『「未熟な夫」に、もうガマンしない!』
[著]山崎雅保
[発行]二見書房
お金になる仕事、ならない仕事
男たちはなぜ、家庭のことにかかわろうとせず、すぐに仕事に逃げ込んでしまうのか。この章ではその理由について探ってみましょう。
まずは「仕事」ということの意義や価値を再検討することから始めます。
私たち人間にとってのあらゆる仕事は、次の二つのグループに分けることができます。一つは「お金になる仕事」、もう一つは「お金にならない仕事」です。
では質問です。この二つのグループのどちらが、より価値のある仕事でしょうか。
これに対する回答も、大まかには二つのグループに分けられるようです。
一つは「やっぱりお金になる仕事の価値が高い」です。もう一つは「どちらも変わらずに価値が高い」です。
あなたの意見はどちらの側に近いですか?
どちらともいえないと思う方もいるでしょうが、あえていうならどちらですか?
私は少しも迷うことなく、本音の本音で「どちらも変わらずに価値が高い」と確信しています。心理カウンセリングの仕事をしながら過ごす中で、いつしかそう考えざるを得なくなりました。
カウンセリングを始める前の若いころの私は、ご多分にもれず「そりゃ、お金になる仕事のほうが価値は高い」と思いたがっていましたから、今にして思えば、“私の身近で暮らす女性”はずいぶん腹を立てたり不快だったりしたに違いありません。
さて、いうまでもないことですが、現在の経済社会ではお金がないことには暮らしが成り立ちません。したがって、お金を稼ぐ意味での仕事が大切なのは確かなことです。
けれど、だからといって、お金にならない仕事を軽視してよいはずがありません。
あなたとあなたの夫が二人そろって「どちらも変わらずに価値が高い」と考えているなら、夫婦の関係はきっと良好だろうと思います。二人がどんな仕事をしているにしても、片方は仕事をしていないにしても、お金の稼ぎ具合にどのような差があるとしても、二人はお互いを尊重し合えるからです。
「仕事」は「働き」のごく一部
ここで、ちょっと視点を変えてみましょう。「お金になる仕事」というのは、果たしてもとから存在していたものなのでしょうか。
大昔、人間が農耕を始める前には、そもそもお金というものがありませんでした。したがって、仕事に「お金になる・ならない」という区別はなかったはずです。
辞書を引いてみると、「仕事」とは「①する事。しなくてはならない事。とくに職業・業務をさす。②事をかまえてすること」。つまり「職業」を強く意味する言葉ですから、「仕事」にはどうしてもお金がからんできます。
そこで「仕事」の周辺の言葉から「働き」を選んで引いてみると、「①うごく。②精神が活動する」。こちらはお金のニオイが薄れます。
なるほど、歴史をさかのぼれば「働き」のほうが先にあるわけで、当然のこと「仕事」は「働き」の一部分ということになります。
つまり、大昔の人は、きっと誰かれなく働いていただろうけれど、「仕事をしていた人」はいなかったわけです。「仕事」に類する概念ができてきたのは、お金が行き交う浮世になってから。これは間違いありません。
ではここで、とくに専業主婦の方、パートもやっていない方に質問します。
あなたは仕事をしていますか?
答えは「ノー」ですね。では重ねて質問します。
あなたは働いていますか?
答えは「イエス」です。「朝から晩まで、ものすごく働いてるわ」と強調したい方が多数派かな、とも思います。
ここで話題にした「仕事」と「働き」の差には、とても重要な意味があります。
少なからぬ数の男性が「働く=仕事」という大きな誤解のもとに生きています。彼らは、「仕事」が「働き」のごく一部でしかないということに気づいていません。いや、気づきたくないといったほうが実情に沿っているかもしれません。
仕事ってじつは気楽なもの
ここで少しだけ、私の個人的な事情について書かせてもらいます。
私は三〇代後半のごく一時期にですが、やむなき事情から「仕事を持つ主夫」として過ごしました。その時期に「仕事って、じつは意外に楽なものなんだな」と思ってしまいました。子どもの世話や家事などを一人でこなしながら、そのうえで仕事もする日々の中、仕事を言い訳に家庭の中のさまざまなことをほっぽり出して過ごすのは「ものすごくお気楽なことだったんだ」と思い知らされたのです。
以後三〇年近くたった今日まで、その思いは少しも変わらず、むしろ強まり続けてきました。
もしかしたら私は、仕事社会の本物の厳しさを体験していないのかもしれません。
もとより、職場の厳しい人間関係には耐えられない人間なものだから、お金を稼ぐことの大変さを知らぬまま、ヌクヌクとここまで生きてきてしまったのかもしれないし、出世や名声や名誉や裕福などとは無縁のまま過ごしてきたのも、そのせいかもしれません。
けれど暮らしは成り立ってきました。生きる楽しさ、娯楽や行楽の面白さ、食べるうれしさなどなど、十分に味わえてきたと思っています。じつをいえば、もしかしたら「仕事社会の厳しさ」とやらに染まらなかったからこそ、「我ながらなかなか幸せだな」と思える日々にたどり着けたのかも、とも思っています。
「仕事は大変」と強調したがる男たち
男は敷居をまたげば七人の敵あり。
こんな古いことわざを引いては、えらそうな顔をする人がいます。男が社会に出て働くのは、多くの競争相手や対立相手との軋轢を日々乗り越えることなのだ、と。私なんかは、それほどのことでもないだろうに、と思ってしまうのですが、赤のれんなどでは「そうだそうだ」とうなずく輩が多数派です。
ついでですが、「七人の敵」には対になっていることわざがあります。女は敷居をまたげば七人の友あり。男の「敵」に対して、女では「友」。女性はお気楽だと揶揄することわざでもあるのでしょう。
ことわざついでにもう一つ。すまじきものは宮仕え。勤め人は、わずかな給料をもらうために自由を束縛されたりプライドを踏みにじられたり、本当に大変なんだぞ、というグチめいた戯言。
男たちときたら、とにもかくにも「仕事は大変なんだ」と強調したくてなりません。
たしかに命がけの仕事もあります。体力と知力の限りを尽くして、なおそれ以上の要求をされる仕事もあるでしょう。だから家庭の雑事や子育てのことは妻にすべてまかせるしかないのだ、といわれると、そうなのかもしれないなと納得させられそうになってしまいます。
しかし、仮にそうであったとしても、家庭での働きを放棄してよい理由にはなりません。まして命がけだったり、心身ともに限界を超えるような仕事を強いられている男性は、私の観察するかぎりほとんどいません。
たいていは「七人の敵」だの「すまじきものは」だのと見栄を張っている裏で、じつはゆとりのある日々を過ごしています。帰り道にお酒を飲んだり遊んだりの時間と体力は残されていたりするのです。全体をみるなら、そういう男性のほうが圧倒的多数だとしか思えません。
家庭のアレコレは仕事より面倒くさい
そうであるにもかかわらず、男性たちはなぜ、仕事を言い訳にして家庭のアレコレから逃れたがるのでしょう。
必死、ギリギリ、命がけという仕事の場面も皆無ではないでしょうが、だからといって、生涯を通じて家庭のアレコレにかかわれないはずはありません。それなのになぜ、男たちは家庭から逃げてばかりいるのでしょう。
本当の理由は簡単です。面倒くさいからです。「家庭外の世界でやりこなせている仕事」よりも「家庭における働き」のほうがはるかに面倒くさいからです。
こんなことを、真正面から歯に衣着せずに投げつけたら、彼らは憤慨するに決まっています。「お前なんかに俺のつらさの何が分かる!」とばかりに、悲劇印の重荷を背負い込んだつもりで怒りまくるかもしれません。
けれど本当です。家庭のアレコレを、彼らは「面倒きわまりない」と感じていて、実際それをやりくりできるスキルも身についていないものだから、仕事を理由にして逃げているのです。この点は間違いありません。
ルーチンワークという言葉のルーチン(routine)とは、「決まってすること」の意味。ルーチンワーク(routine work)なら「決まりきった仕事」です。
仕事というのは、これはやっている人なら分かっているはずですが、意外にルーチンの部分が多いですね。ほぼすべてがルーチンワークで、「だから飽き飽きしちゃった」という人も少なくないかもしれません。
たしかに外でお金を稼ぐための仕事には厳しい側面もあるのでしょうが、その一方でルーチンワークは本質的に楽です。体も頭脳もすっかり慣れ親しんでいる決まったパターンの仕事は、疲労やストレスの原因にもなるかもしれませんが、仕事モードへの切り替えさえできれば「いつものペースでこなせてしまう楽さ」があります。
私はかつてパートタイムのカウンセラーでした。週に何日か、朝九時から夜八時まで休みなく、連続一二人のクライアントと語り続けた日も珍しくありませんでした。大変だったかといえば、それはエネルギーは使いました。その当時はあまり気にしませんでしたが、心理的な消耗の激しさもかなりのものだったと思い返します。
けれど楽でもありました。朝一番のクライアントと語り始めたら、その延長線上でいつしか最後のクライアントと話し終えるときがやってくる。誠意も知力も感覚もすべて尽くしていたつもりですが、それでもルーチンワークでした。始めてしまえばいつかは終わりがくる仕事。終わったあとには慣れ親しんだ飲み屋ののれんをくぐって、お酒と肴。それなりに決まりきった一日になったものでした。
他方で、カウンセリングのない日には文筆や雑事。こちらは億劫です。何よりも文章を書くという仕事は、ルーチンではやり過ごせません。その都度、つねに新たな局面と向かい合う作業です。
文筆と料理はとてもよく似ている、と私は思っています。自分が手にしている材料をながめて、自分が求めている結果をにらんで、そのうえで直感を働かせて、できるなら創造性も加味して熱意をもって仕上げる。心と体の両方を働かせながら工夫と手間をかける必要があるという意味で、この二つはとても似通っているのです。
あの当時、カウンセリングのない日の大半を、私は自宅で過ごしましたから、子どもの相手もしました。近所づき合いもしました。子どもの学校のアレコレにも好んで顔を出しました。
今にしてふり返れば幸せな雑事をたっぷり楽しめたと思うのですが、それらの大変さも身にしみました。
男はコミュニケートが嫌い
これらの雑事は、決してルーチンワークではこなせない、という点に大変さがあります。その大変さは、文筆の仕事や料理作りの比ではないかもしれません。むろんどんな仕事でも大変さに変わりはないと承知していながら、やはり、こうした生活上の雑事のほうがはるかに大変だと考えるのです。
なぜなら、それらは人間にとって、もっとも本質的で必要不可欠な「働き」の集約だからです。
すなわち、心を開いて自分と相手の関係に折り合いをつけたり、踏み込んで要求したり、つらくても引いて譲ったり、あるいは知力や感覚の限りを尽くして耳を傾けたり語ったりする作業、つまりはコミュニケーションの集約だからです。
男たちの多くは、それを嫌っているのだとみてよいでしょう。コミュニケートすることを嫌っているのです。
たとえば何かを作る仕事をしているのなら、その作業に集中しているかぎり、厄介な人間的コミュニケーションにかかわる必要がありません。事務処理や計算作業もそうです。仕事の多くは、意外にもその場ではコミュニケーション不要という気楽さに恵まれています。
いやそんなことはない、と反論する男たちもいるはずです。俺の仕事はコミュニケーションそのものだ。厄介な人間関係のるつぼで悪戦苦闘している。そう豪語して譲らない人もいることでしょう。
家族のコミュニケーションは仕事より密で深い
けれど、社会的な関係におけるコミュニケーションの密度や深さは、親子関係・夫婦関係・家族関係のそれに比べれば、一般的には大したものではありません。
本来の親子関係・夫婦関係・家族関係では、仕事の場面などで社会的に要求されるコミュニケーションよりも、はるかに深くて綿密なやりとりが要求されます。
親子は切っても切れない縁です。夫婦は切ろうとすれば大変な苦労と苦痛をともなう縁です。その他の家族関係も、無関係を貫こうとするなら息苦しさや罪悪感がともなうはずです。
けれど外の社会における縁は、切ろうと思えば切れます。仕事上の人間関係は、暗黙のうちにも「この一線は越えない」という境界線をお互いに了解したうえでの人間関係です。
仕事は、どうしても耐えられなければ辞めればよいのです。少なくとも、夫婦をやめるよりもやめやすいのは間違いありません。辞めれば終わるのが仕事上の人間関係。その意味でも、親子や夫婦の関係よりもお気楽なのです。
ああそうか! だから男たちは仕事を言い訳にして家庭から逃げるのか。
今になってやっと気づいた方もいるかもしれませんね。そのとおりです。そうだと思って間違いありません。あちらに向かって逃げるのは、あちらのほうがこちらよりも楽だからです。
当の男たちは「逃げてるわけじゃない!」と怒るかもしれないけれど、逃げている側面があるのは、やっぱりどうしたところで否定できない、と断言できます。