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なぜ? シンガポールは成功し続けることができるのか
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政治・社会
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02 シンガポールが世界史に登場した理由について

『なぜ? シンガポールは成功し続けることができるのか』
[著]峯山政宏 [発行]彩図社


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 ラッフルズが、シンガポール島にはじめて降り立ったのは1819年1月28日のことである。


 現在、彼が最初に上陸したシンガポール・リバー沿いの埠頭には、その偉業を讃える銅像が建設され、シンガポールの象徴ともいえる金融街をバックに、シンガポールという国を(へい)(げい)している。ラッフルズと冠する名前が、シンガポール中の様々な商業施設、公共施設、学校、病院、地下鉄の駅名に付けられていることは、彼がこの国に残した功績の大きさを物語っている。


 ラッフルズは、イギリスの東インド会社の社員として、イギリス本国の世界戦略を実行するために、シンガポールに降り立った。東インド会社は、植民地の確保や経営を行い、かつ、イギリス本国からアジアとの貿易独占権を与えられているという非常に特別な存在だった。通常の民間企業ではなく、政府機関に近いと考えた方が分かりやすいだろう。


 このイギリスの世界戦略によって、シンガポールは世界史に浮上することになる。当時のイギリスはどちらかと言えば現在のアメリカのような存在に近く、「世界の覇権国」として、世界に君臨しており、世界中の直轄の植民地から莫大な収益を得ていた。


 ラッフルズの、シンガポール島に上陸するまでの経歴を簡単に確認してみよう。


 東インド会社の職員として採用されたラッフルズは、1805年、イギリスの海外植民地であったマレー半島のペナンに赴任することになった。その後、数年して、マレー半島のマラッカへと赴任地を変更し、1811年に、フランスの勢力下にあった、インドネシア、ジャワ島への侵攻のため、イギリス領インドから派遣された遠征軍に従軍している。


 ヨーロッパの歴史に詳しい人はご存知だろう。1795年、オランダ本国はフランス革命の影響を受けてフランス革命軍に支配されたため、オランダの海外植民地は、自動的にフランスの植民地となったのである。フランス革命やナポレオン戦争で、ヨーロッパ大陸が疲弊していた時代に、イギリスはそれを尻目にオランダ、フランスの海外植民地を次々と攻略して行ったのだ。


 ラッフルズがジャワの遠征軍に参加したのも、フランスのナポレオンが派遣した遠征軍に対抗して、ジャワ島を占領工作するためである。45日間の戦いで、ジャワ島の占領に見事に成功し、ラッフルズはジャワ島の副総督に任命されジャワ島を統治することになった。

『海の帝国 アジアをどう考えるか』(白石隆著 中央公論新社)に詳しいが、ジャワ占領前夜、ラッフルズは、イギリス東インド会社総督ミントー卿宛の書簡において、マラッカ海峡から、スマトラ島、ジャワ島、バリ島、スラウェシ島を経由して、モルッカ諸島、オーストラリアに至る「新帝国」の建設を提言していた。「新帝国」構想は、東アジアではなく、東インドに向いており、当然のことながら、シンガポールはその構想の中に入っていなかった。


 だが、時代は急変した。1815年、ヨーロッパでは、ナポレオン軍が、ワーテルローの戦いで敗北し、ナポレオン戦争が終結。オランダは晴れてフランスから独立し、イギリスはせっかく奪取したジャワ島をオランダへ返還する。


 その後、1824年の英蘭協約では、インドネシアは、オランダ領、マレー半島はイギリス領という大胆な線引きを行い、インドネシアから、完全に撤退したのである。


 政治学者であり歴史学者である(しの)()(せい)(ざぶ)(ろう)氏の古典『ラッフルズ伝 イギリス近代的植民政策の形成と東洋社会』(平凡社)では、イギリスがインドネシアをオランダに返還した経緯について、左記のように記載されている。


「ヨーロッパにおける勢力の均衡を維持する必要から、ジャワ島を返還してまで、オランダとの友好関係を希望していたイギリス本国の政府は、このような問題から、両国の平和にひびが入るのを極度に恐れていた。」

(『ラッフルズ伝 イギリス近代的植民政策の形成と東洋社会』 信夫清三郎著 平凡社)



 ヨーロッパ戦争中に、イギリスはオランダの海外植民地を次々と奪取しており、両国の関係にはすでに修復不能なひびが入っていた。「ヨーロッパにおける勢力の均衡を維持する」というのは建前で、本音はもっと違うところにあると考えるのが普通ではあるが、裏の事情はどうであれ、ラッフルズの東インドにおける「新帝国」の構想は、ジャワ島の返還により消え去ったのである。その後、ラッフルズは、ジャワ島からイギリス本国へと帰還した。


 この時点で、シンガポールはイギリスの世界戦略構想の中に当然入っていなかったが、シンガポールはやはり強運を持った場所だ。時代の神々はシンガポール島に微笑むことになる。


 ラッフルズは、1818年、スマトラ島にあった、イギリス東インド会社の植民地ベン・クレーンに准知事として赴任するために再び東南アジアの地に舞い戻ることになった。


 そして、イギリスはすでに、ヨーロッパにおけるオランダ対策のためジャワ島の返還を決定していたので、ジャワ島に替わる新たな拠点を必要としていた。


 そこで、ラッフルズは、マレーシア、ジョホールの対岸にある小さな島に注目した。シンガポール島である。シンガポールに初上陸したラッフルズは、ジョホール王のフサインと協定を結びシンガポールを買収し、世界の自由貿易港であるシンガポールの都市建設を始めたのである。


 なぜ、イギリスは世界戦略を実行する上で、シンガポール島をジャワ島に替わる島として注目したのだろうか? 次項で詳細について確認してみよう。



《まとめ》


 シンガポールの建設の父と呼ばれるラッフルズは単なる旅行者ではなく、東インド会社職員としてシンガポール島にやってきた。彼がシンガポールに世界の自由貿易港を建設したのは、イギリスの世界戦略を実行するためであった。

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