『巨人軍の巨人 馬場正平』
[著]広尾晃
[発行]イースト・プレス
「讀賣巨人軍来たる!」 商店街の入り口の立て看板を見て、少年の心は躍った。
1年前から父親に野球の手ほどきを受けて、今は明けても暮れても野球のことばかり。漫画雑誌の野球特集では飽き足らなくなって、本屋の店先で大人の野球雑誌を立ち読みするようになった。
川上哲治、別所毅彦、大友工、広岡達朗。表紙や口絵を飾る巨人軍選手の写真は、少年には神々しいもののように覚えた。
「今度の日曜日に、巨人が来るんだって」
帰宅した父に、勇みこんで言ってみる。ラジオから大阪対巨人の中継が流れている。「どうせ二軍だろ、こんな田舎に川上が来るはずがないじゃないか。第一、甲子園で試合をやっている」
浴衣に着替えた父は、咥え煙草でビールの栓を抜きながらそう言った。
しかし、それでも母は野球観戦のために、特別にお小遣いをくれた。
それを握りしめて商店街の新聞販売店で切符を買った。
「ぼっちゃん! きみんとこの新聞何? うちのにかえてくれたら、この切符、タダであげるんだけどなあ、お母さんに言っといてよ」
店主の声はろくろく耳に入らなかった。
少年は枕の下に切符を挟んで寝た。本当に指折り数えてその日を待った。
「昨日の夕方、巨人の選手が特別列車で来て、駅前の旅館に泊まったよ。玄関にでっかい靴がいっぱいならんでたって! 酒屋がビールケースをいっぱい旅館に運んだって。夜は温泉に入りに来たんだって。すごく大きかったって!」
一緒に行く約束をした友だちは、少年に会うなり、上ずる声で畳み掛けるように言った。
この友だちは新聞販売店が集金のついでに切符を持ってきたので、お金は払っていない。少年は複雑な世の中をちらっと垣間見たような気がした。
町はずれの球場の入り口には、行列ができていた。この春の高校野球の地方大会では、並ばずにすっと入ることができたのに、さすがは巨人軍だ。
まだ試合開始まで1時間もあるのに、球場は満員だ。
「五千は入っとるだろう」
タオルを頭にのせて、その上から麦わら帽をかぶった大人がそう言いあっていた。
相手チームは国鉄。ノックをしている。
「金田はおらんのじゃな」という声も聞こえる。見事なバットさばき。
続いて巨人軍が姿を現した。
ノックバットを持った背番号31が、本塁の前で軽く素振りをくれている。
「千葉じゃ、千葉茂じゃ」
大人たちが騒ぐ。少年も、昨年引退した“猛牛”千葉茂のことは聞いたことがある。川上哲治と並ぶスターだった。少年の胸は高鳴った。
千葉は長いノックバットから次々と打球を繰り出した。ゴロもフライもライナーも、思いのままに打つ。まるで魔法の杖のようだった。
「まだ選手で行けるんじゃないか」
「ちばー! 今日は試合に出んのか」
一瞬ネット裏を振り返った千葉は、にやっと笑った。
あっという間にシートノックは終わり、内野には大きな如雨露で水がまかれた。ラインが引き直され、試合の準備が整った。
一塁側がざわめいている。
見ると、ブルペンで見たこともないような大きな選手が投球練習をしている。
捕手や他の投手の頭は、この投手の胸のあたりまでしかない。
大男はゆっくりと捕手に球を投げた。長い顔、手も長い。
やがて、試合開始のときが近づくと、大男はゆっくりとマウンドに歩きはじめた。背番号がちらっと見えた。「59」大きな背番号だ。
審判が「プレイ!」を宣する。
大男は、突然、腕をぐるぐると振り回しはじめた。まるで巨大な水車のようだ。
場内は異様な興奮に包まれた。
ゆったりとしたフォームから、第一球。軽く投げたように思えたが、ボールは「ずどーん」と重い音を立てて捕手のミットに収まった。
少年は大男の投球をじっと見つめた。
「いいか、ボールの縫い目に垂直に、二本の指をかけるんだ」
父からはボールの握りをこう教わったが、大男は手が大きすぎるので、ボールをつまむようにつかんでいる。まるでピンポン玉のようだ。
二球目を国鉄の打者が打った。しかし打球は前には飛ばない。一塁側へのファウルフライ。一塁手がフェンス際で好捕。拍手が起きる。
続く打者は初球をバント、一塁線に転がる打球。大男はマウンドからどすどすと降りて打球をグラブに収め、意外に素早い動作で一塁に送球した。指先が一塁手のミットに振れるのではないか、と思った。
「へー、動きもいいじゃねえか」
大人たちが感心している。
場内はすっかり大男の動きに魅了された。
少年は入り口で渡された選手一覧に目を通した。
背番号「59」の横には「馬場正平」と記されていた。知らない選手だ。身長は6尺4寸、体重は26貫。
そして選手ごとに書かれた寸評にはただ一言、「巨人軍の巨人」と書かれていた。
少年が巨人軍投手馬場正平を見たのは、この一度だけだった。
しかし、少年はこの日のことを一生忘れなかった。