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お江と徳川秀忠101の謎
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歴史
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お江関係略年表

『お江と徳川秀忠101の謎』
[著]川口素生 [発行]PHP研究所


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弘治2年(一五五六)
8月 織田家の重臣・柴田勝家、筆頭家老の林秀貞と結託し、織田勘十郎(信長の弟)の擁立を企てる。同月 勝家ら、稲生の戦いで信長に敗れる。勝家、改心して信長に忠誠を誓う。
永禄元年(一五五八)
 勘十郎、謀叛を企てる。勝家、すぐさま勘十郎の動きを信長に報じる。11・2 信長、尾張清洲城で勘十郎を謀殺する。
永禄2年(一五五九)
1月 浅井長政、元服し、六角家の重臣・平井定武の娘を正室に迎える。4月 長政、早くも六角家との断交を決意し、正室を離別する。
永禄3年(一五六〇)
8月 近江小谷城主・浅井久政、六角方との野良田の戦いで苦戦する。長政、この戦いで初陣を遂げる。久政が隠居。嫡子・長政が城主となり、のちに戦国大名への脱皮に成功する。
永禄7年(一五六四)
この年 長政の長男・浅井万福丸が生まれる。生母は側室。
永禄10年(一五六七)
8・15 織田信長、美濃稲葉山城を攻略して、斎藤龍興(道三の孫)から美濃を奪う。9・15 長政、美濃の武将・市橋長利を介して信長に馬や太刀を贈り、同盟の道を模索する。
永禄11年(一五六八)
年初 信長、妹(異説あり)・お市の方を長政のもとへ嫁がせる。9月 信長、上洛し、近江や京都周辺を版図に収める。
永禄12年(一五六九)
この年(異説あり)長政・お市の方夫妻の長女・淀殿が生まれる。
元亀元年(一五七〇)
4・25〜4・26 信長、三河の徳川家康を誘い、越前へ攻め入り、朝倉方の諸城を攻略。4・27 長政、越前の朝倉義景と同盟し、信長の挟撃をはかる。信長、越前で長政の謀叛を知る。一説にお市の方が夫の謀叛を通報するという。4・28 信長、京都へ逃げ帰る。6・21 信長、小谷城下を焼き払う。6・28 浅井・朝倉方、姉川の戦いで織田・徳川方に敗北。9月 浅井・朝倉方、近江南部、京都近郊へ侵入。9・20 織田方の織田信治(信長の弟)らが討死。この年(異説あり)長政・お市の方夫妻の次女・お初が生まれる。
天正元年(一五七三)年齢1
7・18 室町幕府の第十五代将軍・足利義昭、山城槇島城で挙兵するが、織田方に敗れて追放となる。これに伴い、室町幕府が滅亡する。8・20 信長、越前の朝倉義景(41歳)を自刃に追い込み、越前を版図に収める。8・27 信長、小谷城への総攻撃を開始。8・29 久政(行年不詳)、小谷城内で自刃。9・1 長政(29歳)、城内の家臣屋敷で自刃。お市の方や娘の淀殿ら、傅役・藤懸永勝らの手引きで城外へ逃れ、のちに伊勢上野城主・織田信包(信長らの弟)のもとへ身を寄せる。9・19 阿古御料(久政の正室、長政の生母)、織田方に捕らえられ、手の指を切り落とされる。数日後に絶命するという。万福丸、やはり織田方に捕らえられ、美濃関ケ原で磔となる。この頃 信長、近江浅井郡(浅井家の旧領)を重臣・羽柴(豊臣)秀吉に与える。秀吉が近江長浜城を築城したため、小谷城は廃城となる。この年 長政・お市の方夫妻の三女・お江が生まれる。また、同年(異説あり)長政の次男・浅井井頼、三男・正芸が生まれる。二人の生母はいずれも側室とみられている。
天正3年(一五七五)年齢3
8月 信長、加賀へ進撃し、勝家らに命じて一向一揆を討伐させる。信長、加賀の支配を勝家に委ね、前田利家、佐々成政らの「府中三人衆」を与力として置く。これに伴い、勝家、越前北ノ庄城を居城とし、織田方の北陸方面軍司令官となる。
天正7年(一五七九)年齢7
4・7 家康の三男・徳川秀忠、遠江浜松城内で生まれる。生母は側室・西郷局(宝台院)。大姥局らが乳母となる。
天正10年(一五八二)年齢10
6・2 本能寺の変が勃発。明智光秀の謀叛により信長、嫡子・織田信忠が自刃。6・13 秀吉、山崎の戦いで光秀を破る。秀吉には神戸信孝(信長の三男)、池田恒興(信長の乳兄弟)らが協力。同夜 光秀、近江坂本城へ向かう途中の小栗栖で竹槍のために横死。6・27 信長の後継者、織田家の旧領分割を決める「清洲会議」が開催され、織田秀信(三法師)が名目上の織田家の後継者となり、秀信を手懐けた秀吉が実質的な後継者となる。信孝と勝家、同盟を結び秀吉との対決姿勢を露わにする。この年 お市の方、甥の信孝の仲介で勝家と再婚。婚儀は信孝の居城・岐阜城で挙行される。お江ら、生母と勝家の居城・北ノ庄城へ移る。1220 秀吉、岐阜城を攻める。信孝、和睦を申し出て、秀吉に生母・坂氏や娘、秀信を差し出す。
天正11年(一五八三)年齢11
3月 勝家、近江北部へ進撃。4・21 勝家、甥の佐久間盛政の失策、秀吉の驚異的な機動力などが原因で、賤ケ嶽の戦いで秀吉に敗れる。4・24 秀吉、北ノ庄城へ総攻撃を敢行。勝家(行年不詳)・お市の方(行年不詳)夫妻ら、城内で自刃。お江ら三姉妹は城外へ逃れ、のち秀吉のもとへ身を寄せる。5・2(月日に異説あり) 信孝、圧迫を受け尾張野間で自刃。この頃 お市の方の傅役であった永勝、命により丹波亀山城主・羽柴秀勝(於次丸/信長の子、秀吉の養子)の傅役に転じる。
天正12年(一五八四)年齢12
年初 秀吉の命により、お江、従兄で、尾張大野城主の佐治一成と結婚。4・9 羽柴(豊臣)方、長久手の戦いで徳川・織田方に敗れる。羽柴方の恒興、嫡子・池田之助、娘婿・森長可らが討死。しかし、戦後は秀吉が巻き返し、政治面で優位に立つ。家康、やむなく秀吉に臣従し、次男・秀康(於義丸)を秀吉のもとへ差し出す。秀康、まもなく秀吉の養子、さらに結城晴朝の養子となったため、家康の後継者として地位を失う。これに伴い、のちに三男である秀忠の後継者としての地位が確定する。この年(異説あり) 秀吉、舟便を用意するなど家康に便宜をはかったとして、一成を除封とし、一成とお江の仲を割く。お江、大野城を去り、再び秀吉のもとへ身を寄せる。
天正13年(一五八五)年齢13
1210 秀勝(於次丸/行年不詳)没。豊臣秀勝(小吉/秀吉の甥、養子)、命により秀勝の諱(実名)と亀山城主の地位を受け継ぐ。永勝、命により秀吉の直臣となる。
天正15年(一五八七)年齢15
この年 秀勝(小吉)、九州征伐に従軍。戦勝後、知行の不足を口にし、秀吉の手で除封となる。同年 秀吉の命により、お初、従兄の京極高次(生母は京極マリア)と結婚。
天正17年(一五八九)年齢17
5・19 西郷局(28歳)没。5・27 秀吉の長男・豊臣鶴松が生まれる。生母は秀吉の側室・淀殿。9・25 越前敦賀城主・蜂屋頼隆没。秀吉の命により城地は秀勝(小吉)が受け継ぐ。
天正18年(一五九〇)年齢18
7・21 小田原征伐により相模の後北条家が滅亡。織田信雄(信長の次男)、後北条家の旧領への転封を拒み、除封となる。これより先、秀忠と春昌院(信雄の娘)は婚約していたが、信雄の除封に伴って婚約は破棄となる。秀吉、後北条家の旧領へ家康を封じる。家康、武蔵江戸城を居城とする。これに伴い、秀勝、甲斐甲府城主に転封となる。同年 秀吉、天下を統一。
天正19年(一五九一)年齢19
8・5 鶴松(3歳)没。愛児の早世に落胆した秀吉は、豊臣家の家督、官位、官職を甥、養子の豊臣秀次(小吉秀勝の兄)に譲るものの、太閤として引き続き政治の実権を保持し続ける。この年 秀勝、岐阜城主に転封となる。生母・瑞龍院が甲斐が遠いことを理由に、転封の嘆願を重ねた結果であるという。
文禄元年(一五九二)年齢20
年初 秀吉の命により、お江、秀勝(小吉)と再婚。夫妻は京都の聚落第の一郭に住む。この頃 秀勝、朝鮮出兵に参加するために渡海する。9・9 秀勝(行年不詳)、唐島(巨済島)で戦病死。この年(一説に翌年) 秀勝・お江夫妻の長女・豊臣完子が生まれる。
文禄2年(一五九三)年齢21
8・3 秀吉の次男・豊臣秀頼が生まれる。生母は淀殿。これ以後、秀吉は次第に後継者であるはずの秀次を冷遇。
文禄4年(一五九五)年齢23
7・15 秀次(28歳)、命により紀伊高野山で自刃。8・2 秀次の妻妾ら三十数人、京都で斬られる。9・17 秀吉の命により、お江、秀忠と再々婚。
慶長2年(一五九七)年齢25
4・11 秀忠・お江夫妻の長女である千姫が生まれる。
慶長3年(一五九八)年齢26
8・18 秀吉(61歳?)、伏見城内で病没。この年 信包、丹波柏原城主に転封となる。一成、主君に従って柏原へ移る。
慶長4年(一五九九)年齢27
6・11 秀忠・お江夫妻の次女である子々姫が生まれる。
慶長5年(一六〇〇)年齢28
9・2〜9・11 秀忠、三万五千を率いて信濃上田城主の真田昌幸・信繁(幸村)父子を攻めるが、城攻めに手間取って時間を空費する。9・3〜9・14 高次、豊臣方から徳川方へ寝返り、居城の近江大津城に籠城。豊臣方、同城へ猛攻を加える。高次、やむなく降伏し、城を開城する。9・15 家康率いる徳川方と、石田三成、宇喜多秀家を主将とする豊臣方、美濃関ケ原で激突する。小早川秀秋の寝返り、毛利勢の傍観により、家康が大勝利を収める。秀忠、決戦に遅参し、父の怒りを招く。戦後、徳川方に転じた高次は若狭小浜藩主に栄転する。一方、秀頼は天下人の後継者から、摂津大坂城を居城とする一大名に転落。また、豊臣方に属した岐阜城主の秀信らは除封、丹波上林城主の永勝らは削封の上で江戸幕府の旗本となる。
慶長6年(一六〇一)年齢29
1・30 子々姫、加賀藩主となる前田利常(利家の四男)と結婚し、加賀へ輿入れする。のちに、利常と子々姫とは嫡子・前田光高ら三男五女をもうける。5・12 秀忠・お江夫妻の三女・勝姫が生まれる。12・3 秀忠の子・徳川長丸が生まれる。生母は側室であるという。
慶長7年(一六〇二)年齢30
8・28 家康の生母、秀忠の内祖母の伝通院(75歳)、伏見城内で病没。9・25 長丸(2歳)没。
慶長8年(一六〇三)年齢31
2・12 家康、将軍(征夷大将軍)に補任され、江戸幕府を開く。6月 お江、身重の体をおして千姫と共に上洛する。7・9(一説に前年) 秀忠・お江夫妻の四女である初姫が生まれる。お初、姪に当たる初姫の養育に関与。7・28 千姫、摂津大坂城主の秀頼に嫁ぎ、大坂城へ輿入れする。
慶長9年(一六〇四)年齢32
6月 完子、公家の九条忠栄に嫁ぐ。7・17 秀忠・お江夫妻の長男・徳川家光が江戸城西ノ丸で生まれる。春日局(お福)が乳母となる。
慶長10年(一六〇五)年齢33
4・16 家康、隠居し、大御所となる。秀忠、第二代将軍に就任。
慶長11年(一六〇六)年齢34
6・1(月日に異説あり) 秀忠・お江夫妻の次男・徳川忠長が生まれる。7月 初姫、京極忠高(高次の嫡子)に嫁ぐ。
慶長12年(一六〇七)年齢35
10・4 秀忠・お江夫妻の五女・東福門院和子が生まれる。
慶長16年(一六一一)年齢39
5・7 秀忠の子・保科正之(幸松丸)が生まれる。生母は側室・お静の方。見性院(武田信玄の次女)、千姫、譜代大名の保科正光らが養育に関与する。9・5 勝姫、従兄で、越前藩主の松平忠直と結婚し、越前へ輿入れする。のちに、忠直と勝姫とは嫡子・松平光長ら一男二女をもうける。
慶長18年(一六一三)年齢41
1・26 大姥局(89歳)没。
慶長19年(一六一四)年齢42
7・17 柏原藩主の信包(72歳)没。11191219 大坂冬の陣が勃発。豊臣方と徳川方は和睦するが、家康・秀忠父子は大坂城の全ての堀を埋める。お初、豊臣方の使者をつとめる。
元和元年(一六一五)年齢43
5・6〜5・8 大坂夏の陣が勃発。豊臣方の信繁ら、家康の本陣へ突撃するものの、忠直、藤堂高虎らに阻まれて討死。徳川方の総攻撃により大坂城は落城し、淀殿(行年不詳)、秀頼(23歳)母子が自刃。千姫、落城直前に城外へ逃れる。お初、やはり城外へ逃れる。秀頼の嫡子・豊臣国松(行年不詳)、徳川方に捕らえられ、斬られる。長女・天秀尼、助命され、出家して相模鎌倉の東慶寺へ入る。千姫、これ以後、天秀尼に庇護を加える。この年 信雄、豊臣方の入城要請を断った点を評価され、大和松山藩主となり、大名に返り咲く。
元和2年(一六一六)年齢44
4・17 家康(75歳)、駿府城内で没。遺骸は駿河久能山を経て、下野日光山へ埋葬される。9・15(年月日に異説あり)忠長、甲斐甲府藩(二十三万石)主に封じられる。9・10 千姫、伊勢桑名藩(のち播磨姫路藩)の世子(次期藩主)・本多忠刻との再婚が決定。同日 石見津和野藩主・坂崎成政、千姫の輿入れ行列襲撃を公言し、家臣に謀殺される。9・29 千姫、予定通り忠刻に嫁ぎ、桑名へ輿入れする。
元和3年(一六一七)年齢45
6・5 永勝(61歳)没。7・14 本多忠政(忠刻の父)、姫路藩主に転封。忠刻・千姫夫妻、姫路へ移り住む。千姫のために化粧櫓が構築される。
元和4年(一六一八)年齢46
この年 忠刻・千姫夫妻の長女・勝姫が生まれる。
元和5年(一六一九)年齢47
この年 忠刻・千姫夫妻の長男・本多幸千代が生まれる。
元和6年(一六二〇)年齢48
6・18 東福門院、女御として第108代・後水尾天皇の内裏に入内。入内の際、高虎が先導役をつとめて大活躍をする。
元和7年(一六二一)年齢49
12・9 幸千代(3歳)没。
元和8年(一六二二)年齢50
5・9 見性院(行年不詳)没。7・3 子々姫(24歳)没。
元和9年(一六二三)年齢51
2月 忠直、除封となり、豊後へ配流となる。勝姫、嫡子の光長らを連れて江戸へ戻る。7・27 秀忠、隠居し、大御所となる。家光、第三代将軍に就任。9月 千姫、伊勢の慶光院の周清尼に亡夫・秀頼の供養を依頼する。この頃、千姫は子女を相次いで亡くしたというが、原因を秀頼の祟りとする占いの結果が出たという。1119 後水尾天皇・東福門院夫妻の長女・興子内親王(明正天皇)が生まれる。のち、興子内親王は女一宮(女性の皇太子)となる。
寛永元年(一六二四)年齢52
1・20 お江、登城した娘婿・忠高に金千両を与える。8・11 忠長、駿河駿府藩(五十五万石)主に封じられる。9・22 これより先、江戸城西ノ丸増築が完了。この日、秀忠、西ノ丸へ移る。1128 東福門院、中宮(皇后)となる。
寛永2年(一六二五)年齢53
1・9 お江、大奥で幸若舞を鑑賞。2・5 秀忠、江戸の駿府藩邸を訪れ、忠長の歓待を受ける。2・12 家光、駿府藩邸を訪れ、忠長の歓待を受ける。4・24 瑞龍院(92歳)没。
寛永3年(一六二六)年齢54
5・7 忠刻(31歳)、姫路城内で病没。浪人中であった元側近の宮本造酒助(三木之助/武蔵の甥、養子)らが殉死する。6・25 忠政の正室、忠刻の生母・熊姫(行年不詳/岡崎信康の長女、家康の外孫)、息子の病没の衝撃で病臥後に城内で急死。9・6〜9・10 後水尾天皇、京都の二条城へ行幸。秀忠・家光父子、二条城で後水尾天皇を迎える。9・11 これより先、お江、江戸城内で病臥する。この日 お江が危篤に陥ったとの一報が二条城へ届く。家光、山城淀城の訪問予定を途中で打ち切り、二条城へ入る。同日 家光、老中・稲葉正勝(春日局の長男)にお江の病状確認を命じる。正勝、すぐさま江戸へ向かう。典医・曲直瀬道三、同じく江戸へ向かう。12日頃 忠長、同じく江戸へ向かう。9・15 お江(54歳)没。忠長、江戸へ到着するが、生母の臨終に間に合わず。9・18 お江の遺骸が増上寺に移され、位牌も安置される。9・19 道三、江戸へ向かう途中の箱根で病没。9・25 家光、京都を発って江戸へ向かう。10・6 秀忠、京都を発って江戸へ向かう。10・9 家光、江戸へ帰着。1018 お江の葬儀が行なわれる。お江、法名・崇源院を贈られ、遺骨は増上寺へ埋葬される。秀忠、滞在先の駿河駿府城から青山幸成を名代として派遣。1127 千姫と長女・勝姫、江戸へ到着。1220 千姫・勝姫母子、江戸城の竹橋御殿へ移り住む。同月 お江、従一位を追贈される。
寛永4年(一六二七)
7・18 忠長、紀伊高野山に亡母・お江の供養塔を建立。供養塔の題字は僧侶の金地院崇伝の撰文という。
寛永5年(一六二八)
この年 千姫の長女・勝姫、外祖父の秀忠の養女となった上で備前岡山藩主となる池田光政の正室となる。
寛永6年(一六二九)
11・8 後水尾天皇、「禁中並公家諸法度」の公布、「紫衣事件」などの江戸幕府の政策に反発して譲位。これに伴い、秀忠・お江夫妻の外孫に当たる興子内親王が践祚し、第109代・明正天皇(女帝)となる。11・9 東福門院、国母(天皇の生母)として院号宣下を受ける。この年 春日局、上洛し、無位無官のまま参内して後水尾天皇に拝謁し、春日の称号を賜る。
寛永7年(一六三〇)
3・4 初姫(28歳?)没。4・30 信雄(73歳)没。9月 忠長、駿府で農作物に害をなす猿を退治する。猿は浅間神社の神獣であったため、これが問題となる。この頃から忠長の性格が凶暴になるという。9・12 明正天皇、即位式をあげる。
寛永8年(一六三一)
5・29 忠長、甲斐で蟄居生活に入るべく、駿府を出立する。10・7 信濃高遠藩主の正光(72歳)没。正之、保科家の家督を継ぎ、第二代藩主(三万石)となる。1121 これより先、秀忠が病臥する。忠長、甲斐の蟄居先を抜け出し、江戸近郊で崇伝に秀忠の病状を尋ねるという。
寛永9年(一六三二)
1・23 秀忠、危篤に陥る。1・24の亥の刻(午後十時頃)秀忠(54歳)、江戸城西ノ丸で病没。2・15 秀忠の葬儀が行なわれる。秀忠、諡・台徳院を贈られ、遺骸は増上寺に埋葬される。1020 家光、甲斐で蟄居中の忠長を上野高崎城へ配流とする。忠長は除封となり、城地は収公となる。
寛永10年(一六三三)
8・27(異説あり) お初(行年不詳)没。12・6 忠長(28歳)、高崎城内で自刃。遺骸は高崎の大信寺に埋葬される。
寛永11年(一六三四)
9・26 お江の最初の夫・一成(66歳)没。
寛永13年(一六三六)
7・21 正之、出羽山形藩(二十万石)主に転封となる。
寛永18年(一六四一)
この年 秀忠の元許嫁・春昌院(57歳?)没。
寛永20年(一六四三)
7・4 正之、陸奥会津藩(二十三万石)主に転封となる。10・3 明正天皇、譲位して上皇となる。弟宮・紹仁親王、即位して第110代・後光明天皇となる。9・14 春日局(65歳)没。
正保元年(一六四四)
5・24 家光の三男・徳川綱重が生まれる。生母は側室・お夏の方。千姫、甥に当たる綱重の養育に関与する。
正保2年(一六四五)
この年 天秀尼(37歳)没。
慶安4年(一六五一)
4・20 家光(48歳)没。幕閣の堀田正盛、阿部重次が殉死。嫡子・徳川家綱が第四代将軍となり、家光の遺命により叔父・正之が補佐役をつとめる。直後に由井正雪、丸橋忠弥らが江戸幕府の転覆を企てるが、未然に鎮圧される(慶安事件)。
万治元年(一六五八)
この年 完子(行年不詳)没。
寛文2年(一六六二)
4・25 綱重の嫡子・徳川家宣(綱豊/のち第六代将軍)が生まれる。生母は側室・お保良の方。家老の新見正信、松坂局ららが家宣の養育に関与する。
寛文6年(一六六六)
2・6 千姫(70歳)没。
寛文12年(一六七二)
2・21 秀忠・お江夫妻の三女の勝姫(72歳)没。1218 正之(62歳)没。
延宝6年(一六七八)
6・15 東福門院(72歳)崩御。9・14 綱重(35歳)没。
延宝8年(一六八〇)
5・8 家綱(40歳)没。徳川綱吉(家光の四男)、第五代将軍となる。綱吉、のちに甥の家宣を世子に迎える。
元禄元年(一六八八)
この年 松坂局(行年不詳)没。
元禄9年(一六九六)
1110 明正天皇(74)崩御。

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