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小泉純一郎・進次郎秘録
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政治・社会
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入れ墨大臣・小泉又次郎の青春

『小泉純一郎・進次郎秘録』
[著]大下英治 [発行]イースト・プレス


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 小泉進次郎は自民党青年局長時代、青年局のカレー懇談の中で自分の身内について、語った。「(いれ)(ずみ)大臣」の異名を取った曾祖父の()(いずみ)(また)()(ろう)元逓信大臣の話もたびたび登場する。

「今でも、選挙のたびに(とび)の方たちがぼくの応援にワッと駆けつけてくれる。すごくありがたいことです」


 又次郎は、全身に入れ墨を施した鳶職人だった。その当時の縁が代々受け継がれ、今も生きているというのである。


 進次郎は、青年局のメンバーと酒を呑みながら、ふと言った。

「残念なことに、曾祖父の刺青の写真が残っていないんだよ。見たかったなぁ」


 小泉純一郎の右腕であった(なか)(がわ)(ひで)(なお)の息子で平成二四年一二月に初当選を飾った(なか)(がわ)(とし)(なお)には、小泉進次郎は、父親の純一郎よりも、さらに曾祖父の小泉又次郎の血を濃く引いているように見えた。それほどエネルギッシュかつ闘争的で、どこか(かた)()ではないような強さがあった。


 進次郎とは親同士が親しかった縁のある中川俊直は思った。

〈もしかしたら小泉純一郎元総理は、又次郎さんのイメージを重ねて「進次郎」と名づけたのかも知れないな〉



 小泉純一郎の祖父・又次郎は、慶応元年(一八六五年)五月一七日、武蔵国()()()(ぐん)(むつ)(うら)(しょう)(むら)大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)で、鳶職の父・小泉由兵衛、母・徳の次男として生まれた。


 父由兵衛は、横須賀に出て請負業をやっていた。(よこ)()()は、昔から海軍鎮守府があって、海軍(こう)(しよう)もあるので、土木工事も多い。由兵衛は、大工、左官、土木、人夫たちを工廠に送り込む軍港随一の請負師であった。


 明治一一年、横須賀学校(横須賀小学校の前身)を卒業した又次郎は、明治一二年から一年間、横須賀学校の代用教員をつとめた。


 だが、又次郎は、軍人の夢を捨て切れなかった。又次郎の同級生で、海軍を志願し、上京して海軍士官予備学校の(こう)(ぎよく)(しや)に入った者が何人もいる。


 又次郎は発奮した。

〈おれだって、いつまでも代用教員をやっておれるか。必ず軍人になるんだ!〉


 又次郎は、明治一三年五月、無断で上京する。陸軍士官の予備学校である九段の上野清塾に入学した。しかし、由兵衛に見つかってしまった。


 由兵衛は、又次郎を怒鳴りつけた。

「おまえは、なんとしても家を継がねばならぬのだ。今日限り、魂を入れ替えて家業を継げ!」


 又次郎は、それでもあきらめきれなかった。しかし、親も安心させなければならない。


 軍人への強い思いを断ち切るために、「意地と我慢」が信条といわれる鳶職によく見られるように、手首から足首にかけて全身に刺青を入れたのであった。


 又次郎が二〇歳のころ、横須賀に博徒の大親分の目兼がいた。自由党に入っていたが、その子分の無頼漢の水兵が町で横暴をきわめていた。喧嘩を売って飲代を稼ぐ目兼の子分たちを見た又次郎は、血をたぎらせた。

〈おれが()らしめてやる!〉


 又次郎は、ついに目兼一派の水兵の横暴を食い止めた。


 人入業をつづけながらも、又次郎は、本をむさぼり読んだ。J・S・ミルの『自由之理』、J・ベンサムの『立法論綱』『政治真論』といった西欧功利主義に傾倒していった。


 普請場の()の上で演説をするほどだった。


 又次郎は、「言論の自由」「地租軽減」「外交の挽回」を求める三大事件建白書が出された明治二〇年に立憲改進党に入党した。父と親しかった横須賀町戸長役場に勤務していた戸井嘉作の誘いを受けてのことである。


 戸井は、火の玉のような闘志をもった又次郎ならば、政界で必ず大成すると踏んだ。はじめは渋っていた又次郎を口説き落とした。


 目兼親分の所属していた自由党の壮士が憎くてたまらなかった又次郎は、引き受けた。

「自由党壮士撲滅のため、ひと肌脱ぎましょう」


 又次郎は、戸井とともに、明治二二年に横浜市、(たち)(ばな)(ぐん)、三浦郡の改進党勢力を結集し、一市二郡同盟会をつくった。この同盟会を基盤として、神奈川県の改進党の勢力を伸ばしていった。


 又次郎は、明治二二年五月には、「東京横浜毎日新聞」の記者となった。


 明治二七年前後に、綾部ナオと結婚した。ナオは、品川駅前の飲食店「立花屋」の娘で、横須賀に芸妓に出ていて又次郎と知り合った。中背、肉づきのいい働き者であった。


 横須賀のドブ板通りで玉突き屋を経営したりした。


 又次郎は、明治三一年一〇月横須賀に移り、日刊「公正新聞」を創立。三三歳で社長兼主筆となった。


 又次郎が政界に打って出たのは、明治三六年九月二五日に行われた神奈川県会議員選挙が初めてであった。初当選を果たした。


 又次郎は、当選後の初県議会から、精力的な活動をはじめている。議長問題、治水費用のスキャンダル、県立第三中学校建設問題で県政刷新の立場から一年生議員とは思えぬ論陣を張った。


 明治四〇年三月には、横須賀市議会議員に当選、のちに第四代市会議長に就任した。


 そのころ、又次郎は、友人に頼まれて、友人の知人が売った娘の請け出しに、横浜の女郎屋に出かけた。急に頼まれたことで、又次郎は、弟の金三の着物を借り、夏羽織を引っ掛けていった。


 しかし、いくら金をつくったといっても、相手は女郎屋のおやじである。難癖をつけられて、一筋縄ではいかないだろうと覚悟した。


 ところが、女郎屋のおやじは、信じられないことだが、平身低頭して、なにもいわずに娘を渡してくれた。じつは、又次郎の引っ掛けていた弟の着物は小さくて、はだけた襟のあたりや、手首から、刺青が見えたのである。それを見て、おやじは恐れて渡したのだった。


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