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プロ野球ヒーロー伝説の真実
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まえがき

『プロ野球ヒーロー伝説の真実』
[著]小野俊哉 [発行]扶桑社


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 プロ野球が職業野球として発足したのは1936年です。

 東京巨人、大阪タイガース(阪神)、名古屋(中日)、阪急、大東京、名古屋金鯱(きんこ)、東京セネタースの7チームが産声を上げています。

 このとし、春の第1回日本職業野球リーグ戦の15試合が甲子園で開催され、プロ契約第2号選手の苅田久徳(ひさのり)が所属した東京セネタースが優勝。秋の第2回日本野球選手権は6大会の全99試合。優勝したのは巨人でした。18勝9敗ですが、大阪大会などにおける個別の勝ち点制では、巨人とタイガースが2・5点の同点。

 巨人はシーズン成績が185安打107得点、1本塁打。打率が・210の貧打。藤村富美男を擁するタイガースは256安打を放って178得点、5本塁打の猛打。打率・248。夏の連盟結成記念大会ではチーム打率・345を打ち、自信に溢れていました。巨人打線は、まだ打撃の神様・川上哲治や猛牛と呼ばれた千葉茂が入団する2年も前ですから、劣勢でした。4番の中島治康が三冠王を達成するのは2年後、秋のことです。

 さらに投手を見ると、タイガースは3投手で計18勝2敗。エース景浦将(かげうらまさる)の6勝0敗で防御率0・79が1位、を筆頭に藤村、御園生崇男(みそのおたかお)が強力でした。

 阪神、巨人による年度の優勝決定戦3連戦が、東京・深川に完成したばかりの洲崎球場で12月9日水曜から開催されることになりました。ただし、巨人で対抗できるのは、13勝2敗の最多勝を獲得した天才投手一人のみ。9月25日金曜、阪神−巨人の公式戦1回戦に先発すると、阪神打線を完封し、9回表に入った1点を守って1対0。甲子園でプロ野球史上初のノーヒット・ノーランを達成しています。

 その天才投手とは初代巨人のエース、沢村栄治(えいじ)

 年度優勝決定戦は、沢村が1、2戦を先発。初戦に景浦の3ランを許すも、巨人は頭脳的な2ランスクイズで加点。さらに、もう一度スクイズを重ね小技で沢村を援護。5対3で巨人。第2戦は5対3とタイガースが持ち直し、最終戦は、タイガースが2点を先制。4回に巨人が逆転し4点を入れると、5回から沢村がリリーフ。

 伝説の3連投によって巨人が4対2で逃げ切って勝利を飾り、2勝1敗。プロ野球初代王者にチームを導いたのは沢村の力投があったからです。

 この日、巨人の祝勝会が行われたのは東京・赤坂山王下の日本料亭、幸楽です。陸軍の皇軍派青年将校が未曾有のクーデター未遂事件を起こした二・二六事件は、この年。将校たちが本部として使用し立てこもったのが、この幸楽。

 選手たちは苦悩の末の優勝を喜び合い、飲み明かしたといいます。なぜ苦悩の末なのかといえば、この1936年に巨人軍は2月27日にサンフランシスコに到着。6月5日、横浜に帰国するまで、西海岸を中心に第二次アメリカ遠征の旅。滞米の84日間で76試合の過密日程をこなす武者修行をしていたのです。沢村はサンフランシスコ・シールズを5対0で完封するなど1111敗。前年の第一次アメリカ遠征では21勝8敗。長い移動。どこへ行っても「サワムラ人気」の連投に耐え、エースらしい成績を残しています。

 茂林寺での特訓も、同じとし。9月5日土曜からの8日間、藤本定義監督がチームをまとめるため課した地獄のキャンプ。1000本ノック、投げ込みが繰り返され、「毎日が真剣勝負そのものだった。巨人の土台を据えた」(遊撃手の白石敏男)。選手が宿泊した館林市駅前の吉野家旅館は、今はもうありませんが。

 それにしても、伝説のキャンプが、なぜ茂林寺の分福茶釜なのか。プロ野球の発足、発展に貢献した鈴木惣太郎(1968年野球殿堂入り)が群馬の出であることと関係しているのかもしれません(伊勢崎市の出身)。館林市の東武線、茂林寺駅。その線路沿いにあった分福球場も、今は大学の競技場に変わっています。

 まだ日本は慢性的な不況を抱えた厳しい時代だったはず。ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落した1929年の暗黒の木曜日(ブラックサーズデイ)に端を発した世界大恐慌。余波を受けた昭和恐慌ののち、1936年の消費者物価指数を調べると回復の傾向にあり、庶民生活も少しは落ち着いていますが、翌年は北京郊外で盧溝橋事件が勃発。日中戦争へ突入していくのです。

 その激動の最中に、今に続くプロ野球が始動していたことになります。エース沢村が力投し、巨人が初年度のチャンピオンに輝いた年度優勝決定戦。その第1試合の観客数は、1円の内野席が238人。50銭の外野席が1630人と記録されています。


 以降プロ野球は1年と休むことなく開催され続けました。日本が敗戦を経験していたにもかかわらず、これは奇跡的なことのように思えます。

 無条件降伏に至った1945年は、リーグ戦こそ中止を余議なくされましたが、関西では1月1日から5日まで甲子園と西宮球場で、実は4球団による正月大会が興行(3日のみ空襲警報で中止)され、8500人の観客を集めています。そして昭和天皇による玉音放送の8月15日から、わずか100日後の1123日金曜日。神宮球場で東西対抗戦が開催され、戦後最初のプロ野球に5878人が詰め掛けているのです。入場料は一律6円。

 プロ野球は戦争によって名選手の多くを失ったにもかかわらず、その苦況を乗り切り、一リーグ時代を経て、1950年にセントラル、パシフィックの2リーグへ分立。こんにちに至るのです。

 1936年の始動から74年が経過した2010年。セ・パの観客動員数を合わせると、レギュラーシーズンだけで2200万人を突破。2214万1003人を数えるまでに発展したのは、グラウンドで選手たちが投げ打ち走り、異彩を発揮。ファンを魅了し続けたからにほかなりません。

 2リーグへ発展した1950年以降の観客動員の累計は、9億1600万人に達しています。テレビ、ラジオで試合を楽しんだファンを入れると、プロ野球を観戦したファンの延べ総数は、その100倍以上でしょうか。


 異能のプロ野球選手たちは、どんな活躍をし、どんな伝説をファンに残してきたのか。王貞治の868本塁打、金田正一の400勝よりも、印象深い個性を持った選手はたくさんいたはずです。

 沢村栄治といえば、やはり伝説の豪速球でしょう。しかし、沢村は速球を語られるだけで終わるような投手ではありませんでした。

 沢村より3年も前にルー・ゲーリッグを料理。メジャー契約を打診された投手が早大に存在していた事実。ベーブ・ルースに「今、日本でもっとも優れた投手」と写真入りで紹介された、その右腕の武器は、速球よりも変化球とのコンビネーションでした。

 日本人メジャーリーガーが活躍する時代。速球ぐらいは日米を比べたくなります。つまるところ、誰が世界で一番速い球を投げたのか。調査を進めていくと新事実に遭遇、投手たちの生き方に驚きます。

 打者については、本塁打に着目。王貞治の最長の本塁打は、いったいどこまで飛んだのか。大下弘、清原和博やカブレラは、どんな場外弾を放ち、そもそも最長本塁打は、誰が打っているのか。

 プロ野球伝説は、豪傑揃いの豪快列伝だけではありません。ミスタータイガースの藤村富美男は、投手をやると、一塁走者の様子をうかがうのに前かがみになり、股間から見たといいます。ファンは大喜び。戦前の石田光彦は、十字架投手。胸で右手が十字を切ると、打者に尻を見せ、よそ見をして投げた幻惑投法でノーヒット・ノーランを2度も達成。

 異能の選手をすべて掲載し切れないのが残念ですが、ファンを魅了した選手の輝き、逸話を巡る旅は、それそのものが楽しいものです。

 時代を超えて夢を膨らませ、知られざるを知る喜び。これを読者ファンの皆さんと、たった1項目でも共有できたとするなら、私の目的は大きく達成された、そのように思う次第です。
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