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「反日思想」歴史の真実
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政治・社会
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◆西洋諸国の植民地から日本を護るためであった朝鮮出兵

『「反日思想」歴史の真実』
[著]拳骨拓史 [発行]扶桑社


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 倭寇により中国・韓国の日本への憎悪は増していったが、これらをリセットする事件が発生する。

 豊臣秀吉(?〜一五九八)による文禄(ぶんろく)慶長(けいちよう)の役(明国征伐)である。日本では「秀吉の朝鮮出兵」という方がご存知の方も多いかもしれない。

 正確には憎悪をリセットしたという表現は適切ではないかも知れない。文禄・慶長の役は、倭寇以上の憎悪を中国・朝鮮にもたらすことで、彼らの憎しみを次のステージへと押上げたからである。

 文禄・慶長の役については、日本があたかも一方的に負けたかのように思っている人も少なくはないが、中国側の正史である『明史』には、

「秀吉は前後七年にわたって朝鮮半島を侵したが、明・朝鮮軍は数十万の部隊を壊滅させ、数百万にも及ぶ兵糧を費やしたが、日本軍に勝てる勝算はなかった。秀吉が死ぬことで、戦争は終焉し、諸侯も退いて元の任務に帰ることができ、枕を高くして休めるときが来たのである」


 との記載があるように、明は「日本軍に勝てる勝算はなかった」と述べ、秀吉が死んだお陰でホッとしたという真情を吐露しているのである。

 当然、巷間(こうかん)伝わるように補給の不足などで、日本は苦しい戦いを強いられたが、対する明軍も「勝算がない」というまでに追い込まれていたのである。

 ここで簡単に文禄・慶長の役について説明をしておこう。

 秀吉が天下を統一したとき、世界は西洋諸国によって植民地政策が押し進められていた。

 彼らが得意とした方法は宣教師の活用であり、概ね次のような段階があった。

  教師を送り込んで、大衆にキリスト教を布教し、現地の信者をつくる。

  信徒たちから土地などを寄付させながら、信徒たちに内乱をおこさせ軍隊を派遣して侵略する。

  現地政権を打ち倒し、植民地支配をする。

 これは日本も例外ではなかった。日本にいた宣教師たちは、中国侵略の先端基地としての日本の役割を期待し、日本征服を考えていたのである。

 宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノオは、フィリピンの総督フランシスコ・デ・サンデに対して、中国侵略のためにもいち早く日本を征服すべきであるという意見書を提出しているほか、十五年も日本に滞在していたペドロ・デ・ラ・クルスという宣教師も、イエズス会に対して「日本は海軍力が弱く、島国で分断されているので、九州・四国を摂るのは簡単でありキリシタン大名と提携して領土を獲得しよう」という秘密計画を送っているのである。さらには日本人の子弟をスペイン人が教育してしまい、中国征服のための兵隊として調達できるように事前計画を立てているのである。

 この一連の動きは、ペルーやメキシコで実際に宣教師たちが行い、成功した方法なのであった。

 そして秀吉の統治時代、宣教師に煽動された日本のキリスト教信者たちは、寺社仏閣を破壊してまわり、貧しい男女や子供たちは奴隷として宣教師の奴隷か、海外へと売り飛ばされたのであった。

 これらの宣教師の不穏な行動は、秀吉の知るところとなっていた。秀吉が下した「バテレン追放令」などはこれを防ぐために行った英断であったのだ。

 宣教師の魔の手から日本を救うためにはどうすれば良いか……。秀吉は苦悩した。そこで秀吉が考えた案は、日本・中国・インドの三国を統一させ、西洋の侵略者からアジアを守ろうというものであったのである。

 ところが肝心の中国は、これらの危機感がまったくなく、動く気配はなかった。それに業を煮やした秀吉はついに明国征伐を決意する。日本では朝鮮出兵などといわれるが、もともと気宇壮大(きうそうだい)な秀吉には、朝鮮などは明国征伐のための道案内程度の認識であり、眼中になかったのである。

 もっとわかりやすく言うならば、西南戦争を事例に挙げると良いだろう。

 西郷隆盛が熊本城を攻撃したのは、熊本城を占拠することが目的だったのではなく、馬関から大阪にいって、東京へと進撃するための通過地点に過ぎなかった。

 これが熊本で戦闘があったからといって、最初から西南戦争の目的は熊本の占拠であったかのように主張すれば、多くの人はクビを傾げるだろう。

 秀吉の明征伐もこれと同様であり、朝鮮は通り道であって目的ではない。秀吉が朝鮮を占領しようとしたための出兵であるように言われるのは、秀吉もさぞや心外であろう。

 朝鮮からは道案内の諾否(だくひ)もない状態であったので、怒った秀吉は明もろとも朝鮮を征伐することを決意。一五九二年に一六万の大軍勢をひきいて侵攻を開始したのであった。これを「文禄の役」という。

 日本は四月一二日に朝鮮半島に上陸するが、わずか一ヶ月たらずでソウルに無血入城をはたす。そして六月一五日には平壌にも無血入城することに成功。まさに破竹の進撃となっていたのである。

 だがここが日本軍の攻勢終末点でもあった。進軍速度が速まるにつれ、兵糧の補給が十分にいかなくなってきたこと。日本の朝鮮統治がスムーズにいかなくなってきたことなどで、段々と雲行きは怪しくなっていく。

 そこに明国が援軍を朝鮮に派遣してきたのである。

 朝鮮は、開戦直後から明国に援軍を要請していた。だが明国はそれを渋っていたのである。

 だが日本軍の侵攻があまりにも速いため、中国北東部の防衛に危機感を感じた明国は、ついに出陣を決意したのであった。

 これにより明・朝鮮連合軍は、日本軍と一進一退の攻防を繰り広げることになる。

 互いに疲弊してきたため、日本・明国相互から和平交渉が開始されることになるが、明が提示した条件は秀吉を「日本国王」に任じるとするもので、臣下としての扱いで勘合貿易を許可してやる、というものだった。

 秀吉がこれを読んで激怒しないわけがない。怒りのあまり、明の使者がもってきた国書を床に叩きつけたと伝えられている。

 そこで秀吉は一五九六年、再度一四万人の軍隊を派遣する。「慶長の役」である。

 この戦いは秀吉が逝去するまで続き、その死をもって日本軍は撤退。戦争は終結した。

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