があるんかい?」


 という目で本能的にその人を見てしまう。


 正義をかざす政治家がいる。


 すると、己の身が本当にクリーンかどうか、問うてみたくなる。政治家は、自分と自分の周囲の利益権益の保守に(きゅう)(きゅう)としているようにしか見えない。その組織のためだけの政治をされたのでは、日本国家が嘆き悲しむ。やはり国家すべてを大きな視野でとらえていただきたい。大を語りて小を見つめる。


 それが政治家の資質でありましょう。小を語りて大に目を向けずの姿勢。それが今の政治家のような気がして仕方がない。



 私に天下国家は語れぬし、むろん資格もない。ただ、子供たちには「挨拶せい」と教えてきた。


 つくづく現場型人間と思う。だから私の手許からは、単純なモンしか出てきやしない。ゴルフ教えるにしても「6番アイアンをショートスイングで打て」とだけ教え、あとは子供自身に考えさせた。以来、両のカカトを閉じるジャイロにたどり着くまで10年かかった。


 人間の才を伸ばすには、学ぶ力が必要だと思う。学ぶ力を養うのに、教えすぎはマイナスとなる。基本は与える。ヒントは与える。しかし、そこから先は己の意欲、創意、工夫が必要なのである。


 己にできる事は己で為すが最善。然れば「自ら学ぶ力」が生まれてくる。


 今の子供たち、あらゆる事柄を教えられすぎている。だから自分で学び、考え、判断する力がとても弱い。これが常識力の欠如へと繋がってしまったと思う。



 だいぶ以前の話になるが、関西で大事故が起きた。だが、事故を引き起こした当の会社の社員が現場に居合わせたのにも関わらず、倒れた人の救出介護もせずに、そのまま職場に帰ってしまった。


 種々の事情はあるだろう。しかし、目の前に苦しむ人がいて、そこできびすを返せるものなのか。


 あの事故の責任は100%会社にある。しかし、そこで働く個々人の常識力の欠落があったのは確かと思う。「責任は組織にあり」と断じた時点で、物事の核心はぼやけ、筋道は曲がる。


 組織の責任、個人の責任、その境界線は明確にしなきゃいかん。さもないと事故であれ、犯罪であれ、いつまで経っても同様の大トラブルはなくなりゃせん。


 組織を作ったのも、運営に携わっているのも個人。その個人の常識力が弱まれば、組織は硬直脆弱化し、組織内の犯罪もあとを絶たない。


 賄賂をもらう権力者がいる。小役人から大政治家までだ。


 その賄賂をもらっていいものかどうか、その判断は個々人の常識力に委ねられている。「バレなきゃよかろう」「みなやっていることだし」じゃ迷惑至極。今一度常識力を鍛えなきゃいけない時代だと思う。


 回転に中心軸を持つ竜巻。その軸の太い竜巻は、より空高く伸びていく。人間にとっての常識力は、竜巻のその軸の太さにあるような気がする。



 今のままじゃ、日本は普通の国になる。せっかく逞しく、強く、未来を持つ国となったのに、この90年代以降で常識力が薄まった。


 私は、常識力を鍛えるためには、集団での教育が不可欠と思う。軍国主義や全体主義じゃない。ただ集団の中で、人間としての常識力を養うだけのこと。


 小学校に入学したら、1年生を全員グラウンドに出して歩かせる。最初はみんなバラバラに歩く。そのうち必ず何人か競争する者が出てくる。


 不思議と人間は、大勢がバラバラに歩き出しても、子供達はそこにゲーム性を見い出し、競技性を見い出していく。大人とはそこが異なる。


 競争したり、後ろ向きに歩いたり。しかし、そのまま放っておくと、だんだんと再び50人が歩調をそろえるようになって、みんなで遊ぶようになる。


 速い者は遅い者に合わせ、遅い者は急ぎ足でみんなに付いていこうとする。


 そこに協調の精神と思いやりの気持ちが芽生えてくると思う。だから子供の教育の第一は、みんなをグラウンドに連れて行き、ただ「歩けや」と放り出せばいい。


 先生や父母は、それを遠巻きに見ているだけで口出ししない。いちいち教えなくたって、子供たちは自主的に何かを学んでいく。それは人間として生まれ、人間として生きていくが為の本能の姿だと思う。心配はいらない。手出し口出しは無用ということだ。


 手や口を出したところで、子供は教わりの態勢となり、自ら考えることを止めてしまう。


 人間の心、鉄板ではない。プレス機で押したって同じ。考えても出て来やしない。子供の勝手歩きは常識力を生む源流となろう。形からの教えでは、常識力は身につかぬと思う。

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