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裏社会 闇の首領たち
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ルポ・エッセイ
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田岡組長に比肩する関東の首領 稲川聖城(初代稲川会会長)

『裏社会 闇の首領たち』
[著]礒野正勝 [発行]イースト・プレス


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 3大極道組織のひとつ、稲川会を一代で築いたカリスマ親分で、会長職のあと総裁となった。

 熱海を地盤にして東海道筋に勢力を拡張したが、稲川会躍進の一番の推進力となったのは、老舗博徒や愚連隊が群雄割拠していた戦後の横浜を統一したことだといわれている。

 また、対立関係にあった山口組と最高幹部同士の兄弟盃を交わし、親戚関係となったのも稲川の器量だった。そのドラマチックな人生をつづった自伝『制覇』を刊行したことも話題になった。

 三代目山口組組長の田岡一雄と並ぶヤクザ社会のドンといわれ、田岡の葬儀では本葬儀執行委員長を務めている。その後の竹中正久四代目、渡辺芳則五代目の後見人となったことからも、大物ぶりがうかがえよう。

 現在、東日本を中心に1都1道18県に構成員約9500人を擁する稲川会。組織名を「鶴政会」「錦政会」と改称しつつ勢力を拡大し、警察庁の第一次頂上作戦で多くの有力組織とともに解散に追い込まれながらも復活、現在の隆盛にいたったのは、稲川聖城のカリスマ性とリーダーシップの(たまもの)といっても過言ではない。


 稲川は若いころ、稲川角二と名乗っていたが、改名して運気が上昇したのか、以後は組織をヤクザ社会のビッグ3にまで発展させている。

 神奈川県出身で、若いころからケタはずれの行動力と無類のバクチ好きという男っぷりで知られ、昭和8年(1933年)、19歳の時に、片瀬(現・藤沢市)に一家を成していた堀井一家の三代目、加藤伝兵衛の盃を受けて渡世稼業をスタートさせた。

 加藤は戦前の横浜でその名をとどろかせていた笹田照一、藤木幸太郎、鶴岡政次郎といった大親分と兄弟分で、地元の片瀬をはじめ、鎌倉、大船、藤沢など湘南各地に縄張りを広げていた大物だった。この加藤の若衆になったことが、後年、稲川聖城をヤクザとして大きく飛躍させる契機となった。

 余談になるが、笹田照一は横浜港などの港湾事業に強大な権力を誇っていた侠客で、山口登・二代目山口組組長と兄弟分であった。

 稲川がヤクザとして成長していくうえで、いかに人脈と環境に恵まれていたかがおわかりいただけよう。人間の歴史においては、強力な影響力のあるリーダーとの人脈が大きなキーポイントになるかという、典型的なケースである。

 さらに稲川にとってラッキーだったのは、若いうちから一本立ちする試練が与えられたことだった。戦後、稲川は加藤から前出の鶴岡の組織へと修行預かりとして送り込まれたのだ。まさに「可愛い子には旅をさせろ」を地でいく地元ヤクザの慣習で、稲川にとってはまたとない人間修行の旅となった。

 このころの稲川の極道としての素質と器量はすでに抜群で、()()がよく、喧嘩もバクチも強いという「稲川伝説」は今も語り継がれている。その数多い武勇伝のひとつを紹介しておこう。

 加藤が開帳した賭場に関東の有力組織の幹部が顔を見せて、因縁をつけるトラブルが起きた。現場にいた、まだ若衆の稲川が、その幹部を旅館の2階から投げ飛ばして瀕死の重傷を負わせたのである。一時は大抗争に発展しそうな不穏なムードとなったが、両組織に顔がきいた東京の親分が仲裁に入って和解にいたり、事なきを得た。この喧嘩で稲川の名が一気に広まったことは言うまでもない。

 そして、昭和24年(1949年)、稲川はついに熱海の山崎屋一家の五代目を継承、「稲川組」を旗揚げし、湯の街・熱海に地盤を持つ親分となった。ときに34歳の若さだった。以後、熱海から東海道筋に進出し、怒濤の勢いで勢力を拡大していく。

 その勢いに乗って稲川が目指した戦後の横浜は、前述の笹田、藤木、鶴岡ら戦前からの大物親分たちの目もまだまだ黒く、また彼らの傘下の組長らが兄弟分の関係を構築していた。さらには新興勢力の愚連隊も、「愚連隊四天王」と呼ばれた井上喜八、林喜一郎、出口辰夫、吉水金吾らが(ばっ)()するという混迷の状況にあった。

 だが稲川は、その愚連隊連中と抗争をくりかえしながら、彼らを自分の組織の系列下に組み込んでいったというのだから、その豪腕ぶりがうかがえる。

 命知らずの愚連隊四天王らは、稲川会初期の突撃部隊として活躍し、勢力拡大に大きく貢献したことは、稲川会の歴史を振り返るうえで特筆しておかなければならない。

 横浜を制した稲川は、川崎、小田原などを次々と勢力下に収め、ついに昭和34年(1959年)1月に東京・六本木に「稲川興業」の看板を掲げ、東京進出を果たす。

 稲川組は昭和34年(1959年)に組織名称を「鶴政会」に、昭和38年(1963年)には「錦政会」に、そして昭和47年(1972年)に現在の「稲川会」へと改称した。鶴政会の名は、恩人の鶴岡政次郎の名をいただいたものである。

 その鶴岡とともに稲川のバックボーン形成に強く影響したのが、稲川の兄弟分だった横山新次郎だった。横山からは、極道とはなんたるかという生き方を教えられたという。

 「兄弟から教育され、指導を受けたことで、ここまでの人物になることができた」

 稲川は自伝で、こう述懐している。


 「稲川興業」の看板を掲げて東京進出を果たし、首都圏の勢力範囲をさらに広げる稲川会と他の組織との抗争事件は頻発した。しかし、その一方で関東の暴力団組織の親睦団体「関東二十日会」の結成にも精力的に行動するという手腕を見せた。

 昭和61年(1986年)、稲川は会長から「総裁」のポストに就いて、稲川会理事長だった石井隆匡・横須賀一家総長を二代目稲川会のトップに抜擢した。

 その石井が平成2年(1990年)10月に病気で引退すると、稲川の実子で稲川会理事長だった稲川裕紘を三代目会長に昇格させる。と同時に、みずからは総裁として組織の運営に影響力を持ち続けた。

 ところが、稲川会のトップとしての風格と、父親ゆずりの強烈なカリスマ性を備えつつあった稲川裕紘が、平成17年(2005年)5月、64歳の“極道盛り”で急死するという悲運が襲った。稲川聖城のショックは大変なものだったという。そして平成20年(2008年)12月、彼もまた永眠した。享年93。生涯現役を貫いての死であった。
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