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清原和博 栄光と破滅への軌跡
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エンタメ
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第1章 清原和博の履歴書

『清原和博 栄光と破滅への軌跡』
[著]国内情勢研究会 [発行]ゴマブックス


読了目安時間:17分
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1.幼少期=王パジャマと長嶋パジャマ



 清原和博(1967年8月18日生まれ)の実家は、大阪府岸和田市の電器店(東芝ストアー)。父(清原清文氏)は大の阪神タイガースファンだったが、母(清原弘子氏)は巨人ファンであり、その影響で自身も巨人ファンとして育ちました。


 少年時代の清原は、いつも巨人の帽子をかぶり、パジャマは母が手作りしてくれた背番号1の「王パジャマ」と背番号3の「長嶋パジャマ」を愛用していました。寝るときはその日の試合で活躍した方を選んで着ていたそうです。


 野球にさらに傾倒していったきっかけは、1974年。家族が応援していた巨人は、中日ドラゴンズにV10を阻止された場面を目にしたからだともいわれています。またその翌年1975年は、前年に現役引退した長嶋茂雄監督率いる巨人が球団史上初のリーグ最下位に沈んだのを尻目に、万年最下位候補と揶揄されていた広島東洋カープがリーグ優勝をしたのを見せつけられました。母や家族が応援する巨人が2年連続で優勝を逃したことが、清原の野球への情熱を掻き立てたのです。


2.小学校~中学校時代=スラッガーの片りんを披露



 野球を始めたのは1974年、岸和田市立八木南小学校に入学した以降です。しかし当初は、木の棒で石ころを打ち返すという野球遊びに興じる程度でした。


 1976年、小学校3年生の時に、たまたま実家の近所の電柱に「岸和田リトルリーグの部員募集ポスター」が貼ってみるのを見かけ、まずは入団テストを受けることにしたのです。入団テストでは、非凡な才能の片りんを見せつけました。50m走で、岸和田リトルリーグの過去最高記録を更新、遠投は合格ラインの40mを30m上回る70mを記録。コーチの度肝を抜く好記録で入団テストを突破しました。


 岸和田リトルリーグに入団後は、毎日祖父から100円をもらい練習をしており、プロ野球選手に通じる金銭を貰って野球をする感覚が骨身に染み込んでいきました。


 1977年、6年生ばかりのレギュラーに混じり唯一4年生でレギュラーを獲得しました。その後投手としても才能を発揮し、6年生の最後の試合ではエースで4番を務め、完全試合を達成しています。


 その後、岸和田市立久米田中学校に進学するとともに、岸和田シニアリーグに移り、中学2年生にしてキャプテンとして関西シニアで優勝を果たしました。3年時には日生球場のネットを揺らす本塁打を放ち、高校野球関係者の注目を集めました。


 この日生球場のネットは、近鉄バファローズに所属していた“赤鬼”チャーリー・マニエルの打球が場外に飛び出すのを防ぐために特設された、通称「マニエルネット」のことです。


 清原は中学3年生にしてマニエル並みの打力を発揮できたのです。周囲の驚きは容易に想像できるでしょう。


3.高校時代=甲子園のスターに



 高校は30校近いスカウトの中からPL学園高校を選びました。最終的に天理高校かPL学園かどちらに行くかで悩んだのですが、天理高校の練習を見学した際に、毎年100人前後の部員を抱える天理高では3年生が練習をし、1年生が球拾いをしているのを目の当たりにしました。

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