『日本夫婦げんか考』
[著]永井路子
[発行]ゴマブックス
夫に棄てられて?……
あらざらむこのよの外のおもひでに今一度のあふこともがな
百人一首でおなじみのこの歌の作者、和泉式部は、王朝の女流歌人中最も歌のうまい才女であったが。同時に、恋愛道のチャンピオンでもあった。
彼女の相手になった男性は、おそらく十指にあまるに違いないし、それも皇族とか貴族、金持等々、ソウソウたるメンバーである。中でも有名なのは、冷泉天皇の皇子、為尊、敦道両親王との恋の物語であろう。
この二人の親王は当時のプレイボーイとして有名な存在だった。しかも和泉式部は、為尊親王と激しい恋におちながら、親王が死んでしまうと、一年も経たないうちに弟の敦道親王と恋をはじめる。このいきさつを書いたのが例の『和泉式部日記』である。
敦道親王のまわりの眼がうるさくなって、式部の所へ通って来られなくなると、親王がよこした迎えの車に乗って、出かけていってひそかにデイトを重ねたこともあった。今考えれば何のこともないようだが、当時女が外で男に会うなどということは、常識では考えられないアバンチュールだった。今ならさしずめ、女の子が男の子の家にこっそり近づき、家人に知れないように非常口からしのびこんで、そのベッドの中にもぐりこむ、とでもいうところだろうか。
またあるときは、知人の車宿(車庫)に車を入れたまま、その中でしのびあったこともある。相手が親王であるために他人の眼がうるさく、二人はいろいろな知恵を働かせて逢瀬を作りだしたのだが、プレイボーイだった親王は、この目先の変ったアバンチュールを、けっこう楽しんでいたのかもしれない。
が、とにかく親王をここまで踏みきらせたのは、和泉式部の魅力である。
――この女は手放せない。
と思ったからこそ、彼女に執心したのであろう。敦道にかぎらず、彼女のまわりには、一流の貴族たちがかなり出入りしていたらしく、彼らとやりとりした歌も家集の中にたくさん残っている。その限りでは、彼女の男運はまったく御隆盛のきわみなのである。
が、それなのに――。
彼女の夫運はきわめてよくない。前夫橘道貞とは離婚しているし、その後結婚した藤原保昌ともあまりうまくはいかなかった。