お江は徳川秀忠と結婚する以前に、佐治一成、次いで豊臣秀勝(小吉)と結婚していました。一方、三人目の夫である秀忠は初婚でしたが、一時期、婚約者がいたようです。
現代の日常会話ではほとんど用いられることがありませんが、かつては婚約者、特に親などが決めた婚約者のことを許嫁といいました。秀忠にはこの許嫁がいたのですが、徳川将軍家関係の系譜集などではこの許嫁のことが縁女と記されています。
さて、眼目である秀忠の縁女、すなわち許嫁は、尾張清洲城(愛知県清須市)主・織田信雄の娘である春昌院という女性でした。信雄の父・織田信長と、お江の生母・お市の方とは兄妹(異説あり)ですので、信雄とお江は従兄妹という間柄になります。
その春昌院が秀忠の縁女になったのは、次のような事情によるものでした。天正十二年(一五八四)、秀忠の父・徳川家康は信雄と同盟して、秀勝の叔父、養父である羽柴(豊臣)秀吉に対抗します。
徳川・織田方と羽柴方とは東海地方の各地で激突しますが、四月の長久手の戦いでは羽柴方の池田恒興・之助父子、森長可、関成政が討死を遂げました。
予想外の敗北に危機感を抱いた秀吉は、信雄と単独講和をします。この後、秀吉が天下人の道を歩みはじめた点はよく知られていますが、天正十八年一月頃には家康の懐柔を狙って秀忠と春昌院とを強引に婚約させました。ところが、同年八月、信雄は秀吉からの関東への転封(国替え)命令に難色を示したため、除封(おとり潰し)となります。
なお、非情な話ですが、主に政略結婚の場合は婚約中や結婚後に生家が没落すると、婚約や夫婦関係を一方的に破棄し、妻(正室)を婚家から追い出すという風習が一部にはありました。こういったよくない風習に則ってのことでしょうか。秀忠と春昌院との婚約はすぐさま破棄となり、やがて秀忠は文禄四年(一五九五)にお江と結婚しました。
ところで、婚約が破棄となった女性が、生涯独身を貫いたという事例が少なくありません。たとえば、第七代将軍・徳川家継の縁女・浄琳院宮(八十宮吉子内親王)などは、二歳で婚約したものの、五歳の時に家継が病没してしまいます。以後、浄琳院宮は四十五歳で病没するまで、生涯独身を貫きました。無論、第112代・霊元天皇の皇女として京都に住んだ浄琳院宮は家継と対面したり、墓碑に詣でたりすることもないまま生涯を終えています。なお、浄琳院宮に対して生涯、江戸幕府から扶持(生活費)が支給されました。
そんな浄琳院宮と同様に、春昌院も生涯独身を貫きました。秀吉の横暴が発端であるとはいえ、お江もいとこ半の間柄であるだけに、春昌院のことは気にかかっていたことでしょう。