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(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

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コミックばかり読まないで
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ルポ・エッセイ
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はじめに

『コミックばかり読まないで』
[著]昼間たかし [発行]イースト・プレス


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  人間の最も大切な自由は、

  自由になろうとする自由である

  ──竹中労(元祖ルポライター 遺作『たまの本』一九九〇年)




 ルポライターという職業は、休息とは無縁だと思っている。

 取材をするという行為はペンとメモ帳、あるいは録音用のレコーダーを手にしている時にだけ成立しているのではない。なにげない日常風景の一つひとつが、なべて作品の中へと投じられている。これは、雑誌やネットメディアの短い記事でも長編であっても変わらない。

 編集プロダクションを経て、フリーの「ルポライター」として屹立(きつりつ)することを志してから、一刻の安息もなく原稿用紙のマス目を埋めて、預金通帳に印字される資本のパンくずのような金額に一喜一憂する日々が未来に向かって続いている。それを支えているのは、まがりなりにも知的職業に就いているプライドであろうか。

 否。そんな安っぽいものでは三日と持ちこたえることはできない。夢見ているのは、社会的地位の向上ではなくボロをまとってでも興味の赴くままに取材し、書き、発表された記事が時として見知らぬ人々の心を揺さぶっていることへの歓喜にほかならない。

 発表した原稿に対して寄せられる声なき声は、賞讃ばかりではない。「最大級に酷い」「頭悪い」「また昼間たかしか」いかなる言葉を浴びせられようとも、それで構わないのだ。強がっているのではなく「三文文士(ルポライター)」の屹立は、かくあるべきだと思っているからだ。

 取材の成果が賞讃と罵倒とがないまぜになるほど、見知らぬ人々の心を揺さぶることを思うと、私の心は爽快になるのだ。私が求めているものは、社会的な地位や名誉とは真逆の側にある。最底辺の地獄から世界を獲得することなのだから。

 元来、人間は表現をしなければ生きていくことができない。テクノロジーが発達した現代、印刷や運搬の手間をかけることすらせずに、自らの表現を世に送り出すこともできるようになった。誰もが輝かしい表現の送り手になることができる時代。だが、そこにはきらきらとした輝きや幸福は存在しない。溢れかえるのは劣化コピーのまがいものばかりだ。志などなく世の中をうまくわたり歩くことに長けた批評家。あるいは軽薄な学者。そのほか横文字や造語を散りばめた珍奇な肩書きを客寄せに使う人々。さらにはそれらを劣化コピーしたような人々が「自分もあのステージに立ちたい」と夢を見ているのだ。

 それらは、企業や権力とも結び付き、ガン細胞のごとく世の隅々へと増殖している。著名人や政治家、企業のトップと知り合いだと吹聴し会食していることを自慢げに語ったり、政府が有識者を集めた会議の委員になることで政治を動かすことができるかも知れないと夢想し、手に入れた名刺に印字された会社の名前を見て喜ぶ……。そんな虚飾に人生を費やすのは無駄である。だが、まがいものの言葉や人はかっこうの消費物になっている。

 気がつけば老若男女を問わず政治は気軽に書き散らすことができるようになった。

 とりわけ東日本大震災以降「脱原発」の盛り上がりを経て「安保法制」へと続く政治課題は、新たな時代を生み出している。時の政権を批判する本は大量に消費され、論客は絶賛されているようにも見えるが、その実態はみせかけのフィクションである。幾万の人々が集まったとしても、なんら社会を変えることはできないだろう。近代国家だとか憲法だとか、ここ百年ほどの間に組み立てられたマボロシをどこかでアタリマエのモノとして勘違いしている人ばかりになっているような気がする。

 かくて、人間は本能的に持っていたはずの自由を忘れている。自由になろうとする意志は、人間にとって本能的に存在していたはずなのに。

 これまで、私は長らくマンガ・アニメの世界を取材してきた。その中でも「表現の自由」というテーマは半ばライフワークのようになってきた。でも、取材を重ねれば重ねるほど「表現の自由」の正体がわからなくなっていった。いくつもの法律や制度をめぐって「表現の自由」が問われてきたが、本当に表現は自由になったか。あるいは、そもそも表現が自由であった時が人類史上に存在したのかも判然としない。それもそのはず「表現の自由」とは法律や制度の枠組みの中で、守る守らないを議論するものではない。人間一人ひとりが、本能として持っている表現しようとする意志こそが問われているのだ。

 虚飾にまみれた現代は、人間がそうした本能を持ち合わせていることを忘れさせている。ルポライターとはその本能を取り戻そうとする職業なのだと私は考えている。そして、本能を取り戻そうとする意志は、ルポライターに限らずおおよその表現を志す人が、どこかに必ず持っているものだと思う。けれども、本能を取り戻すのは並大抵な作業ではない。

 先日、旧知の編集者から物書きを志している若者に会って話を聞いて欲しいと頼まれた。学生の頃に純文学を学び、今も会社勤めの合間を縫って創作を教える講座に通っているという若者は、カバンいっぱいに講座の課題を詰め込んでやってきた。私はその課題が作品と呼べるのかどうか語るべき言葉を持ち合わせてはいなかったが、何かを表現したいという意志だけは感じることができた。プロの書き手になることができるならば、どんなジャンルでも挑戦してみたいという若者に、締め切りの決まっていないネット媒体の書評原稿を書いてみないかと聞いてみた。若者は、それを予期しなかった幸運だと喜びながら帰っていった。

 だが、なぜか感想すら送られてくることはなかった。なにか気後れしているのだろう。最初は誰でもそうである。曲がりなりにも講座の課題とは違う商業原稿を書くことを、最初から楽々とこなせる者などいない。そう思って、携帯電話でメールもしてみたけれど返事が来るのはいつも遅かった。それでも、幾度かは会って話を聞いたり取材の現場に呼んでみたりもしたが、次第に最初の情熱は戸惑いへと変わり、ついに体調を崩してしまった。

 この若者は、毎日決まった時間に会社に行き、決まった仕事をこなす。そんな型にはまった生活から逃れたい、と願っていたはずだ。かつて私も同じ思いを抱いていた。そのために導き出した答えが「書く」ことであり、ルポライターを志すことだった。だから、この若者も書くことに可能性を見出していたことは間違いない。この若者も同様に型にはまった日常から抜け出すことを考えていたはずだ。戸惑いの表情は、体制の網の目からこぼれ落ちることへの恐れだったのだ。

 ルポライターを生業にすることは、書くことが好きだとか本を読むのが好きということとは、まったく異なる。そのことを初めて知り、恐れたのだろう。(らん)()を身にまとう未来の自分を。だからといって、この若者を責めることなどできない。社会人の大多数は、体制の網の中で未来を見据えながら懸命に生きている。その網からこぼれた私のほうこそが愚か者なのだから。

 様々な表現を生業にすることを志す者は尽きない。

 春先、東京ビッグサイトで開かれたアニメイベントの帰り道。東京駅行きの都営バスの停留所でバスを待っていたら、東北なまりのような言葉で話しかけられた。声の主のほうを見てみると外国人の女性であった。初めての来日。荷をほどいて最初にやってきたのが、このイベントだという。話しているうちに「携帯電話の充電器が壊れて困っている」というので、バス通りの途中にある家電量販店に案内することにして、もう少し話を聞いてみることにした。西ヨーロッパの某国からやってきた、という彼女は、日本で声優になることを夢見て10代の頃から、かれこれ十余年あまり日本語を学んできたという。そして得た、ワーキングホリデービザで来日する機会。この一年の間に、チャンスを摑みたいのだという夢を希望に満ちた瞳で語り続けた。

 マンガ・アニメ文化が世界のあちこちに広がり、秋葉原を歩けば夢の国に訪れたかのように楽しむ外国人を見かけることも珍しくはなくなってきた。以前、秋葉原のプラモデルを売る店で中国人の夫婦に「子どものお土産にどれがいい?」と零戦のプラモデルを指しながら聞かれた時、もはや文化は容易に国境を突破するのだと実感した。そうして、日本のマンガやアニメを消費する立場を超えて自らも表現をする側になって身を立てようとする者があらゆる国で生まれてきている。あまつさえ、彼女が志しているのは多くの若者たちが夢を見て学校や養成所に入っては挫折していく、というイバラだらけの道である。なのに僅かな可能性を摑もうと、遙か異国までやってくる。私はこのような冒険心を好む。

 そして、最後にもう一人。ある知人からこんな依頼をされた。
「中学生の娘が、マンガ家を目指しているので話を聞いてやって欲しい」

 これはまた大変なことだと思った。編集者の技量など私にはなかったからだ。それと同時に、年齢に見合った落書きのようなものを見せられて、言葉に詰まったらどうしようとも思った。ところが、実際に会ってみて驚いた。イラストは年齢に見合ったものだったが中学生ながら意志の強い眼を持った少女は、このまま高校にも行かずアシスタントかなにかの形で、一日でも早くプロの現場で修業をしたいと語るのだった。マンガ家になるのであれば、どんなに厳しくても本格的に修業をしなくてはならない。それは、早ければ早いほうがいい。おそらく、同世代のマンガ好きな男女は、イラストを描いて身内で見せ合ったり、せいぜいネットで公開しているくらいだろう。ところが、彼女はそうした年齢相応の世界をよしとせず、プロになるきっかけを求めていたのだった。

 その時、彼女と話した中で私は、(ふじ)()()()()の自伝的作品『まんが道』の中のエピソード。藤子不二雄を仮託した主人公・満賀道雄が藤子・F・不二雄の分身・才野茂の才能を目の当たりにするくだりを話した。


 才野茂に圧倒された満賀道雄は、今まで持っていたまんがに対する自信をみな捨てた。彼はフリダシにもどり、ゼロからまんがの勉強を真剣にやることにした。

 まず、彼がやり出したのは風景や人物のスケッチを徹底的にすることだった!
(『愛蔵版 まんが道』第4巻 中央公論社)



 この僅かな話が、彼女の意志にさらに火をつけたのか。後日、父親から「あれから、さらに毎日、デッサンに励んでいる」という連絡を貰った。高校・大学・就職と人生のルートが固定化された現代社会そのものに叛逆するかのように、一日でも早く表現する自由を、自由に表現をする世界を求めようとする意志。それを「無謀」と呼ぶことができるだろうか。やはり、人間は本質的に自由になろうとする生き物なのである。

 表現をすることで身を立てたい。それは半ばおとぎ話である。そして、人生は雲を追いかける上り坂ではなく、転げ落ちないように必死で身体を支える下り坂である。そんな中で、地を這いずるような無謀な道を選ぶことを多くの人々は呆れかえった目で見るだろう。だからこそ、世に自らの表現を問うことの歓びと誇りが生まれるのだ。

 名刺に輝く会社名や役職に生きがいを感じたり、万全な人生設計を信じて疑わず体制からこぼれ落ち地を這う姿をよしとしない人は、そっとページを閉じることをオススメする。

 人生に残された時間は少ないのだから。

昼間たかし
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