『裏のハローワーク 交渉・実践編』
[著]草下シンヤ
[発行]彩図社
裏社会は生き馬の目を抜く戦場である。
一瞬の判断ミスや煮え切らない態度が命取りにつながる。逮捕されるならまだしも、恨みを買い、後ろからブスリとやられることもありえない話ではない。
そこで土壇場での機転、前もって危険を回避する知恵、交渉で相手を丸め込む技術などが必要不可欠になってくる。
昨今、通常のビジネスシーンでも、
「交渉力が必要な時代になった」
「話の段取りで能力が分かる」
などと言われるようになったが、裏社会の住人にしてみれば、なにを今更というところだろう。
特にヤクザ、事件屋、詐欺師、ヤミ金業者などは、交渉こそが生活の糧になっているのだから、その手腕は並大抵ではない。思い通りに事を進めるためにはどうすればいいかということを誰よりも熟知し、実践しているのが彼らでもある。
本書の取材で組関係者に話を聞いたときのことだ。
取材は順調に進み、貴重な意見の数々を聞くことができた。
インタビューも終わり、しばし2人で雑談をしていた。するとそのとき発せられた彼の言葉から、事態は思ってもいない方向に流れ始めた。
「こうしたご時世で、俺たちヤクザ者も汲々としてやってんだよ」
私は何気なく答えた。
「そうですよね。ヤクザ者というのも楽じゃないですよね」
軽口を叩くものではない。彼の態度が一変した。
「ヤクザ者ってのは、なんだ。俺らの稼業をバカにしてんのか」
いきり立った口調で言ったのだ。顔には怒りが表れており、私はその豹変ぶりに息を呑んだ。
「あのな、俺が自分のことをヤクザって言うのはかまわんよ。だがな、外の人間にそんなふうに呼ばれる筋合いはない。任侠なんだよ、俺たちは。あんたがそれをヤクザなんて言い出したら、ふざけるんじゃないって話だよ」
彼は身を乗り出し、今にも飛びかからんばかりの体勢になっている。
私はわけも分からず謝罪した。そうする以外にこの場を収める方法を思いつかなかったからだ。しかしこれが火に油を注ぐ結果になった。
「なんだと、このヤロー。謝るってことは非を認めたってことだな。お前も分かってんだろ。ヤクザの語源を」
花札で8・9・3の目が出ると、おいちょかぶでは最も弱いブタの目になる。転じて役に立たないもののことを「ヤクザ」と呼ぶようになったという説が有力だ。私は「知っています」と答え、語源を答えようとしたが、彼が言わせてくれなかった。
「そこまで分かってヤクザって口にしたならいい度胸してるよ。取材させてくださいと申し込んでおいて、その相手のことを役立たずと思ってたってことだからな」
もちろん私にそんなつもりはないし、彼の発言につられて「ヤクザ者」という言葉が出ただけである。
「配慮に欠けた発言で申し訳ありませんでした」
謝罪しても彼の勢いはとまらない。
「配慮がないだ、ふざけるんじゃないよ。お前は仮にも物書いてメシ食ってんだろう。任侠や極道っていう言葉も知ってるはずだ。その中からわざわざヤクザを選んだってことは、ただの偶然には思えないな。喧嘩を売ってるようにしか見えないんだよ。どうなんだ、こら!」
私はすっかり小さくなって頭を下げた。
すると鼻で笑うような声が聞こえた。
顔を上げると、愉快そうに頬を緩めた彼の顔があった。
一瞬、唖然としたがすぐに状況が飲み込めた。まんまと一杯食わされたのだ。
「やったほうが分かりやすいと思ってな」
交渉の実演をしてくれたというのだが、これほど心臓に悪いものはない。ほっとしたのはたしかだが言葉が出てこなかった。脱力した感覚である。彼は穏やかな口調で話した。
「手綱を握りたいと思ったら、頭でドンと叩いておくんだよ。すると頭の回転の速いやつとか、普段は冷静なやつでも、頭の中が真っ白になっちまうんだよ。いちゃもんつけるのはなんでもよくてな。とにかく揚げ足とって、どんどん突っかかっていく。正当性なんかいらないよ、相手は震え上がって指摘することもできないし、おかしいなと思う頃には次の話題に飛んでるんだからな」
恫喝とは「理」ではなく「力」で押すものである。
相手を面食らわせ、その隙に手綱を握ってしまう。
私はこの場で「人が悪いんだから、やめてくださいよ」と言おうとしたものの、同じ展開になったらイヤだなという考えが頭をかすめ、言葉をしまいこんでしまった。この時点で完全に手綱を握られているのである。
本書は、思わず驚嘆させられる裏の交渉術を紹介するものだ。
舞台や登場人物は裏社会に関連するものばかりだが、表のビジネスの場でも活用できる手法を中心に選んだ。それぞれに「威力」「難易度」「実用度」「表社会での使い方」を記載したので、参考にしていただければ幸いである。
ヤクザや事件屋、詐欺師、ヤミ金業者といった人々がどうやって稼いでいるのか?
その強引にして華麗な手口を、ご堪能あれ。