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お江と徳川秀忠101の謎
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歴史
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Q91 第二代将軍・秀忠が早くに隠居した理由は?

『お江と徳川秀忠101の謎』
[著]川口素生 [発行]PHP研究所


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 元和(げんな)九年(一六二三)七月二十七日、上洛中(じようらくちゆう)であった第二代将軍・徳川秀忠は隠居し、将軍職を長男・徳川家光に譲ります。当時は「人生五十年」といわれた時代ですが、この時の秀忠は四十四歳でした。良質の史料をみる限りでは、この頃の秀忠は大病を患ってはいません。したがって、まだ余力を残して隠居したわけですが、早くに隠居したのはいくつかの理由があったようです。

 まず、かつて慶長(けいちよう)十年(一六〇五)に秀忠が第二代将軍に就任したのは、やはり父・徳川家康の隠居に伴うものでした。以後、家康は病没する元和二年まで、大御所(前将軍)として引き続き駿河駿府(するがすんぷ)城(静岡市葵区)で政務をとっています。

 家康はそうすることを通じて、「天下は回り持ち」などではないことを大名、旗本らに周知徹底させると同時に、江戸幕府の基礎固めをはかろうとしたのでした。

 父の場合と同様に、元和九年に隠居した秀忠も大御所として引き続き政務に関わって、江戸幕府の体制をより強固なものにしたいと考えたようです。

 前後しますが、秀忠は元和八年十月には幕閣の本多正純(まさずみ)、同九年三月には越前(えちぜん)藩(福井市)主・松平忠直(ただなお)除封(じよほう)(おとり潰し)の鉄槌(てつつい)を加えていました。正純は諫言(かんげん)が過ぎたこと、忠直は不行跡を重ねたことが、表向きの除封の理由でした。しかし、正純の場合は同じく幕閣の大久保忠隣(ただちか)と暗闘を重ねていたことが、除封に(つな)がったものとみられます。

 なお、正純は父・本多正信(まさのぶ)と共に家康・秀忠父子を支えたという江戸幕府の功臣(こうしん)で、忠直は秀忠の(おい)、三女・勝姫の娘婿(むすめむこ)でした。また、忠直は六十八万石(異説あり)という親藩では最大の大名で、正純も十五万石という譜代(ふだい)では屈指の石高(こくだか)を誇る大名です。特に、秀忠は忠直の父・結城(ゆうき)(松平)秀康(ひでやす)を差し置いて将軍に就任していただけに、自分の在職中に忠直を除封とすることで、家光の負担を減らしてやりたいと思ったのでしょうか。

 ともあれ、秀忠は余力を残すかたちで隠居し、経験に乏しい新将軍=家光を大御所としてサポートすることで、江戸幕府の体制強化を狙ったものと推測されます。

 さらに、約半年後の寛永(かんえい)元年(一六二四)一月二十四日には外様(とざま)大名に対して、秀忠が「金扇(きんおうぎ)大馬印(おおうまじるし)」と、「天下の御仕置(おしおき)」の大権(たいけん)とを家光に譲ったことが通達されました。「金扇の大馬印」はかつて家康が用いたという、徳川将軍家の武力の象徴で、元和元年の大坂夏の陣の際に家康から三男の秀忠へ譲られたものです。

 つまり、家康が大御所となってから十年後に手放した武力の象徴を、秀忠は(わず)か半年後に手放したのでした。秀忠はそれらの事実を()えて通達することで、新将軍の権力基盤の上昇を狙ったのでしょう。


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