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お江と徳川秀忠101の謎
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歴史
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Q41 夫の徳川秀忠に婚約者がいたのは事実か?

『お江と徳川秀忠101の謎』
[著]川口素生 [発行]PHP研究所


読了目安時間:3分
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 お江は徳川秀忠と結婚する以前に、佐治一成(さじかずなり)、次いで豊臣秀勝(小吉(こきち))と結婚していました。一方、三人目の夫である秀忠は初婚でしたが、一時期、婚約者がいたようです。

 現代の日常会話ではほとんど用いられることがありませんが、かつては婚約者、特に親などが決めた婚約者のことを許嫁(いいなずけ)といいました。秀忠にはこの許嫁がいたのですが、徳川将軍家関係の系譜集などではこの許嫁のことが縁女(えんおんな)と記されています。

 さて、眼目である秀忠の縁女、すなわち許嫁は、尾張清洲(おわりきよす)城(愛知県清須(きよす)市)主・織田信雄(のぶかつ)の娘である春昌院(しゆんしよういん)という女性でした。信雄の父・織田信長と、お江の生母・お市の方とは兄妹(異説あり)ですので、信雄とお江は従兄妹(いとこ)という間柄になります。

 その春昌院が秀忠の縁女になったのは、次のような事情によるものでした。天正(てんしよう)十二年(一五八四)、秀忠の父・徳川家康は信雄と同盟して、秀勝の叔父(おじ)、養父である羽柴(はしば)(豊臣)秀吉に対抗します。

 徳川・織田方と羽柴方とは東海地方の各地で激突しますが、四月の長久手(ながくて)の戦いでは羽柴方の池田恒興(つねおき)之助(ゆきすけ)父子、森長可(ながよし)、関成政(なりまさ)が討死を遂げました。

 予想外の敗北に危機感を抱いた秀吉は、信雄と単独講和をします。この後、秀吉が天下人の道を歩みはじめた点はよく知られていますが、天正十八年一月頃には家康の懐柔(かいじゆう)を狙って秀忠と春昌院とを強引に婚約させました。ところが、同年八月、信雄は秀吉からの関東への転封(てんぽう)(国替え)命令に難色を示したため、除封(じよほう)(おとり(つぶ)し)となります。

 なお、非情な話ですが、主に政略結婚の場合は婚約中や結婚後に生家が没落すると、婚約や夫婦関係を一方的に破棄し、妻(正室)を婚家から追い出すという風習が一部にはありました。こういったよくない風習に(のつと)ってのことでしょうか。秀忠と春昌院との婚約はすぐさま破棄となり、やがて秀忠は文禄(ぶんろく)四年(一五九五)にお江と結婚しました。

 ところで、婚約が破棄となった女性が、生涯独身を貫いたという事例が少なくありません。たとえば、第七代将軍・徳川家継(いえつぐ)の縁女・浄琳院宮(じようりんいんのみや)八十宮吉子(やそのみやよしこ)内親王)などは、二歳で婚約したものの、五歳の時に家継が病没してしまいます。以後、浄琳院宮は四十五歳で病没するまで、生涯独身を貫きました。無論、第112代・霊元(れいげん)天皇の皇女として京都に住んだ浄琳院宮は家継と対面したり、墓碑に(もう)でたりすることもないまま生涯を終えています。なお、浄琳院宮に対して生涯、江戸幕府から扶持(ふち)(生活費)が支給されました。

 そんな浄琳院宮と同様に、春昌院も生涯独身を貫きました。秀吉の横暴が発端であるとはいえ、お江もいとこ半(ヽヽヽヽ)の間柄であるだけに、春昌院のことは気にかかっていたことでしょう。


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