『巨人軍の巨人 馬場正平』
[著]広尾晃
[発行]イースト・プレス
馬場正平の生地、三条市は、東西に細長い新潟県のほぼ中央にある。日本海には面していない内陸の市である。現在の人口は約10万人。北は燕市に隣接し、南は守門岳など1500メートル級の山脈に連なっている。
町の中央には五十嵐川が流れる。この川は街の北外れで信濃川と合流している。南の山脈から溶け出す雪どけ水が源流。さして大きな川ではないが、水量は多く、流れは速い。この五十嵐川の左右には、見晴らしの良い平野が続いている。この地は「五十嵐」という姓の発祥地のひとつとされる。
新潟は世界有数の豪雪地帯だが、三条の平野部の積雪量は最大でも数十センチ。特に市街地ではそれほど積もらない。昔は一冬に一、二度は大雪が降ったが、最近は地球温暖化の影響もあって、真冬でも路面が見えていることもある。
三条は、越後の英雄、上杉謙信を輩出した三条長尾氏の拠点であり、中世には越後の中心地のひとつとして栄えた。
町の歴史は13世紀にさかのぼる。16世紀に成立したとされる県都新潟市よりも古い。
三条の町のはじまりは、鎌倉時代末期、日蓮の門弟日朗とその高弟日印が、本成寺を建てたことに端を発する。今も新潟県屈指の巨刹である本成寺は、法華宗大本山。京都など全国に末寺を持つ大寺院だ。この寺院が創建されて以降、多くの信者、参拝者を集めたことから町は発展した。
三条は商工業の盛んな町である。江戸時代初期にはじまった金属加工業は、のちに「三条鍛冶」と呼ばれるようになる。
三条鍛冶は刀槍などの武器ではなく、和釘や鉈、鎌などの生活雑器の生産が中心。三条は、隣接する燕とともに金物の一大生産地となる。
また三条の人々は、これらの刃物を全国各地に売り歩くようになった。
この地方には市が多い。四日町、五日町、十日町など市の開催される日にちなんだ地名があちこちに見られる。
市では、金物だけでなく、食品や衣類、雑貨など様々な品物が商われた。
この本を書くにあたって、三条市に何度か足を運んだ。
関西育ちの私から見れば、軒の低いがっしりした家が続く街並みは、ややくすんで見えた。町が赤茶けて見えるのは、冬季、融雪のために路面に撒く水の鉄分によるのだろう。
町の人々と接して感じたのは「人当たりが柔らかい」ということだ。適度な距離感を取って人と接している。「商人の町だな」という印象を持った。
もともと新潟県民は勤勉で「頼まれれば越後から米搗きに来る」と言われるほど、真面目だとされる。しかし、同時に排他的で、信頼関係を築くのに時間がかかるとも言われた。しかし三条では、そういう印象は持たなかった。商人の町らしい気さくさ、親しみやすさを感じた。
東京や大阪など大都会のような「生き馬の目を抜く」ような、せわしない印象もない。
飲み屋のおかみさんは「このあたりは隣近所の仲が良くてね、何かあればみんなで助け合うんですよ。お米やみそ、しょうゆの貸し借りなんかもしたものですよ。それに、よその地方から人が来たら、家に泊めたりすることも多かったんですよ」と言った。
一説には三条は「人口比で社長が全国一多い町」とも言われる。馬場正平も後年「社長」と呼ばれるようになるが、人との信頼を細く永くつなぐための交際術にたけた、如才ない人々が住む町、という印象を受けた。
エピソードをもうひとつ。戦前、新潟には新発田(三条市から70キロ北東にある都市)に歩兵第16連隊が設置された。この連隊は郷土愛が強く、勇猛果敢だったが、同時に心優しい気質で、古兵による私的制裁が一度もなかったとも言われる。
おだやかで、細やかな気配りのできる地方なのだ。
こうした町に育ったことが、馬場正平の人格形成に少なからぬ影響を与えたと思われる。
町の中心を流れる五十嵐川は暴れ川であり、最近に至るまで水害を何度ももたらした。しかし、それを除けば三条は、雪国にしては生活しやすい土地だと言えるだろう。