『定年力』
[著]多湖輝
[発行]ゴマブックス
まず、「定年力」とはどんな“力”なのでしょう。“力”とつけば、いかにもバリバリとパワフルに毎日を送るようなイメージを思い浮かべます。「青年力」や「中年力」だったらそうした印象で正しいかもしれません。
しかし、私がここで提案しようとしている「定年力」は、むしろそうした力強さより、ゆったりと人生の実りを味わう無理のない生き方の一つの表現なのです。
それは、けっして世の中からはじき出された消極的な生き方ではなく、また別の意味での“強さ”を持った積極的な生き方と言っていいでしょう。その意味で、定年世代には、青年世代や中年世代の持つ“力”とは違った、定年世代特有の充実した人生を送っていく“力”がある、それを称して「定年力」と言おうというのが私の考えです。
ですから、よく言われるように定年後の人生は“おまけ”の人生であり、余った人生、“余生”だという考え方にも、私は反対です。「余生という考えはヨセー」と私がよく駄ジャレで言うのも、そんな理由からなのです。
こんなことを考え、私は人生は楽しいのだからできるだけ長生きしたい、「百歳まで生きてやる」とつね日ごろ公言しています。ただ、それは一つのポーズであり、現実味がありませんから、実際のところは八十歳あたりにめどをつけています。
もちろん、もっと生きられるかもしれませんが、その年齢ぐらいがまだ健康で、物事に対してある程度正確な判断もくだせ、海外へ行けるぐらいの気力や体力を持ち合わせる限界かもしれないと考えているのです。
そして、もし言うならばその先がまさに“余生”であって、もしその年になっても健康でピンピンしていたとしたら、それこそ“おまけ”であり、もうけものです。そのときにはそのときでまた生活設計を変え、新たな人生をスタートさせようと考えています。
六十歳で自分のこれからの生き方について決断をくだしたとしたら、八十歳まで二十年もあります。二十年もあれば人間、相当なことができるはずで、場合によっては一旗あげて、六十年かけてやってきたことより、成功をおさめることさえないとは言えません。
ただ私に言わせれば、この二十年間はあまり無理をしてつらく苦しい道のりを歩むよりも、そこそこの生活のレベルを保ちながら、充実感を味わえて、自由で楽しい生活を送るほうがいいと考えます。あまりにも目標を高くかかげすぎたために、それが重荷になって、苦労の連続だけという人生ではいかにもつまりません。
やはり目標を立てるならば、ちょっと手をのばせば届くようなところに目標を置いたほうがいいのではないでしょうか。目標をわりあいかんたんに達成できればそこで達成の喜びが味わえますし、そうするとそこでまたつぎの目標が立てられます。要するに、会社や子育てという束縛からのがれ、自由になったのをいいことに、あれもやりたい、これもやりたいと欲ばりすぎないほうがいいということです。
その意味では「青年よ大志をいだけ」に対して、「盛年よ小志をいだけ」です。
私は何事にもあまり無理をしないで、「自然体」で生きていこうと考えています。太く短く生きるか、細く長く生きるかという大きな命題に対して、私は太く短く生きるほうを選びますが、だからといってことさら太く短くする必要もないわけですから、自然体で構えてほどほどの人生が送れればそれでよしとします。
ですから健康についても、フィットネスクラブに通ってまでからだを鍛えたり、ジョギングやなわとびをやって足腰を強化しようとは考えません。そのかわり、足腰が自然に鍛えられるための最低限のことは行なっています。
たとえば、家内といっしょに暇を見つけては気楽なゴルフをやっていますが、これは一生懸命歩かなくても、ラウンドするうちに自然に歩けているよさがあります。また、近いところならばなるべく車を使わないで歩いて行こうとか、ときにはエレベーターやエスカレーターを使わないで階段を歩く、というようなことです。これだけでも健康にいいはずです。