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決定版 人物日本史
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歴史
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28 西郷隆盛……大西郷がいなければ明治維新の成功はありえなかった

『決定版 人物日本史』
[著]渡部昇一 [発行]扶桑社


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『西郷南洲翁遺訓』をつくった庄内藩の人たち


 西郷隆盛(一八二八~一八七七)は語ればきりがないような人である。私の故郷の庄内とも縁が深い。庄内藩は幕末に幕府から江戸の治安を任されていた。京都の治安を任された会津藩は有名だが、幕府のお膝元である江戸の治安はさらに重要である。江戸の治安を乱す者が薩摩藩から出ていることを突き止めて、薩摩屋敷を焼き討ちにしたのも庄内藩であった。


 そういう経緯があるため、幕末維新の戊辰戦争(一八六八~一八六九)のとき、会津藩と庄内藩は維新側から一番憎まれたはずである。しかし、庄内藩は最後まで勝ち続けた。それでも気がついてみたら、幕府に味方した日本中の藩が維新側に降参してしまったから、庄内藩も降参するよりしかたがなかった。


 降参をすると、薩摩藩の(くろ)()(きよ)(たか)(一八四〇~一九〇〇)が鶴岡城の接収に来た。そのとき庄内藩士たちはどんな取り扱いをされるか戦々恐々だった。この時点では賊軍になっていたからだ。ところが、藩主が黒田清隆と会うときは帯刀も許され、降参した人間ではなく、あたかも賓客を迎えるがごとく迎えられたのである。これは黒田清隆が西郷隆盛から命じられていたらしい。西郷隆盛は器量の大きい人だから「自分が幕府の人間だったら、やはり庄内藩士のように戦っただろう。庄内藩は戦犯だが最後まで勝っているわけだから丁寧に扱え」という趣旨の話を黒田清隆にしていたようだ。黒田清隆もまた器量の大きい人なので、西郷の意見に同意して、降参してきた殿様を賓客を迎えるがごとく丁寧に迎えたのである。


 このような処遇を受けて庄内藩は挙げて西郷のファンになった。その後は薩摩に留学生も出している。また、江戸にいた頃の西郷と庄内藩の(すげ)(さね)(ひで)(一八三〇~一九〇三)という家老が親しく交わっていたこともあり、明治十年(一八七七)の西南戦争のときは庄内藩が西郷と連携するのではないかといわれ、明治新政府は庄内藩に見張りの兵を出したぐらいであった。実際に庄内藩からも西郷の軍に合流を希望して行った人もたくさんいた。西郷は「あんた方は薩摩藩士ではないんだから帰りなさい」といって大部分は帰したらしいが、一緒に戦って戦死した人も何人かいる。


 西郷隆盛の語録を集めた『西郷南洲翁遺訓』という本がある。この本は薩摩の人が作ったものではない。西郷が江戸にいたとき、あるいは新政府から下野して鹿児島に引っ込んでから、庄内藩の若者たちが勉強に行って西郷の話を書きとめたものが『西郷南洲翁遺訓』のもととなったのである。しかし、西南戦争によって西郷は朝敵となってしまったため、その教えを表に出すことはできなかった。ようやく明治二十二年(一八八九)二月十一日に、大日本帝国憲法の発布に伴って西郷は大赦によって正三位を追贈され、逆賊ではなくなった。それで『西郷南洲翁遺訓』も本となって、日の目を見ることになったのである。


 戦後も庄内では西郷神社を造るなど、西郷隆盛への感謝を忘れていない。我々も戦争中、小学校六年生になると作法室という畳の部屋に正座させられて『西郷南洲翁遺訓』を暗記させられた。「幾度か辛酸を経て、志始めて(かた)し。丈夫は(ぎょく)(さい)するも(せん)(ぜん)()ず。一家の遺事、人知るや否や。児孫の為に美田を買わず」(人の志は幾度も辛酸をなめて後、初めて固まる。真の男子たるもの、玉となって砕けることを本懐とし、つまらない瓦のように無意味に生きながらえることを恥とする。私が家訓としていることがある。世間の人はそれを知っているであろうか。それは子孫のために良い田畑を遺さないということだ)と今でも覚えている。そのため西郷隆盛に対しては子供のときから、我が鶴岡と特別な関係がある親しみある人という気持ちを抱いていた。


学問の才に富んだ比類のない教養人


 西郷隆盛は低い身分の家の出だった。これは同郷の(おお)()()(とし)(みち)(一八三〇~一八七八)も同じである。ところが、吉田松陰の場合と同じように殿様が偉かった。西郷を抜擢したのは薩摩藩主・島津斉彬だが、この斉彬は飛び抜けて偉い人だった。西郷隆盛は勉強のために江戸などへ行っていろいろな人と交わっていた。おそらく(ふじ)()(とう)()(一八〇六~一八五五)などとも知り合ったと思われる。するとああいう人なので、身分は低いものの相手に非常な感銘を与えるのである。


 あるとき、島津斉彬公に「あなたの藩には西郷吉之助という偉い人間がいますね」という者がいた。しかし島津公はその名前を聞いたことがなかった。それで国に帰って調べてみたところ、下っ端の田舎回りの役人にそういう名前の者がいた。そこでさっそく抜擢して使いはじめるのである。西郷にしてみればチャンスを与えてもらったのである。


 ところが、斉彬公が五十歳のときに急死してしまう。斉彬の遺言で跡継ぎは異母弟である(しま)()(ひさ)(みつ)(一八一七~一八八七)の子・島津(ただ)(のり)(忠義/一八四〇~一八九七)になったが、実権を握ったのは父の久光であった。しかし、西郷から見て、久光は斉彬とは比較にならない低いレベルの人で、折り合いが悪かった。


 また、その頃の西郷は斉彬の遺志を継いで幕府改革を目指したが、井伊大老の安政の大獄により自らの尊皇の志も破れて、幕府の捕吏に追われ、一度は(げっ)(しょう)(一八一三~一八五八)という僧と一緒に鹿児島湾に身を投げて死のうとしている。月照は死んだが西郷は一命をとりとめた。しかし、幕府から追われている身でもあり、藩により死んだことにされて役職を解かれ、名前を変えて奄美大島に送られて、しばらくそこに潜伏することになった。


 その後、久光が公武合体の周旋をする意欲を見せて上京しようとする際に召喚されたが、「久光公は無官であり斉彬公ほどの人望もないから上京はしないほうがいい」というような発言をしたことで久光との関係が悪化した。それでもいったん上京することを承諾したのだが、京都で過激な志士たちの挙兵を止めようとしていたのを「西郷が志士たちを扇動している」と誤って報告されて久光が激怒し、鹿児島に送還されたうえに島流しにされている。そのときはまず徳之島へ流され、次いで(おきの)()()()(じま)に流されることになった。


 普通の人ならば失意に沈むところだが、西郷はこのときとばかり猛烈に本を読み勉強をしている。西郷はもともと学問の才があったとしか思えない。漢詩が作れるだけでなく、非常にうまい。昨今は床の間のある家だとか長押(なげし)に額をかけるような家が少なくなったので、筆で書いた字は需要がなくなり総じて安価になっている。ところが例外的に値が付くのが西郷南洲の字なのである。実に立派な字で、かつ自作の詩を漢文ですらすら作れるというのは、今日の日本の中国文学者でもそう多くはないに違いない。しかも、折に触れて作るのだから大変な教養の持ち主だったと思う。


誰もが仰ぎ見る大きな器量を持った西郷隆盛がいたからこそ明治維新は成功した


 明治維新の成功のもととなったのは長州と薩摩が手を結んだことだが、長州の桂小五郎(木戸孝允)とうまく連携して薩長連合を成功させたのは、やはり西郷隆盛の腹の大きさによるものだったといっていいだろう。もちろん坂本龍馬(一八三六~一八六七)が周旋したことも大きかったが、公平に見て、最終的には西郷がいなければまとまらなかった話だと思う。


 また明治維新の成功に繋がった三つの重要事項の中心に西郷がいたことも確かである。一つは今いった薩長連合。これがなければそもそも動かなかった。


 もう一つは、()()(しょ)(かい)()である。これは慶応三年(一八六八)十二月九日、徳川慶喜の(たい)(せい)(ほう)(かん)の申し出を受けて京都の小御所で開かれた会議である。慶喜はなぜ政権を返上したのか。それはたとえ政権を返上しても徳川家以外には政治をやった者がいないので、やがて自然と徳川家が政治を執ることになるだろうと考えたからである。その読みに基づいて政権をいったん朝廷に戻し、自ら将軍を辞職することにしたのである。


 小御所会議では大政奉還後の政治をどう進めるかを話し合うために、明治天皇をはじめとする皇族・公家の代表者と、主な大名およびその家来が集まった。ところが、この席に徳川慶喜は呼ばれなかった。そこで山内容堂が「将軍を辞めたとはいえ慶喜公を呼ばないのはどういうことか。天皇がお若いのをいいことに、自分たちが天下を取ろうとしているのではないか」というと、(いわ)(くら)(とも)()(一八二五~一八八三)が「天皇はお若いとはいえ(えい)(まい)なお方である。なんたる失礼なことをいうのか」と怒り、大久保利通が「慶喜公がここに出席するには、まず天皇に恭順の意を示し、徳川の領地をすべて差し出すべきではないか」と発言した。


 結局、討幕派の岩倉と大久保のチームワークで、慶喜の右大臣返上と徳川家の領地の減封が決まるのである。このときに西郷は小御所の外を固める役をして、いったん事あればすぐに軍を動かす構えを見せていた。その重圧があったからこそ、大久保も徳川の大名がたくさんいる中で恐れなく意見を述べることができたのであろう。


 小御所会議での決定事項が伝えられると、直ちに倒幕運動がはじまった。会議の三週間後には京都で鳥羽・伏見の戦い(一八六八)が起こり、それに勝った倒幕側(官軍)は東海道を真っ直ぐに進み、江戸を攻めるのである。この小御所会議と江戸幕府攻撃を決めたことが明治維新を成功に導いた二つ目の理由であるが、ここでも西郷の存在が大きかったのである。


 倒幕側は鳥羽・伏見の戦いから江戸城開城まで一気に突き進んでいったが、不思議なことに、西郷がいると武士たちが奮い立つという現象があった。私には従軍の経験はないが、数々の戦記を読んでいると指揮官が代わると兵隊が変わるという現象は確かにあるようだ。西郷はいつの間にか倒幕の総司令官になっており、誰もが仰ぎ見る存在であった。そして「宮さん、宮さん、お馬の前でひらひらするのはなんじゃいなトコトンヤレトンヤレナ」というトコトンヤレ節(品川弥二郎・作詞、大村益次郎・作曲)をうたいながら、錦の御旗を掲げて江戸城まで攻めていくのである。勝海舟(一八二三~一八九九)と話し合って江戸城を無血占領したのも、ひとえに西郷の器量であったというほかない。


 何しろ徳川家というのは武力で天下をとった幕府である。嘘か真か、旗本が八万人、八百万石といわれたほどの絶対的な力を持っていた。そして、その本陣である江戸城は、天下の険とうたわれた箱根の山の向こうにある。そんなものを攻められると思った人はなかなかいるものではない。江戸城が落ちるなどということは簡単に考えられなかったのである。ところが、西郷さんが進むと兵隊もなぜかその気になってくる。これが不思議である。西郷隆盛には、実際に脇にいた人でないとわからないオーラとかカリスマといったものがあったようだ。


 江戸城を無血開城して占領したことによって明治天皇が江戸にお移りになられ、江戸は東京となった。西郷隆盛という軍の最高指揮官がいなければ、維新は軍事的に成功しなかったはずだ。事実、北陸道から江戸に向かった(やま)(がた)(あり)(とも)(一八三八~一九二二)は田舎を攻めるのにさんざん手こずっている。ところが西郷は江戸城に簡単に入った。これで大勢は決したといっていいのである。あとのことは、いろいろあっても時間の問題であったのだ。


 維新を成功させた第三の重要事項は、廃藩置県の実施である。明治政府ができたものの近代国家をつくる基礎がない。国家というのは税金がなければ成り立たないが、そのとき税金はすべて大名が握っていた。だから、どうしても廃藩置県が必要だったのだが、そのためには大名を全員辞めさせなくてはならない。これは木戸孝允をはじめ長州藩の人たちもよくわかっていた。しかし、どうすれば辞めさせられるのか、これが悩みの種だった。


 というのは、当時、維新を成功させた人は皆、武士であり、武士にはそれぞれの殿様がいる。武士の忠義の対象は自分の殿様であったから、その殿様に藩を辞めさせるなどということは、当時の人にとっては考えられないことだった。それは長州藩も同じで、毛利(たか)(ちか)(一八三六~一八七一)は実に立派な殿様である。薩摩にも島津斉彬(すでに亡くなっていたが)のように尊敬しないではいられない立派な殿様がいた。果たしてそういう立派な殿様たちを辞めさせることができるのか。しかし、辞めさせなければいつまでたっても中央政権はできないのである。


 そこで木戸孝允たちの意見を受けた山縣有朋が西郷のところに行って事情を説明し、意見を求めた。山縣有朋が「どうでしょうか」と聞くと、西郷は「よかです」と一言。山縣有朋が本当にわかっているのかと思ってもう一度説明して「どうでしょうか」と聞くと、また「よかです」と一言。そのときの印象を山縣は「大きな山がそこにあったようだった」と述べている。


 明治政府は明治四年(一八七一)に廃藩置県の命令を出した。そのときに大名たちが背いたらどうなるか。政府の手持ちの軍隊は約一万人の近衛兵と西郷隆盛という名前だけであったが、どの殿様も西郷の名前を聞いて反対しなかったというのである。あの江戸城を無血開城したという威光が西郷にはあったのである。結局誰も反対せず、あっという間に日本中の大名が先祖伝来の領地を政府に提供した。そんな例は少なくとも発達した封建時代の国には一つもない。


 イギリスでも、いまだに公爵とか男爵とかの爵位があって、先祖伝来の土地も持っている人がいる。ドイツは王様こそ廃止したが貴族はなくならず、今でも爵位はあるし領地を持っている人がいる。私がドイツに留学したときも城持ちの貴族に呼ばれたことがあった。またフランスは革命で貴族がいなくなったが、イタリアも同様である。ロシアは王様も貴族もすべていなくなったが、これはロシア革命によるものだ。日本の場合は一滴の血も流れることなく大名がいなくなったのだから、これはもう奇跡というしかない。と同時に、それを成し遂げたのは西郷隆盛がいたからだといって間違いないと思う。


 このように明治維新を成功させた三つの重要事項、薩摩藩と長州藩の合体、軍を率いて徳川幕府を倒したこと、廃藩置県で大名をなくしたことという、最も難しいと考えられた三項目の中心に西郷隆盛がいたのである。


征韓論をめぐる大久保と西郷の対立


 その後、明治政府は幕末に外国と交わした不平等条約を改正するための交渉の下地をつくることを考えるようになった。それには世界の事情を見ないことには話にならないということで、これも日本でしかできなかったと思うのだが、特命全権大使に岩倉具視、副使に木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、(やま)(ぐち)(なお)(よし)の四人を据えた使節四十六名、随員十八名、留学生四十三名の大デレゲーションを組んでアメリカとヨーロッパの視察に出かけるのである。一行は明治四年(一八七一)十一月十二日に出発し、明治六年(一八七三)九月十三日に帰国しているから実に二年近く海外を周遊した。


 これはとてつもない出来事である。明治維新が革命だというならば、革命を起こした一番の中心人物たちが二年間も国内を留守にして外国に行くなどということは考えられないだろう。これはたとえばフランス革命を成功させたロベスピエールたちが共和国の手本になったアメリカを二年ぐらい見に行こうかというような話である。そんなことはあり得ないのである。


 もちろん反対する意見もあった。しかし、それを押し切って見に行こうとするのである。そのときに岩倉たちは残った人間に対して、自分たちが海外視察に行っている間は、重要な問題は決めない、重要な人事異動はしない、という約束を取りつけた。しかし、それはちょっと無理な話だったと思う。


 この明治四年から六年にかけて、国内で何があったかというと、ざっと見ただけでも、暦が太陰暦から太陽暦に変わり、兵部省が陸軍省と海軍省に分かれ、庄屋・名主が廃止され、僧侶の結婚が許され、学制が発布され、新橋─横浜間の鉄道が敷かれ、第一国立銀行ができる、とさまざまなことが起こっている。大変革の時代だから何もしないわけにいかないのだ。当然、人事も変わらざるを得ない。


 国際的な問題で一番大きかったのは征韓論が沸き起こったことだった。征韓論は、一般的な認識では、西郷隆盛が韓国に攻めに行くといって反対派と喧嘩になったように思われているが、それほど簡単な話ではない。


 韓国(当時は朝鮮といっていたが)は秀吉の朝鮮出兵でひどい目に遭っていたから、秀吉の豊臣家を滅ぼして生まれた徳川幕府をいいものだと考えていた。実際、江戸時代には朝鮮通信使を十二回も送っている。通信使というと聞こえはいいが、一種の朝貢使である。朝鮮通信使は徳川将軍が代わるたびに挨拶に来ており、幕府と朝鮮は良好な関係にあったのである。


 明治維新で幕府がなくなったあと、明治新政府は朝鮮とも国交を開こうとして手紙を出した。ところが、朝鮮はそれに返事をしなかった。国書には明治天皇の署名が入るから、「朕」あるいは「天皇」という朝鮮から見れば清国の皇帝しか使わないような言葉が使ってある。それを不快に思って返事をしなかったのであるが、それが礼に反するということで腹を立てた人たちが「朝鮮を潰してしまえ」といったのが征韓論のはじまりである。


 しかし、西郷さんはそれほど短絡的な人ではないから「わしが行って話をつけてきてやろう。万一、わしが殺されたら攻めてくれ」という話をした。それで一応意見がまとまって宮廷からも征韓論の許可が出るのである。


 ちょうどそこに岩倉使節団のメンバーがぽつぽつと帰ってきた。最後に回る場所が違っていたため、全員一斉に帰ってきたわけではないのである。ところが、帰国しても大久保利通などはすぐに東京に入らず、征韓論についてもほとんど何もいわなかった。ほかの人も同様だった。なぜかといえば、最後に帰ってくる岩倉具視を待っていたのである。


 ここが大久保の見通しのいいところというか、腹黒いところというか、自分が征韓論に反対しても宮廷では一応征韓論を認めたことになっているから勝てないと読んだのだ。征韓論を潰すには岩倉が帰ってきて太政大臣になったうえで反対するより方法はないと考えたのである。だから、それまでに何か月も待っていた。その間は一言も政府の批判をしないのである。これはとんでもない器量である。


 そして、岩倉が帰ってくるとすぐに相談して一挙に征韓論を葬ろうとするのである。しかし、今回は西郷が相手なのでなかなか簡単には行かず、(さん)(じょう)(さね)(とみ)(一八三七~一八九一)なども立ち往生をしたといわれている。しかし結局、大久保、岩倉のチームワークが勝って、征韓論は取り消しになった。西郷はメンツを潰されたと思ったのか、下野して鹿児島に帰ってしまった。


 大久保は子供のときから一緒に飯を食った仲の西郷を憎んだりはしていない。その気質もよく知っていて、「西郷というのはいいやつだけれども、困った癖がある。何か気に食わないことがあると禅宗坊主みたいにこもってしまうんだ」というようなことをいっている。大久保は西郷に「おぬしもひとつ外国に行ってきたらどうか」と勧めるが、西郷は島流しにされていたときに風土病の象皮病にかかって馬にも乗れなかったようである。だから、大久保の勧めを断っているのだが、西郷は西郷でさっぱりした人だから、別に政治への野心もなく、鹿児島に引っ込んでいたのである。


“担がれる人”であったがゆえの悲劇


 ところが、下野した西郷を慕う人たちがいた。真相はわからないが、大久保が西郷を暗殺しようとしたからといって兵を挙げたという話もある。確かに鹿児島はなかなか中央政権のいうことをきかなかったのだが、それでも大久保が西郷を暗殺しようなどと考えることはなかったと思う。ただ、政府としては鹿児島の状況が気になるから様子を見に人を送った。その人間が捕まって責められているうちに、大久保から暗殺を頼まれたといったのかもしれない。その真実はわからないが、そういう説が信じられてしまったのである。


 そこで西郷を担いで、もう一度明治維新をやり直そうという人たちが鹿児島に集まってきた。というのも、明治維新で偉くなった人たちの顔ぶれを見て、自分たちはもっと偉くなってよかったはずだと思った人がたくさんいたのである。また、明治維新に乗り損ねた若者も数え切れないほどいたのである。その中には、これからもう一回、西郷さんを担いで明治維新がなれば自分たちも大臣ぐらいになれるかもしれないと思った青年もいたに違いない。


 そして薩摩の人にはそういうところがあるというが、西郷にはあるところまで担ぐ人がいたら担がれてやろうかというところがあったようである。「担ぐ人に俺の体を預けたよ」という思い切りのよさがあるように思うのである。


 人に担がれるというのは一つの器量である。それは西郷家の特徴といってもいいかもしれない。弟の西(さい)(ごう)(じゅう)(どう)(後の海軍大臣、内務大臣/一八四三~一九〇二)は明治政府に残ったが、この人も担ぐ人がいれば担がれるところがあった。


 西郷の遠縁にあたる(おお)(やま)(いわお)(日露戦争時の元帥陸軍大将/一八四二~一九一六)も、担ぐ人がいたら担がれてやろうというわけで、日露戦争の満洲派遣軍の総司令官になった。その下のほうは皆、維新の生き残りの骨っぽい軍団長ばかりであったから、担がれてやろうという人がいないと思うようには動かせなかったのである。日露戦争のときの総司令官を誰にするかというとき、位からいえば山縣有朋などが一番高かったが、山縣は黙って担がれるようなタイプではなかったため、すぐにけんかになってしまう。そのときに黙って担がれたのが大山巌だったのである。そして、この大山巌よりもっと担がれやすいのが西郷従道であり、さらに担がれても平気だったのは西郷隆盛であったように思う。


 この“担がれる人”というのは日本に特有のものといっていいかもしれない。西郷隆盛は担がれることで、身を預けるという形で西南戦争に出たと思うのである。ただ一つ、担いだ人たちの大きな誤りを西郷は認識できていなかったかもしれない。それは(たに)(たて)()(一八三七~一九一一)が頑張って熊本城が落ちなかったことだ。西郷は当時、日本でたった一人の陸軍大将であった。だから、陸軍大将の軍服を着て戦場に出た。谷干城は少将くらいの位であったから、大将が来て門を開けといえば開くだろうと西郷を担いだ人たちは考えた。そこが担いだ人間たちの甘いところであったし、担がれた西郷もそこまでは考えなかったのかもしれない。


 あの西南戦争を見ると、私はいつも日本軍とアメリカ軍の戦いを思い出す。日本軍が西郷軍でアメリカ軍が明治政府軍である。政府軍にはいくらでも鉄砲もあるし鉄砲の弾もある。そして船もたくさんあった。ところが西郷軍にはそれがなかった。()(ばる)(ざか)の戦いまでは本当によく戦ったが、あとはじり貧で、負けはじめると早かった。これはちょうど日本軍が初めはよかったが、ミッドウェーで負けるとあとがなくなってしまったのと似ていると思うのである。


 西郷隆盛のような人がいないと、やはり国がうまくいかないということはあると思う。大変革の時代には欲がある人が中心におればまとまらない。西郷のような私心なき人が真ん中にいると、誰も露骨に悪いことができなくなるのである。そうした意味も含めて、西郷隆盛の戦死は歴史の悲劇といっていいように思う。

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