『「未熟な夫」に、もうガマンしない!』
[著]山崎雅保
[発行]二見書房
エピローグ~人はみな独り、だからこそ触れ合いたい
ふた昔ほど前のベストセラー、永六輔さんの『夫と妻』(岩波新書)は痛快でした。永さんが日本のあちこちを旅しながら拾い集めた夫婦に関する言葉の数々が、夫婦のさまざまな側面を浮き彫りにしていました。三つだけ借用させてもらいます。
「いいですか。夫婦ったって、アカの他人ですよ」
「他人が夫婦になったんや。夫婦が他人になったかて、いいやんか」
「いまの女が手にした金と自由。これより価値のある男なんていないわよ!」
先立たれてしまった奥さんをとても深く愛し慈しまれた永さんです。したがって痛快な言葉がいくつも並ぶ『夫と妻』ではあるけれど、離婚を奨励しているわけはなく、これを読んでいると「いろいろあるにはあるけれど、夫婦っていうのはなんとかやりくりできていればいいのかな」とも思えてきます。
そう、未熟者同士だっていい。やりくりできればいいだけ。そりゃあ許しがたい怒りや、耐えがたい苦痛はあるだろうけど、そのうちに、お互い少しずつでも大人になっていけるはず。
本書で私が本当にいいたかったのは、つまるところ、その一点だけだったのかもしれません。
ところで私が永六輔さんを好きなのは、歌が大好きだからです。ギターを抱えながら歌うのは五〇年来の趣味であり、私のアイデンティティーの一つ。目指すは「歌うカウンセラー」と、これは冗談ではなく本気で目論んでいます。
この地球には素晴らしい歌が数限りなくありますね。だからいくら歌っても飽きるということがありません。そのあげく、たまに自分の魂の扉をノックしてみると、ポロリと「私の歌」が生まれ出たりもして、そのときに胸を満たす喜びといったら、言葉で表現できるものではありません。無上の喜びです。
そんな私が「もっとも愛する日本の歌ファイル」に入れている中に、永六輔さんが作詞されたものが数曲あります。
すぐに思い出せるのは、『遠くへ行きたい』『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』『生きているということは』。みんな素晴らしい歌たちです。
知らない町を歩く旅人は、切なくも豊かな独りを味わっている。
独り上を向いて歩きながら、頬を伝う涙に慰められている。
夜の星を見上げながら、手をつなげる愛がそこにあるという救いに気づかされている。
生きているということは、無数の人々に依存し迷惑をかけながら、無数の人々の迷惑や依存を少しずつ受けとらせてもらうことなのだ、と思えている。
私は、これらの歌を歌うたびに、甘ったれていては損だなと思います。
「生まれて生きて死ぬまで」は、どうあがいたところで孤独のままなのだなあ、だから触れ合いたくてならないのだ、とあらためて思わされます。
人というものは、寂しがりながら、悔しがりながら、それでも幸せを味わって生きられるのだと気づかされます。
夫婦。厄介ですね。
けれどみんな寂しいのだもの、悔しい誰かでも、そこにいてくれたほうがいい。だから不平不満をタラタラいいながら、夫婦をやってるわけですね。
離婚したい。沈痛な面持ちでカウンセリングに訪れる妻がたくさんいたけれど、本当に離婚になったのはごくごくわずかでしかありません。
誰だって、できれば夫婦であり続けていたいと願っているのです。
本書を書き終えるところにきて、なぜそうなのかがストンと腑に落ちました。
きっとあなたも同じだろうと想像しています。
さて、本書を書き進む中で、私の心には微妙な変化が生じました。なんだか「未熟」が愛しく思えてきたのです。「未熟」であればこそ「生きる意味」もあるのでは、とも思うようになりました。
最後に、未熟の延長で夫婦としては破綻したまま他界したけれど、気弱で、善良で、それぞれに優しかった両親、一と悦に、私をこの世に生み出してくれたことへの深い感謝とともにこの本を捧げます。
山崎雅保