読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/9/29 UP)

犬耳書店は、姉妹店のRenta!(レンタ)へ統合いたします。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-1
kiji
0
1
1088614
0
上杉謙信の生涯「1越後統一・2関東管領・3川中島、対織田」
2
0
1
0
0
0
0
歴史
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
越後守護上杉氏と守護代長尾氏

『上杉謙信の生涯「1越後統一・2関東管領・3川中島、対織田」』
[著]安西篤子 [発行]学研


読了目安時間:4分
この記事が役に立った
1
| |
文字サイズ



 上杉謙信誕生直前の越後の情勢は、混沌としていた。


 (りやく)(おう)元年(一三三八)、足利(たか)(うじ)が室町幕府を開いて以来、すでに百数十年がたとうとしている。三代(よし)(みつ)のころ、絶頂期を迎えたが八代(よし)(まさ)の治世における応仁の大乱を経て、幕府の権威は眼に見えて衰退した。


 中央政府である幕府のもと、地方には国ごとに守護がいて、国内を支配した。いわゆる守護大名である。


 しかし、幕府の(たが)がゆるんでくると、幕府の権威を背負っていた守護の権力も弱まった。代って台頭してくるのが、その支配下にあった守護代、あるいは国人と呼ばれる土着の小領主たちである。


 越後守護には室町幕府成立当初から、上杉氏が任じられてきた。


 上杉氏は、藤原氏の末裔と称する、藤原(かま)(たり)七世の孫勧修寺(かじゆうじ)(たか)(ふじ)から更に十代を経て、(しげ)(ふさ)のときに(たん)()国上杉荘に住んで、上杉と名乗った。


 この上杉氏が歴史の表舞台に登場するのは、()()()帝の皇子で鎌倉六代将軍に選ばれた(むね)(たか)親王の下向に当って供の一人に加えられて以後である。宗尊の帰京後も重房は鎌倉にとどまり、その子(より)(しげ)の娘(きよ)()が鎌倉の有力御家人足利(さだ)(うじ)に愛されて、(たか)(うじ)(ただ)(よし)を生んだ。


 尊氏が室町将軍になると、生母の実家として上杉氏は重んじられた。清子の兄(のり)(ふさ)上野(こうずけ)守護に任じられ、憲房の没後はその子(のり)(あき)が、上野に次いで越後の守護を兼ねた。


 その後、尊氏が弟直義と戦ったとき、上杉憲顕は直義に味方したため、上野・越後守護を取り上げられたが、直義の死後十年、尊氏の子(もと)(うじ)が鎌倉公方に任じられると、憲顕も上野・越後守護に返り咲き、更に関東管領・武蔵(むさし)守護も兼ねた。


 一族繁栄した上杉氏は、鎌倉での住所によって、「扇谷(おうぎがやつ)上杉」「(やまの)(うち)上杉」などと呼ばれる。関東管領・守護などは、一族の間で伝えられていった。


 この中で越後守護職は、憲顕の兄(のり)(ふじ)の「(いぬ)(がけ)上杉」に伝えられ、憲藤の子(とも)(ふさ)、養子(のり)(まさ)(憲顕の子)、その弟(のり)(ひで)、養子(ふさ)(かた)(憲顕の子憲方の子)、その子(とも)(かた)、その子(ふさ)(とも)、養子(ふさ)(さだ)(朝方の弟清方の子)、その子房能、養子(さだ)(ざね)(房定の弟(ふさ)(ざね)の子)と継いで行く。


 越後守護上杉氏の家臣の筆頭が、長尾氏だった。この一族もまた栄えて、国府のほか、(さん)(じよう)・蔵王堂・()(よし)(した)()(うえ)()などにそれぞれ城と領地を持っていた。長尾氏に石川・飯沼・千坂を加えて、上杉四家老と称した。


 このほかにも上杉氏の家臣は少なくなかったが、越後国の厄介なところは、土着の豪族の多いことである。彼らは一応、守護の支配に入っているが、忠誠心などは持ち合わせず、たちまち敵にまわりかねない。


 ところで上杉氏の家老筆頭の長尾氏だが、この家ももとは東国の豪族だった。()()氏・(かじ)(わら)氏・()(うら)氏などともに、坂東八平氏と呼ばれたが、源(より)(とも)の挙兵に当たって、これに協力しなかったため、千葉氏・三浦氏などのように陽の当たる場所に出ることができなかった。


 上杉氏が鎌倉で重用されるようになったころ、その家臣に加えてもらい、ようやく命脈を保った。


 ところが鎌倉幕府が滅び、南北朝時代に入って各地に戦乱が起こると、東国武士の血を受け継ぐ長尾氏は、大いに活躍する。足利尊氏に命じられて、新田(よし)(さだ)の領国上野や越後を攻める上杉憲房に従った長尾(かげ)(ただ)は、しきりに高名手柄をあらわし、しだいに重んじられた。


 越後平定後、長尾景忠が鎌倉に引き揚げると、弟の(かげ)(つね)が越後に残って守護代を勤めた。


 景恒のあとは、その子たちが守護代を継いだが、九代能景のとき、()()の一向一揆と戦ったあげく、能景は越中・(はん)(にや)()で討死してしまう。(えい)(しよう)三年(一五〇六)九月のことである。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
1
残り:0文字/本文:1846文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次