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首都高速の謎
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首都高最初の渋滞はいつ、どこで?

『首都高速の謎』
[著]清水草一 [発行]扶桑社


読了目安時間:3分
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 東京オリンピックに向けて華々しいデビューを飾った首都高だが、ここで疑問に思うのは、「首都高の渋滞はいつ始まったのか」ということだ。この当時は渋滞していなかったのだろうか。
『首都高速道路公団二十年史』を紐解くと、1キロ以上にわたる交通渋滞は、昭和42年度は年間82回、うち64回は事故・工事渋滞で、自然渋滞はわずか18回となっている。ありていにいえばこの年まで、つまり東京オリンピック終了から約3年間は、首都高はほとんど渋滞していなかった。

 昭和40年のデータによれば、都内の一般幹線道路の平均速度22/hに対して、首都高は55/h。バブル期の首都高が平均速度25/h程度にまで落ち込んだのと比べると、開通後間もない時期はパラダイスだった(平成21年はそれぞれ21・6/h 43・3/h)。

 当時の首都高は、大部分が山手線の内側に収まる都市内高速道路で、あくまで街路を補完する役目。放射線はそれぞれ羽田・戸越・渋谷・初台・西神田・本町が終点で、6号線・7号線はまだなかった。“日本国のロータリー”と化したその後の状況とはまったく異なる。

 料金は、開通当初の昭和37年が50円、翌年100円、オリンピックが開催された39年に150円となっていた。

 消費者物価指数を見ると、現在を100として当時はだいたい25。4分の1だ。150円は現在の600円ということになるが、まだ開通距離が短く、平均利用距離も短い中、150円というのはかなりゼイタクな感覚だったのではないだろうか。首都高は、余裕をもってその機能を果たしていた。

 昭和4311月、横羽線が東神奈川まで開通。横浜の中心部と東京とが首都高でつながった。すると翌月、交通渋滞は59回に急増。翌年は月平均100回を越え、なんと前年の10倍以上に増加した。

 当時を知る職員はもはや首都高には在職していないが、OBの話によると、「最初に渋滞したのは浜崎橋」だそうである。

 横羽線が横浜まで延びたことで1号線の交通量が増加。C1との接点である浜崎橋で上り渋滞が始まった。現在も浜崎橋JCTは渋滞の名所だが、最初の渋滞の名所も浜崎橋だった。

完成後間もなくの浜崎橋ジャンクション


 この頃、首都高の理事長に天下っていた林修三(大蔵省出身)は、こう述懐している。
「最初に顕著に渋滞が出たのは横羽線が開通したときです。私は素人なもので道路容量のことを聞かされても、スースー走っているものですから少々ぐらい路線が延長したってそんなに渋滞などしないだろうとみていたのですが、道路容量は正直なもので、これをオーバーすると、てき面に渋滞しだしましたね」(『首都高速道路公団二十年史』)

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