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お江と徳川秀忠101の謎
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歴史
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Q81 なぜ秀忠・お江夫妻は次男の忠長を溺愛したのか?

『お江と徳川秀忠101の謎』
[著]川口素生 [発行]PHP研究所


読了目安時間:3分
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 徳川秀忠・お江夫妻の長男である徳川家光は幼名(ようみよう)竹千代(たけちよ)(おくりな)(だいゆういん)、次男である徳川忠長は幼名を国千代(くにちよ)国松(くにまつ)といいました。さて、江戸幕府の正史である『徳川実紀(じつき)』の附録の部分は真偽不明の逸話が多く収録されていますが、『大殿御実紀(でんごじつき)』の附録巻一には、
御弟(おんおとうと)国千代の(かた)御幼稚並(ごようちなみ)にこえて、聡敏(そうびん)にわたらせ(たま)へば、御母君(おんははぎみ) 崇源院殿(すうげんいんでん)にはこと更御鍾愈(さらごしようゆ)ありて(以下略)」

 などと記されています。以上のうち、崇源院殿とはお江の法名(ほうみよう)で、聡敏は聡明と同意です。なお、鍾は(しよう)の誤字と推測されますが、錘はつむぐ、愈はまさる、すぐれるという意味ですので、御錘愈であれば溺愛(できあい)とほぼ同意と考えても大過はないでしょう。

 さて、右によれば、お江は次男の忠長が幼少時から聡明であったため、ことさら溺愛したというのです。心ならずも幼少時に父母や継父(けいふ)と死に別れ、二度の落城、三度の結婚を経験したお江が、幼少時から聡明であった忠長に期待したのは当然といえるでしょう。

 何しろ、父母や継父が生きた戦国時代、お江の生まれた織豊(しよくほう)(安土桃山)時代には、大名や家臣などといった下位の者が、無能な将軍や主君を()退()けて威勢をふるう、下剋上(げこくじよう)という行為が頻発(ひんぱつ)しました。

 また、当時は摂津(せつつ)大坂城(大阪市中央区)に豊臣秀頼(ひでより)(秀吉の次男)がいて、秀頼に心を寄せる大名も少なくなかったのです。秀頼の生母はお江の長姉・淀殿(よどどの)でしたが、だからこそお江はどこに出しても恥ずかしくない忠長を夫である第二代将軍の後継者、世子(せいし)(次期将軍)に据えたいと考えたのかも知れません。

 一方、右の引用部分の少し後には、幼少時代の家光に関して、
公御幼穉(こうごようち)の頃はいと小心(しようしん)におはして、温和のみ見え給ひしが(以下略)」

 と記されています。家光は幼穉(幼少、幼稚)の頃は小心で温和だけが()()であったため、秀忠・お江夫妻は家光に期待しなかったのでしょうか。

 ところで、同じく右の引用部分の少し前には、秀忠の父、家光の内祖父である徳川家康が家光を可愛がり、家光も内祖父に(なつ)いていたという意味の記述があります。あるいは、お江、さらに秀忠は家康への対抗心から、家光ではなく、忠長を溺愛したのかも知れません。

 加えて、秀忠自身も長兄・岡崎(松平)信康(のぶやす)自刃(じじん)し、次兄・結城(ゆうき)(松平)秀康(ひでやす)が他家へ養子と(おもむ)いた関係で、三男の身で父・家康の後継者となり、第二代将軍に就任しました。自分が次兄の秀康を差し置いて後継者となったこともあって、秀忠は長幼の順は無視し、人物本位、実力本位で自分の後継者を決めようと考えていた可能性もあります。


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