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「邪馬台国」は北九州と『日本書紀』に ――なのに、なぜ論争なのか――
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歴史
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第二章 日本古代史像───一八〇度、違っている

『「邪馬台国」は北九州と『日本書紀』に ――なのに、なぜ論争なのか――』
[著]草野善彦 [発行]ゴマブックス


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一 「九州説もありえない」───「邪馬台国論争」史学の崩壊



 以上から「魏志」倭人伝の冒頭記事は、「郡から倭に至る」行程記事の結論を、最初に要約したものであることが判明します。きわめて分かりやすい文章です。「それでは九州説が正しかったということか」と言えば、実は古代中国史料にしたがえば、これも「否」です。「邪馬台国論争史学」の真の問題点は実はここにあるのです。この「倭国」・卑弥呼の王朝・国家の首都は、博多湾周辺───太宰府(後述)───にあるという記述は、一世紀から七世紀半ばまでにかかわる左記の、古代中国王朝の正史類の対日交流記の冒頭に例外なく記されているからです。引用文の傍線部分は、「倭国・俀国」の「国邑」の地理的記載部分であり、ナミ線部分は当該中国王朝から「倭国・俀国」に、使者が派遣されたことが記されている部分です。


 『後漢書』倭伝  「倭は韓の東南大海の中にあり、山島に依りて居をなす。」


 『宋書』倭国伝  「倭国は高驪の東南大海の中にあり。世々貢職を修む。……昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉し、寧処に遑あらず、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」。


 『南斉書』倭国伝 「倭国は帯方の東南大海の島中にあり。漢末以来女王立つ。」。


 『隋書』俀国伝  「俀国は、百済・新羅の東南にあり、水陸三千里、大海の中において、山島に依って居る。……魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず。……明年(六〇八)上、文林郎裴清を遣わして俀国に使せしむ。」。


 『旧唐書』倭国伝 「倭国は古の倭奴国なり。……新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。……世々中国と通ず。貞観五年(六三一年)……また新州の刺使(長官)高表仁を遣わし……二十二年(貞観、六四八)に至り、また新羅に附し表を奉じて、以て起居を通ず。」


 以上、それぞれの冒頭記事です。それはまるで『三国志』魏志・倭人伝の冒頭記事を、判でおしたようにいわば繰り返しています。しかも、これを古代中国人が「魏志」倭人伝の冒頭記事を、その後の「倭人伝・俀国伝・ 倭国伝」で漫然と繰り返したものと、到底言えないことは「倭国」から、中国当該王朝に使者が派遣されているだけではなく、魏のほかに隋・唐から「俀国・倭国」に使者が派遣されているからです。


 これらの記事の意味するところは、最低でも一世紀から七世紀までの七百年間、北九州に都城をおいた卑弥呼の国家・「倭国」が連綿として存在し、歴代、中国・朝鮮の各王朝にたいして日本本土を代表する国家として交流をしていたという、いわば近世~現代の「ヤマト朝廷一国史」である「日本古代史」とは、似てもにつかない「日本史」なのです。


 これは古田武彦氏が明らかにされ、命名された「九州王朝」説(『失われた九州王朝』、朝日新聞社、一九七三年、現ミネルヴァ書房刊)の正当性を示すものです。しかもこれは「万世一系の天皇制」なる“日本史論”の、政治的「資産価値」を空しくするものなのです。この「九州王朝」という語は本書では「倭国」とし、「倭国・大和朝廷論」を否定するものとします。


 これに対して戦前・戦後のさきに指摘した「九州説」の、「ヤマト朝廷に亡ぼされた論」や「東遷論」と、列挙した漢~唐の歴代中国正史類が記す「倭国・俀国伝・倭国」とは、似ても似つかないものであることは引用文で明らかです。まさに「日本古代史のコペルニクス的転回」です。とはいえ「邪馬一国の都城」の地を、約一三〇〇年もまえに『日本書紀』神功皇后紀が記しているのです。


 しかも、戦後の「邪馬台国論争史学」が一致して主張している、『宋書』の「倭の五王・ヤマト朝廷論」も、『隋書』俀国伝の国名を「倭国伝」と改竄して、「推古朝」に当てる戦前からの説も、すべて否定されてこれらは、みな北九州に都城をおく卑弥呼の国家とされているのです。この意味は、七世紀以前の『日本書紀』『古事記』の記載は、日本民族の歴史の事実を否定・改竄したものだということです。同時に、この点を明らかにしない“日本史”もまた、グルーが指摘した「それはすべて純粋に人工的に作りだされたもの……」となります。日本人にとって極めて重大な問題で、頬かむりではすまされないこととおもいます。


二 「倭国」はヤマト朝廷とは別の王朝・国家


史料の成立年代とその意味



 古代中国史料が記す日本古代像の「真偽」を考えるには、三つの角度があると思います。その一は、その史料・記録の成立年代およびその条件です、その二は、『古事記』『日本書紀』を含めて、その記載が人類の国家形成・発展の普遍性をそなえているか、反映されているかという問題です。この視点は、近世以降今日の日本古代史学に全く存在しません。大きな問題です。第三は、その記載の個々を実証的に検証しうるか否かという問題です。まず第一の問題から見ていきましょう。


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 以上ですが、その成立が『古事記』『日本書紀』よりおそいのは『旧唐書』のみです。しかし、後でみるとおりこの史料の対日交流記は、日中双方の濃密というべき人的交流にたって、かつ中国側の歴代王朝の裕福な歴史的記録の蓄積を踏まえて記されており、その信憑性は非常に高いものです。


 以上の史料の成立年代を見ますと日本古代史の探究では、歴代中国の正史類を基礎に探究すべきものというのが、史料の成立年代と成立過程からの自然な考え方と思います。その理由は、歴史的記録がその歴史的現実に近いほど、一般的には真実を反映したものと考えるのが自然だからです。同時に当該中国史料の対日記事は、すべからく「倭人」の訪中、ないしは当該中国王朝から「倭国」への使者派遣をふまえた記事であって、松下見林らがいう、いわゆる伝聞・憶測記事ではないからです。


 したがって一世紀の「倭奴国」記載のある『後漢書』から、七世紀の「倭国」記載がある『旧唐書』倭国伝まで、七百年間にわたって「倭国」の首都・都城を、「朝鮮半島の東南」と一貫して書いているこれらの記録は、古来「中国人は、西も東も分からない水準の劣等民族」ということが、国際的に一致して確認でもされないかぎり、事実の記載という他はないものです。


 この単純ながら不動の事実を無視して、「日本人だから日本の文献を第一にすべきだ。」という考え方だけでは、到底、「事実にたって真理・真実を探究する」という学問にはならないことは、「学問・芸術に国境はない」ことが世界的にも確認されている点からも、多々云々の必要もないこととおもいます。数百年間にわたる日本史の根本的で決定的事実、しかも単純なその記載を数百年間にわたって無視して何を云おうと、事実にもとづいて真理を探究する学問の権威は、そこに生じません。


戦後の「邪馬台国論争」の正体



 以上の考察から明らかになることは、実に戦後の通説の「邪馬台国論争」は、断じて『三国志』魏志・倭人伝の正しい理解や解明を探究したものではない、ということです。なぜなら正しい解明は「万世一系の天皇制は日本の伝統」なる、憲法第一条の「日本史」を葬るからです。ここにこの「歴史学」が『三国志』をはじめ古代中国正史類に対して、否定的態度に終始する理由があるのです。すなわち無実の者を有罪にする手口に通じているのです。そのきわめつけが「近畿説」です。その意図は憲法第一条死守という「資産価値」の擁護にあると考えます。


1 卑弥呼の記載は『日本書紀』『古事記』に一字もない



 以上の一世紀~七世紀の日中交流に関する古代中国正史等(以後、古代中国史料等という。等の意味は 『三国史記』等の古代朝鮮史料をさす)の記載が語るものは、卑弥呼の王朝である「倭国」は、「ヤマト朝廷」とは別の王朝で「北九州」に、少なくとも一世紀~七世紀まで連綿として、首都・都城をおいた真の日本古代文明を形成した王朝・国家であるということです。本書においてこれを検証し、通説の「日本古代史」と対照したいと思います。


 戦後の日本古代史学(以後、通説という)の「邪馬台国論争」では、卑弥呼を「近畿大和説」・「九州説・東遷論」ともに「ヤマト朝廷の始祖」とし、「倭の五王」も「ヤマト朝廷」と称し、また『隋書』俀国伝は戦前から「ヤマト朝廷」とされています。しかし、『古事記』『日本書紀』に卑弥呼・「倭の五王」のことが、なぜ一語もないのか、戦後の通説に説明がありません。またさらに『隋書』俀国伝に有名な例の国書、通説が戦前から聖徳太子が起草したという、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」も、『日本書紀』に一字もないのは何故か、合理的科学的な説明が求められます。


 ここに沈黙して「卑弥呼・ヤマト朝廷の始祖論」などをいうのは、中国文献も『日本書紀』も無視するという、歴史学の基本である文献への正しい見地を無視した、極端に恣意的な態度です。このような態度は世界の科学的歴史学には見られない、独断ではありませんか。


 歴史学とは今日生きている人間が直接には見聞できない、昔の社会とその仕組み、その出来事を知ろうという学問です。したがって文字がある時代の探究では、昔の人の見聞等の文字による記録───それは文献や金石文ですが───は決定的な資料です。


 これは近代ヨーロッパの古代メソポタミア史、古代エジプト史探究での象形文字の解読の決定的な意義、またトロイ、ミケーネ等の古代ギリシャ史の解明での「線状B文字」の解読の意味が強調されている点にてらしても、文献史料の意義は明らかです。


 わが国では戦前の「皇国史観」への批判の結果、「皇国史観」が絶対とした『古事記』『日本書紀』への不信から、文献への疑惑・不信があったとしても、それは『古事記』『日本書紀』に限定すべきもので、人類の歴史の文字による記録や金石文等一般に、その軽視や不信を普遍化する理由には断じてなりません。したがって少なくとも古代中国史料や、古代朝鮮史料にのみにあって『記・紀』には一語もないものを、「ヤマト朝廷のこと」というのは、著名な学者諸氏が一斉にそうされたからといっても、それに道理があるということにはならないのは明らかです。ここに『日本書紀』神功皇后紀の、『魏志』倭人伝からの引用記事の不可解さという問題をとりあげます。先述のように松下見林を筆頭にこの引用記事で、『魏志』倭人伝本文を訂正しようとする学者がいるからです。


 (1) 「(神功皇后)三十九年。是年、太歳己未。魏志に云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将て送りて、京都(魏都・洛陽)に詣らしむ。」(『日本書紀・上』、三五一頁)。


 (2) 「四十年。魏志に云はく、正始の元年に、建中校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。」(同頁)。


 (3) 「四十三年。魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊聲者掖耶約等八人を遣して上献す。」(同三五二頁)。


 以上ですが(1)の傍線部分の景初の三年」は「景初二年」、「大夫難斗米」は「大夫難升米」、「太守鄧夏」は「太守劉夏」、(2)の「建中校尉梯携」は「建中校尉梯儁」、(3)の「使大夫伊聲者掖耶約等八人」は「使大夫伊声耆・掖邪狗等」と、『魏志』倭人伝と文字が違っています。写した時の誤写というのが実際と思われます。これを戦後の「邪馬台国論争史学」のように、松下見林の『異称日本伝』を無批判に踏襲して、『魏志』倭人伝の「景初二年は三年の誤り」などというのは、ここにあげた『日本書紀』と、「魏志」倭人伝の文字の違い全体を示して、『日本書紀』を正当という理由と根拠を示さなければ、それは真の学問的態度とは云えないでしょう。


 この問題に関して坂本太郎氏は、「……紀(日本書紀)の撰者が中国の史書の示す事実を参考にしようとしたことは、うかがわれる。」(『六国史』、七七頁、吉川弘文館、一九九四年、新装版第一刷)とされています。しかも、戦後の「邪馬台国論争」史学が、「卑弥呼・ヤマト朝廷の始祖論」にたちながらも、一方では「神功皇后紀」のこの引用文で、『魏志』倭人伝本文を改変し、他方で「神功皇后紀」の福岡の香椎から新羅は、どの方角にあたるかという肝心の記述については無視・沈黙するのは、学者としては不見識といわれても仕方はないでしょう。


2 朝鮮史料『三国史記』の卑弥乎


 しかも、そもそも卑弥呼は単に『三国志』魏志・倭人伝に登場するだけではなく、『三国史記』新羅本紀の「巻二、阿達羅尼師今」に、「二〇年(一七三)五月、倭の女王卑弥乎、使を遣わし来聘す。」という記述で登場しています。


 一七三年、すなわち二世紀に卑弥呼は新羅と交流をしたと『三国史記』は、「卑弥乎」と記して書いているのです。通説はこれを「造作」としています。

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