読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-1
kiji
0
1
1099631
0
台湾はなぜ親日なのか
2
0
1
0
0
0
0
ルポ・エッセイ
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
児玉総督の銅像に蒋介石の頭を乗せた国民党政権

『台湾はなぜ親日なのか』
[著]田代正廣 [発行]彩図社


読了目安時間:8分
この記事が役に立った
1
| |
文字サイズ



 1952(昭和27)年以降の台湾経済が「奇跡」と言われるほどの順調な成長を続けていることに早くから注目し、台湾島内及び東南アジアの需要増に備えるための生産工場建設を検討していた私の会社は、1968年に台湾子会社TT社を桃園(とうえん)県(現・桃園市)楊梅(ようばい)に設立することになった。TT社はめでたく順調なスタートを切り、私も営業強化のため高雄(たかお)に顧問として赴任することが1980年5月に決まった。



 同年6月、成田発の中正(ちゅうせい)国際空港(現・桃園国際空港)行きの日本アジア航空機に乗った。日本アジア航空は日本航空の子会社である。これは、日中間航空協定の締結に当たって、中国の申し入れにより日本航空の台湾への乗り入れが禁止されたため、日本アジア航空となったのである。1978年より運行されていた。


 成田を離陸してから3時間後、日本アジア航空機は中正国際空港に着陸した。現在では桃園国際空港となっているが、当時は蒋介石(しょうかいせき)の号である「中正」を入れて中正国際空港と呼ばれていた。


 このとき、台湾は蒋介石の長男である蒋経国(しょうけいこく)第6代総統の政権下にあったが、蒋介石政権時の1949年に発令された戒厳令はまだ解除されていなかった。そのため、入国時に政権を批判する記事が載った英文や日本語の新聞雑誌は、税関で全て没収された。戒厳令といっても、当時の自分にとっては馴染みの薄いものだった。




 ここで、蒋介石が台湾に逃れてきた背景と、その政権下で発令された戒厳令について触れておきたい。


 1937年7月の盧溝橋事件から始まった日中戦争は、日本軍と蒋介石率いる国民党の中華民国軍との戦争という構図である。蒋介石は日本軍と戦うために毛沢東率いる共産党と第二次国共合作を成立させたが、これが十分に機能しないまま決裂してしまい、日本軍は同年12月に「中華民国」の首都南京を陥落させた。


 それでも国民党は拠点を変えながら移動し、日本軍の追撃から免れた。日本軍は打開策として「南京」に「国民政府」を樹立させ中華民国の「重慶政府」と対抗させようと目論んだが、「重慶政府」はアメリカ・イギリスの支援を受け、国共合作のもと日本軍に激しく抵抗を続けた。結局、1945年8月14日、米・英・中華民国によるポツダム宣言を日本が受託通告したことにより日中の争いも終わりを迎えた。


 第二次世界大戦が終わって1年も経たないうちに中国大陸は再び国民党と共産党による内戦状態に入っていくが、国民党の形勢は悪く、台湾への移転に向けて本格的に準備を進めていった。



 1948年12月、蒋介石の腹心の部下で、台湾省政府主席に任命された陳誠(ちんせい)将軍は、蒋介石の長男の蒋経国、次男の蒋緯国(しょういこく)と共に台湾に移動した。翌年2月には台湾各地の港と河口を封鎖、海岸線も管制下におき、許可証を持たない軍人や官吏、商人などの台湾上陸を厳しく制限し中国から押し寄せる難民の流入に歯止めをかけた。


 こうして確実に体制を整えながら、5月1日に一斉に戸籍調査を行い、1949年5月20日にとうとう戒厳令が敷かれることになったのである。


 中国大陸を失いながらも自らをまだ「中国正統政府」と思い込む国民党政権は、「大陸奪還」の目標を掲げ「大陸奪還のための臨戦態勢」という名目で戒厳令を敷いたのであった。この戒厳令とは、普通の法律を停止し、全ての民間人も軍の規則と命令に従わせるものである。


 こうして十分な準備をしてから、蒋介石は1949年12月、南京・北京の故宮博物院で厳選の上没収した財宝を積み込んで、軍艦とともに台湾に逃げ込んできた。


 この際に発令された戒厳令は38年後の1987年まで解除されることはなく、解除された後も国家安全法によって言論の自由が制限された。



 これが、私が台湾へ赴任する際に敷かれていた戒厳令のあらましである。当然のことながら、このような戒厳令下にある国の入国審査は、前述したように新聞を没収されるなど厳しいものだった。入国する外国人にとってはあまり気持ちが良いものではなく、正直なところ何か陰湿なものを感じざるを得なかった。


 それは台湾に逃れてきた蒋介石率いる国民党と外省人を含めた200万人が持ち込んできた、中国人の本性すなわち中国王朝の残滓(ざんし)であった。

「外省人」という言葉がでてきたので、台湾の総人口と民族構成について簡単に紹介したい。


 台湾の総人口は2014年12月現在で、約2300万人である。そのうち、先ほどの「外省人」とは中華民国台湾省の外からやってきた民族を意味し、その数は約276万人(12)である。


 それに対をなし、もともと台湾に居住していた民族を「内省人」といい、約1978万人(86)と台湾人口のほとんどを占める。内省人はさらに福建系1679万人(73)と客家(ハッカ)系299万人(13)に区別され、外省人や内省人よりも以前から台湾に居住していた原住民系46万人(2)の民族がいる。本書ではこれらの民族を総称して台湾人と呼ぶことにしたい。



 入国審査を終え、空港から台北市内に向かった。市内に入ると、台北は「中華民国の臨時首都である」ことを知らしめるためであろう、国民党政権によって街路名は全て中国大陸主要都市を彷彿させる街路名となっていた。中山北路、光復南路、忠孝東路、建国北路、復興南路、南京東路、重慶南路、長春東路、といった具合である。


 蒋介石政権が重慶に逃げ込んだときも重慶の街路名を同じように変更させたというのは後で知ったのだが、それならば台北においても手慣れたものだったに違いない。


 この中で特に目につくのは光復南路の「光復」だ。光復は日本から台湾を取り戻し、光が戻ったことを意味している。その他に「三民主義」のスローガンが多く目についた。



 私は当時、台湾事情をあまり知らなかった。ただ、新聞で伝えられていた「蒋介石が『徳を以て怨みに報ゆ』と言って台湾を撤収する日本兵を安全に帰国させた」という話だけは記憶に残っていたので、その話をしてみることにした。


 台北のTT社本社に到着し、台湾人の社員に型どおりの挨拶をした後に「日本軍を安全に帰国させてくれたこと」に対して感謝の気持ちを述べたのだが、社員たちからまったく無反応という予想外の反応が返ってきたのだ。


 そんな私に、謝さんという台湾人社員が寄ってきて声をかけてくれた。謝さんは日本人の母親を持つ内省人でその後もいろいろと良くしてくれた人だ。彼は、あまり大声で言えませんが、と前置きして「我々内省人は、蒋介石政権以降の国民党の政治には信頼を置いていないのです」と耳打ちをした。


 このTT社に外省人はほとんどおらず、その多くは内省人、つまり、福建人と客家人だと知ったとき、国民党政権を牛耳る外省人と内省人の間には「何か」があると感じた。


 それから1年くらいして、私と私の家族は謝さんに蒋介石廟のある慈湖(じこ)陵寝(りょうしん)や台北市内を案内してもらうことになった。慈湖陵寝を後にして台北に戻り、松山空港前から伸びている敦化(トゥンホヮ)北路と敦化南路がぶつかるロータリーに来たとき、謝さんは「あの銅像を見てください」と車を停めた。


 何かと思えば、蒋介石が馬に乗っている銅像である。私が銅像に目を向けていると、謝さんが「よく見てください。これは、第4代台湾総督府総督・児玉源太郎(こだまげんたろう)の像から頭部だけ切り取り、蒋介石の頭を付け替えただけのものですよ」と言う。


 よく見るとまさにその通りで、蒋介石が日本陸軍将校の軍服を着ているのであった。


 また車を走らせていると窓から中正記念堂が目に入ってきた。その中にも蒋介石総統の銅像があるというので、台湾島内にどのくらいその銅像があるのかと聞くと、なんと数万体はあるという。


 それを見て私は、国民党は台湾の人々に個人崇拝を要求したのだろうと思った。さらに、別荘となると、極秘のものも含めて台北、日月譚(にちげつたん)、高雄等十数ヶ所にあるといっていた。


 まだ時間もあったので台北の故宮博物院に入ったが、全部見るとなると丸3日間以上はかかりますよと言われたので、日を改めることにして博物院を後にした。謝さんが言うには、「この博物院の所蔵品は、蒋介石が台湾に逃れてきたときに台北に持ち込んだものですが、台湾に着く前に遭難して消えた所蔵品もそれと同数近くあった」そうだ。


 私は台湾に赴任してすぐに、蒋介石や国民党について、新聞などメディアが発する情報しか知らなかったことを思い知らされ、蒋介石政権で虐げられていた内省人の気持ちを察することなく安易な発言をしてしまったことを恥ずかしく思った。



1:孫文の号。中国では「孫文」よりも「孫中山」の名の方が通称とされる。

2:民族主義、民権主義、民生主義から成り立つ中国革命の理論であり、中華民国憲法にもその趣旨が記されている。



この記事は役に立ちましたか?

役に立った
1
残り:0文字/本文:3668文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次