読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-1
kiji
0
1
1101384
0
本当は怖い京都の話
2
0
0
0
0
0
0
エンタメ
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
【結婚式の前撮りスポットとして人気だが……】 13 応仁の乱、そのはじまりの地

『本当は怖い京都の話』
[著]倉松知さと [発行]彩図社


読了目安時間:5分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ




 ●幸せなおふたりには悪いのですが……


 近年、京都の有名社寺で結婚式を挙げる若者が増えている。豪華絢爛な打ち掛けをまとった花嫁さんたちに人気なのが「前撮り」だ。結婚式当日は何かと忙しいので、事前にゆったりとした気分で、最高に美しい花嫁姿を撮影する事に集中できる。


 その撮影の穴場として業界で有名なのが、上京区にある(かみ)()(りょう)神社だ。


 延暦13(794)年、崇道天皇を祀ったのが始まりとされ、国家や民の守護の社として朝廷と民間の崇敬を集めてきた神社だ。5月18日の祭礼では、鉾、御輿、牛車の行列が練り歩く。


 静かな境内、風格ある門、そして社殿。背の高い木々は特に紅葉のころ美しい。散り紅葉をじゅうたんのように敷き詰めて撮影にのぞむカップルを何度も見かけたことがある。


 観光客も多くはなく、地元の人に親しまれている神社ならではの静かで、こぢんまりとした雰囲気が挙式目前の彼らを和やかにしてくれるのだろう。

「きっとおふたりにとって、ここは想い出の場所になるのだろう」、そう横目で見ながら、でも、この真実を知ったら──と、筆者は少し気が重くなることがある。


 というのも、この地はかつて京の都を焼き尽くし、日本に戦国時代を到来させた、かの「応仁の乱」の勃発地だからだ。



 ●応仁の乱はここで始まった!


 応仁元(1467)年正月17日、この御霊の森で、(かん)(れい)畠山家の家督争いが始まった。これが、足かけ11年にわたる長い長い戦いの始まりになるとは、誰も予想できなかっただろう。


 管領とは室町幕府の役職で、将軍を補佐する権限を持つ。有力武家がその役職を担ってきたが、そのひとつである畠山家では少し前から(よし)(なり)と、従兄弟の(まさ)(なが)とが跡目争いを続けていた。


 当初は劣勢だった畠山政長だったが、幕府の実力者で管領を三度も務めた細川勝元を頼ると次第に有利に戦を進めるようになる。すると今度は義就側に、勝元と不仲だった大大名・山名宗全が応援に入り、畠山家の従兄弟同士の戦だったのが、日本を代表する守護大名同士の大合戦に発展してしまった。


 応仁元年正月2日、ついに義就が、時の将軍・足利義政から、畠山家を正式に継ぐ者として認められる。実は山名宗全が裏から手を回し、将軍の妻・日野富子に働きかけていたのだった。


 不満を爆発させたのは畠山政長だ。自邸に火を放つと17日、この上御霊神社の林に約2000の兵を率いて陣を張った。翌18日早朝には、これに義就が3000余りの兵で攻撃を仕掛け、終日激しい戦闘が続いた。


 この時、義就方には巨大勢力の山名宗全が加勢したが、政長方が頼みとする細川勝元はこの段階では静観、まる一日の合戦ののち、政長方は敗退してしまった。これが、応仁の乱最初の合戦であった。


 ここで終われば良かったのだが、事態はもう畠山家だけの問題ではなくなっていた。


 折り悪く足利将軍家の跡目争いも絡み、その点においても対立していた細川、山名両陣営は戦時体制をかため、5月には上京を中心に全面的な戦闘に突入していくことになる。



 ●東陣はどこに?


 細川勝元率いる東軍は、現在の室町今出川上ル一帯にあったという「花の御所」と呼ばれた室町御所を本陣とした。そして、御所を中心に「(おん)(かまえ)」という防御陣地を築く。土塁と堀で囲んだその範囲は、北は寺之内、南は一条、東は烏丸、西は小川通りという広範囲だった。ここに勝元は、帝や公家、武家や町人などを避難させて守った。


 御構の外は西軍が囲んでいたが、唯一、北からの通路を使って、比叡山延暦寺と連絡を取り合っていたという。


 対する山名宗全は、勝元の本陣の“西側”約500メートルにある自邸を本陣とした。花の御所の西に陣取ったから“西陣”。これが「西陣」という地名の由来なのだ。


 従って“東陣”のあった場所は「花の御所周辺」となるが、西陣のように地名としては残っていない。おそらく御所とは違い、わざわざ「山名邸の東にあるから東陣」とは言わなかったからではないだろうか。なお、山名邸があった堀川今出川付近に、「山名町」という町名が今も残っている。


 ちなみに、応仁の乱の後、堺(大坂)などに避難していた機織り職人たちが京都に戻り、西軍本陣跡付近にて、織り手の集団「(おお)舎人(とねり)座」が組織された。永正10(1513)年には足利幕府により、将軍家直属の織物所に指定され、彼らが織り上げる高い技術の織物を「西陣織」と呼ぶようになった。



 ●洛中洛外、皆焼けた


 応仁の乱は、11年もの長きにわたる戦いであったため、都のあちこちに傷跡が残った。特に、南禅寺付近や東岩倉山、相国寺、そして船岡山の合戦などが知られている。茶道の聖地(小川通寺之内付近)にある()()(ばし)の戦いも有名だ。


 清水寺や建仁寺など名だたる寺院も焼かれている。その後、山科や醍醐、鳥羽など洛外での戦いが増え、やがて戦局は地方に広がっていった。


 しかし戦いの最中、細川勝元と山名宗全が亡くなると、諸大名も領国に引き揚げ、文明9(1477)年、乱はついに終わりを迎えた。長く続いた戦乱は、それまでの身分やしきたりなどを破壊し、土地の支配関係にも変化をもたらした。やがて、身分の下の者が実力で上の者を倒す、下克上の時代が到来するのである。上御霊神社で「前撮り」したカップルも、この歴史的現場を選んだだけに、夫婦間の力関係において、これからの長い戦い、いや夫婦生活の中で「下克上」が起こるかも知れない。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:0文字/本文:2276文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次