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やくざと芸能と 私の愛した日本人
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エンタメ
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役者になりたい

『やくざと芸能と 私の愛した日本人』
[著]なべおさみ [発行]イースト・プレス


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 昭和十四(一九三九)年、太平洋戦争が始まる二年前に、東京は大森に生まれました。


 戦争が激しさを加え始めた頃、丁度、東京が空襲を受ける直前に、一家は茨城県の開拓地に疎開致しました。それは四歳から十歳までの六年間でしたが、この期間にこそ、私の人間としての基盤ともなる知力、胆力、行動力が鍛えられたのだと思います。


 チビだったために軽く見られる事を嫌った私は、地元っ子との喧嘩の明け暮れの中で場数を踏んでいきました。後年、この経験がうんと役立ちます。


 小学四年生までの全ての想い出の根本に、〝腹ペコ〟が存在しています。子供心に、食べる物の無い辛さが身に染み付いております。子供ながら、おなかを満たす工夫を、懸命になって考え、行動したものでした。


 東京で工場再建に必死の父が、時折田舎へ帰って来る時、私達に持ってきてくれる少年雑誌が私の食生活を陰で支えてくれました。水戸に近いとはいえ、茨城県の鯉渕村(今は内原町)は田舎でした。東京からの文明の風が吹いては来ません。それだからこそ私の手にする本は、都会の香りを運んでくれる恰好の文化でした。行った事も見た事もない東京への憧れの詰まった雑誌を一日友達に貸すだけで、私の望むだけの(かき)(もち)や乾燥芋、そして干し柿になりました。子供心の必死の駆け引きで、智恵が養われたのでしょう。父の恩恵を利用するという、飢えから逃れる手段の発見でした。



 私の東京徘徊の初動は、昭和二十四(一九四九)年の「日本の劇場」で見た「秋の踊り」のショウステージに起因しています。


 夏休みを利用して、満員以上に満員の列車に乗って、常磐線の内原駅から上野に向かいました。姉に連れられ、今学期の通信簿を持って父に見せに行くためです。父は姉にも兄にもそれを義務づけず、私にだけは強制し、そして前学期より向上していると、映画を観せてくれたのです。


 私は成績は誰にも負けない自信があって、自分で点数は調整出来ました。頭は悪くないが、実に嫌な奴だったと思います。そして、成績に反して、「行動の記録」の評価が、実に何とも……。一学期ごとに先生が成績表に書き入れる注意事項が、余白にびっしりだったからです。成績が良くても行動がそれに反しているから、「来学期は皆の模範になるようにやって欲しい」と願われていました。毎学期、毎学期、中崎きみ子先生の期待を裏切り続けた四年間でしたから。


 実は私は、集中すると、何でも短時間で頭に入ってしまう特性がありました。兄の覚えている「教育勅語」を端で聞いていて、簡単に暗記してしまったくらいで、これ以来、兄にも嫌がられましたから。


 でも、飽きっぽいんです。すぐに興味が失せて、気は()()に移ってしまう特性でもあったのです。ですから、一学期でも長すぎて、良い子ぶって素直にしてなんか、とても出来なかったのです。


 それでも、学期の中頃から協力的に過ごすと、「教室の皆の模範となりました」となり、「期待しています」と中崎先生は書いてくださいました。


 これが、私の人生の重大な方向付けになろうとは、人生って判らないものです。


 父は望外に喜び、姉と私に褒美の小遣いを持たせ、映画を観に行かせてくれました。父自身は品川区の在原中延の工場を大田区の六郷に移す寸前で、子供に構う暇が無かったのです。これも幸いしました。姉は自分が観たいレビュウへと、私を誘ったのです。


 まさか、これが弟の心に根強い将来への願望を植え付けてしまうなんて……。小学四年生の私が受けた衝撃は、大きかったのです。


 私にしても、この時生まれて初めて感じた心の底からの()(たけ)びは、決して外へ漏らしませんでした。言っても笑われるだけの事でしたから。

「あの舞台に立ちたい!」


 心から思いました。思いましたとも。



 降り立った東京には「色が無い」と、子供心に思った。それが一夜明けた日劇の舞台には、心を奪う五色の色彩が飛び交っていた。光を浴びた色彩豊かな服装や背景には、色が在った。赤茶化た焼け跡だらけの東京なのに、ここだけは何とも言えぬ美しさ。


 それを楽しむ人々。それを楽しませる人々。


 私は楽しませる人になりたいと、単純に思った。


 私は単純だが、しつこい。


 なりたい気持ちを固めて塊として心の奥にしまい、表に出たのです。忘れもしない、昭和二十四年の秋。


 姉と二人で並んで、有楽町の新橋寄りのホームの端に立った。暑い一日が終わって熱気の残るホームに夕風が吹いていた。右手から夕陽が日劇にぶち当たっていて、これから夕闇になりますよと告げていた。大きなビルの無い大路が、ホームの先端の下を走って築地辺りまで一直線に望めた。


 頭には、今観てきた三遊亭歌笑の笑いも映画の記憶も薄れて、あのライトの美しい光彩だけが残っていて、私を誘っていた。


 その時、夕暮れの銀座に、パッと電気が入った。ネオンが輝いたのだ。


 その美しさは何と表現したら良いのだろうかと、少年だった私は驚きの眼で見入った。電車が入って来て思いは断たれたが、緑や赤や桃色の輝きや、ステージの誘惑だけはしっかりと、私の体に染み付いた。


 そして翌年、昭和二十五年の春に東京に戻って住まう事になったのだから、これも天の差配か。これ幸いとばかり、私の銀座を中心としたうろつきは、止まることも無く大学入学時まで続くのだ。



 東京に戻ってきた私には、生まれた大森の記憶はなく、東京の全てが目新しいものでした。


 小学五年生の私は、すぐに映画に心を奪われ、それからの五年間はひたすら映画の(とりこ)と化しました。毎年三百本近い映画を見続けておりますうちに、六年生時には、おぼろげながら、「この世界で、役者になって生きていこう」と心に定め始めました。


 しかしこの気持ちは、固く心に封印して仕舞い込みました。何故なら、焼け跡だらけのこの頃に、「役者になりたい」等と口にしたら、「馬鹿か!」と一蹴されるに決まっていたからです。その頃の一般家庭で、役者になりたい等という願望など笑止の沙汰、夢物語であって、社会的に見ても(こう)(とう)()(けい)以外の何ものでも無かったはずでした。


 でも私の心の内には、「だって、現実に役者が居て、映画が出来てるじゃないか、何が夢だ、夢を現実にするのが、人間の進む道だろ」と、固い決心と真っ赤な炎が燃えさかってしまったのです。



 この私の決心は親や兄姉はもとより、友達にすら話さず、ただ黙ってお金を溜めようと考えました。


 私の家は、父と伯父とで会社を経営していましたから、時々伯父の口からも、

「おさみは大学出たら、新潟工場と、糸魚川工場を任せよう!」


 なんて言葉が飛び交っていたのです。


 東京本社は千坪を超す広い工場で、石綿パイプの製造会社でした。伯父は社交的で区議会議員にもなる人でしたから、明るく面倒見の良い人間で、一方、その弟である父は、寡黙な実務畑の人でした。性格の違いが和して、仲の良い兄弟関係でした。実は父たちの両親が幼くして亡くなったため、この伯父が苦労して四人の弟妹を育てたのです。極貧の中で私の父を学業につかせ、松本教育実業学校を出させてくれたのです。


 この兄弟は、実は兄弟というよりも親子、父と子の関係であったと私は気付いていました。だから父は兄に忠実で、全て従っておりました。兄は兄で弟である父が風邪でも引いて寝込もうものならば、五分おきに枕元にやって来て気遣う。「これを飲め、これを食べろ」と、心配で心配で仕方ないのだ。これじゃ眠っちゃいられないよと母が笑ったものでした。


 だから、伯父が「おさみは新潟へ」と言ったら、間違いなく私は煙突屋かスレート屋の工場長にならされていたのです。それを敏感に察知したからこそ、私は小学生から働き始めました。いつの日か脱出を目指して。その日の到来のため、少しずつお金を貯える必要を感じていたのだから、凄いでしょう。事実、私は小学五年生から家を出る大学入学の年まで、当然の如く働いた(貯えこそ出来なかったが)のです。


 本当に世の中とは不思議なもので、「願わば叶う」ものだ。


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