日本人選手は「売り手」から「買い手」へ
イチローばりに無精ひげを生やした川

宗則がアリゾナ州ピオリアにあるマリナーズのキャンプ地に姿を見せた。マイナー契約でマリナーズに入団した川

は、キャンプ招待選手として、メジャーのキャンプに参加することになった。日本ではイチローの背番号「
51」の一つ後ろの番号という思い入れから「
52」を付けていたが、アメリカでは「
61」に決めた。本人は、「逆から読んだら、イチ(1)ロー(6)だ」と笑うが、突き付けられたマイナー契約を考えれば、自虐的なギャグにしか聞こえなくもなかった。
「イチロー・チルドレン」の筆頭格といえば、やはりこの男しかいない。WBCの時、アリゾナにあるイチローの別宅に呼ばれ、弓子夫人の手料理を振る舞われてからイチロー一筋の野球人生は、ますます加速していった。シーズン中のメル友は言うに及ばず、オフになれば、神戸で自主トレをするイチローのもとに、福岡から飛んでいくような師弟関係になった。
イチローがソックスを見せるオールド・スタイルにすれば、川

もそれを踏襲し、自主トレのファッションも、イチローに右ならえと、うり二つでリスペクトを忘れない。極め付けは、川

がヤフードーム入りする時に持参するショルダーバッグだ。イチローの出身校「愛工大名電」をもじって、「愛工大名店」と刺繍する特注バッグをオーダーするほど、川

は徹底した「イチロー愛」を貫いている。
1999年、ドラフト4位でソフトバンクに入団した川

は、実働
11年で打率2割9分4厘、369打点、
27本塁打、267盗塁、出塁率3割4分5厘の成績を残した。2004年には盗塁王と最多安打をW受賞。その成績以上に、そのリーダーシップと野球にかける情熱は人一倍で、チームメイトからの信頼が厚い。2011年には8年ぶりの日本一に貢献しながらも、「イチロー選手と同じチームでのプレーだけを希望しています」と、海外FA権を行使してのメジャー挑戦を表明して、周囲を驚かせた。鹿児島工業では甲子園出場は無く、全国的には無名だったが、左打ちの俊足好打で、「サツロー(薩摩のイチロー)」と呼ばれた川

の悲願は、メジャーでの「イチローとの共演」だった。
前代未聞のメジャー移籍会見だった。マリナーズからオファーがない場合はソフトバンクに残留するが、「マリナーズなら、たとえマイナー契約でもかまわない」と話し、契約内容は問わない意向を示した。
ソフトバンクの王貞治会長が、「一番痛かったのは川

だね」と告白したように、川

のメジャー移籍理由に関して、ソフトバンクのチーム内からも賛否両論があったという。球界の重鎮、江夏豊氏には、「(メジャーには)骨をうずめるつもりで行かにゃ。第一、日本のプロ野球、そんなに甘くないよ。メジャーでの失敗は、選手として『カス』になったということを自覚せんといかんな」と指摘され、張本勲氏からは、「イチローのお手伝いじゃない。プレーヤーなんだから」と、テレビ番組内で喝を三連発も入れられる始末だった。
ウィンター・ミーティングで日本人メディアから、川

に関して水を向けられたマリナーズのエリック・ウェッジ監督は、「彼は、シアトルやこのウェッジとプレーしたいというよりも、イチローとしたいんだと私は思う。それだけ言えば、十分だ」と、ピシャリ。また、マリナーズのジャック・ズレンシックGMも、「ずっとスカウトを送り、プレーを見てきた。イチローと親密だということも聞いているし、(イチローの代理人の)アタナシオからも川

のことは聞いている」と明かした。ただ、内野の補強ポイントは、「強打の一塁手、もしくは三塁手」というチーム事情も付け加えられた。スピードはあっても、体の線が細く、肩も弱い川

が内野手として、どこまで通用するかは未知数。獲得候補としては、マリナーズ、ドジャース、ブリュワーズ、ジャイアンツの名前が挙がっていた。