読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-1
kiji
0
1
1080551
0
強い日本を取り戻す!〜悪しき戦後政治からの決別〜
2
0
5
0
0
0
0
政治・社会
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
◇ソ連に接近しようとした木戸幸一の狙いは何だったのか

『強い日本を取り戻す!〜悪しき戦後政治からの決別〜』
[著]辻貴之 [発行]扶桑社


読了目安時間:6分
この記事が役に立った
5
| |
文字サイズ



 左翼と近い距離にあったのは、石原莞爾や陸軍統制派だけではありません。昭和天皇の側近中の側近ともいえる近衛文麿や木戸幸一にも、よく似た側面がうかがえます。体制の中枢に左翼に近い人物がいたことは、きわめて重大なことです。

 近衛については、すでに多くのことが論じられています。マルクス主義者の巣窟ともいえる昭和研究会は、近衛のブレーン集団であったことだけを指摘し、ここでは木戸1人に的を絞ります。木戸は昭和15年6月から昭和2011月まで、内大臣に就任していました。昭和天皇にもっとも近い地位であり、内閣が倒れた際に後継首班を指名するうえで、一番影響力のある立場です。

 木戸は近衛と同じく、京都帝国大学法学部を卒業しました。そして、河上肇の影響を受けており、若い頃はかなり左派色が強かったようです。しかし、明治の元勲・木戸孝允につながる家柄ということもあり、農商務省に入省後は、とんとん拍子に昇進しました。ただ、本書が扱うのは、昭和20年以降のことに限定します。

 木戸の実弟に和田小六がいますが、その娘は戦後一橋大学の学長となった都留重人と結婚しました。その都留ですが、GHQの一員として来日し、ソ連のスパイだったとの疑いが濃いE・ノーマンと密接な関係にあったのです。ともにアメリカのハーバード大学に留学中、親交を深めたのでした。

 ソ連に近い人物が周辺にいたことも関係したのか、木戸は昭和20年、ソ連を仲介した終戦工作に乗り出しますが、その辺の事情を田中英道・東北大名誉教授の著作『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社)は、以下のように書き記しています。


  無警戒といえば、日本にも世界の容共の動きに追従すべきだという政治家も指導部にいたのである。とくにソ連との交渉によって、戦争を終結させようとした(中略)天皇の補佐をしていた木戸幸一が、ある側近に次のようなことをいっていたという。

 《共産主義と云うが、今日はそれほど恐ろしいものではないぞ。(中略)》《今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかと云う機運があるのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることとなるのではないか》(『宗像久敬日記』)と。会話の中であるから確かではないが、宗像自身はそれを不安に思って《ソビエットと手をにぎり共産主義でゆくべきかは之は大いなる問題なり》とその日記に認めている。


 宗像久敬がこの日記を書いたのは3月3日のことですから、木戸はその前から、ソ連との連携を考えていたのは間違いないでしょう。木戸が外務省に送り込んだ都留が同年3月から5月まで、クーリエ(伝書使)としてソ連に出張しています。

 木戸が具体的な行動に出るのは、同年6月になってからです。「時局収拾対策試案」を起草した木戸の狙いは、「天皇陛下の御親書を奉じて仲介国と交渉」し、名誉ある講和を図ることでしたが、仲介国とはもちろん、ソ連のことです。実際、近衛が特使に選ばれますが、ソ連には受け入れる意思はありません。1945(昭和20)年2月のヤルタ会談において、スターリンはドイツ降伏後の対日参戦を密約していたからです。それゆえ、この試み自体は失敗に終わりますが、こうした動きが終戦を決断する天皇の聖断につながった面はあります。

 木戸はソ連に対し、多大の好意を寄せていたのです。いや、それどころか、敗戦後の日本へのソ連の影響力拡大を目論んでいた可能性すらあります。
『別冊正論Extra15』(産経新聞社)に掲載されている、近現代史研究家の加藤康男氏の論文「近衛か風見か木戸か 政府中枢の『売国奴』は誰だ」も、非常に参考になります。一部を引用します。


  さて問題は、ノーマンからそこまで絶賛された「有能なマルクス主義者」都留重人が、内大臣と肝胆相照らす親戚づきあいを、戦時中にしていた事実についてである。

  昭和二十年五月の空襲で家を焼失した木戸は、鉄筋コンクリート製の家に住む弟・和田小六とその女婿一家の屋敷に同居する。

  それまでの三年間近くも木戸と都留はしばしば会食していたが、そうなると連日のように木戸の相談相手は都留に絞られるようになった。

  終戦直後、ノーマンは共産党幹部を解放する一方で、木戸と近衛の「戦争責任に対する覚書」をGHQに提出した。

  ノーマンへの貴重な情報提供者は当然、都留重人であった。都留の情報をよすがとしてノーマンが総司令部宛に作成した二通の「覚書」から要点のみ抜粋してみたい。


 以下、覚書の要点が書かれていますが、ここでは、要点のそのまた一部を紹介するにとどめます。まずは、木戸に関する覚書です。


  かれは考えられるあらゆる影響力を使って、天皇とその顧問たちに降伏の必要を説いた。かれは果断で鋭敏な人物であり、友人でかつて後援者であった近衛とは対照的に、心が決まれば敏速に行動する(『ハーバート・ノーマン全集』)


 こうした指摘は、虚偽そのものです。天皇に対し降伏の必要性を最初に説いたのは、近衛です。近衛上奏文を天皇に提出した昭和20年2月14日のことです。

 続いて、近衛に関する覚書です。


  近衛にはコンプレックスがあったし、ときには特に政治的に矛盾した性格があった。彼は弱く、動揺する、結局のところ卑劣な性格であった。(中略)近衛は、病的に自己中心で虚栄心が強い(前掲書)


 2通の覚書の好対照ぶりには、驚くしかありません。この覚書の影響もあって、新しい憲法をつくるようにと示唆されるなど、マッカーサーから厚遇されていた近衛は戦犯指名され、自ら命を絶つに至ったのです。

 京大教授などを歴任した筒井清忠氏の著作『近衛文麿』(岩波現代文庫)は、こうした経緯を以下のように述べています。


  近衛が自殺した時、ノーマンは「ショックを受け、深刻に悩んだ」というが、ノーマンは近衛内閣を書記官長・司法大臣として二度にわたって支えた風見章とは青年期に長野にいた頃からの知人であった。近衛の性格も知っていたはずであり(「かれは、弱く、動揺する」)、あれほど激しい覚書を出すことが何を結果するか予期できなかっただろうか。もっとも、いずれにせよ、数年後にはノーマン自身が激しい反共攻撃の中で審問を受け政治的に人を裁くことの恐ろしさを身にしみて知ったはずである。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
5
残り:0文字/本文:2595文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次