庶民の名字は明治になってからついたものだから、武士とは関係ない……これは大きな間違い。名字のほとんどは、高貴なお家から出ているのだから。
庶民が名字を持たない時代はなかった
「江戸時代、庶民は名字を持っていなかった。そして明治初期、国民全員が名字を持つようになった」
これは現在も広く認識されていることだが、事実は異なる。実際は江戸時代以前から既に名字を持っており、私的な冠婚葬祭や神事、仏事のときに名乗っていた。ただ公称していなかったのである。では、なぜ名字を公称しなかったのだろうか。
庶民の名字については『万葉集』の時代、8世紀頃まで遡ることができる。『万葉集』には天皇から庶民まで、さまざまな身分の人が詠んだ歌が収められている。これには詠み人の名前や出身地なども記されており、「川原虫麿呂」「朝倉益人」など、庶民の名字がきちんと記されているのだ。
これは奈良時代、平安時代も同様で、庶民の名字は様々な資料に散見される。しかし、源平合戦(12世紀)の頃には、ぱったりと姿を消してしまった。
◆武家社会による名字の価値の変化
源平合戦に端を発する武家社会の到来は、それまで政治の中心であった天皇の権威が失墜する時代の到来でもあった。ここに名字の状況変化の理由が隠されていそうだ。
詳細は後述するが、氏と名字は異なるものである。簡単にいうと氏は天皇から賜ったもの、名字は自ら名乗ったものである。当然、例外があることは言うまでもない。
それまで、天皇から氏を賜ること、その一族の者であることは誉れであった。氏を賜った例として、有名なところでは藤原氏、源氏、平氏が挙げられるが、いずれも名門である。盛衰はあったにせよ、こうした氏を持つことは朝廷の重要な地位に就け、政治の中心にいられることを意味した。
しかし、武家社会による天皇の権威失墜で氏呼称が廃れていく。無論、失墜したとはいえ天皇から賜った氏の威力は大きいから、決定打とはいえない。しかし、武力がものを言う時代だからこそあった、下級武士、新興武士の台頭。これが状況を変えた。
彼らは、氏ではなく名字を名乗った。中には氏を持たない者もいたかもしれない。当時、名字は地名からとられることが多かった。そして武士たちは領地の地名を、そこを支配しているという誇示も込めて名字としたのである。
これは逆の表現をすると「領地のない者は名字もない、名乗る資格がない」ということになる。領地を持たない者、つまり庶民はこのとき、昔から持っていた名字の公称を自粛するようになったのではないだろうか。