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お江と徳川秀忠101の謎
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歴史
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お江関係史跡(a)/小谷城と浅井家ゆかりの史跡

『お江と徳川秀忠101の謎』
[著]川口素生 [発行]PHP研究所


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近江小谷(おうみおだに)城跡(滋賀県長浜市伊部(いべ)ほか/交通=JR北陸本線河毛(かわけ)駅よりバス)

 亮政(すけまさ)久政(ひさまさ)長政(ながまさ)の三代が居城とした、近江(滋賀県)北部の戦国大名・浅井(あざい)家の本拠。お江は浅井長政・お市の方夫妻を父母として、天正(てんしよう)元年(一五七三)、この小谷城内で生を受けた。険阻(けんそ)な山上に本丸や諸郭(しよくるわ)(曲輪)が構築されていた関係で、織田信長も攻略に三年を要している。この城はお江の生まれた年に織田方の猛攻で落城した後、浅井家の旧領を与えられた豊臣秀吉が近江長浜城(同県長浜市)の構築に着手したため、惜しくも廃城となった。現在、城跡の本丸などの部分には土塁(どるい)、郭の遺構が残っており、これまでに石碑も建立された。城跡の清水谷の部分では、家臣の屋敷、寺院の遺構がみつかっている。また、清水谷には浅井家関係の史料や遺品を展示する小谷城戦国歴史資料館(長浜市小谷郡上(ぐじよう)町一三九/交通=同前)があり、近くに浅井家の初代が住んだという丁野郷(ようのごう)(同市小谷丁野町/交通=同前)もある。なお、付近に長政・お市の方夫妻の石像(同市湖北(こほく)町河毛/交通=河毛駅前)、夫妻、万福丸(まんぷくまる)と、お江ら三姉妹の銅像(同市内保町(うちぼちよう)二四九〇−一・旧浅井町役場前/交通=JR北陸本線長浜駅よりバス)が建立されており、中部地方には甲冑(かつちゆう)姿の長政の銅像(愛知県春日井(かすがい)市牛山町/交通=名鉄小牧(こまき)間内(まない)駅前)が建立されている。
小谷寺(滋賀県長浜市伊部(いべ)/交通=JR北陸本線河毛(かわけ)駅よりバス)

 亮政(すけまさ)久政(ひさまさ)長政(ながまさ)浅井(あざい)家三代の祈願所。小谷城が構築された小谷山の(ふもと)に立地する。戦火で焼失した後、豊臣秀吉の手で再建された。
姉川(あねがわ)古戦場(滋賀県長浜市野村町・三田(みた)町/交通=JR北陸本線長浜駅よりバス)

 元亀(げんき)元年(一五七〇)六月二十八日に浅井長政(あざいながまさ)、朝倉景健(かげたけ)率いる浅井・朝倉方と、織田信長、徳川家康率いる織田・徳川方とが激突した姉川の戦いの古戦場。決戦は姉川を(はさ)んで繰り広げられたが、序盤は浅井方の健闘が目立った。しかし、徳川方の(ねば)り強い攻撃や、長駆(ちようく)救援に駆けつけた織田方の「美濃(みの)三人衆」の奮闘により、浅井・朝倉方は戦場離脱を余儀なくされている。三田町に古戦場の石碑、野村町に討死者の供養塔(くようとう)がある。
徳勝寺(とくしようじ)(滋賀県長浜市平方町八七二/交通=JR北陸本線長浜駅より徒歩)

 亮政(すけまさ)久政(ひさまさ)長政(ながまさ)浅井(あざい)家三代の菩提寺で、かつては医王寺(いおうじ)と称し、小谷(おだに)城下にあった。寺名は亮政の法名・徳勝にちなむ。境内にお江の曾祖父(そうそふ)、祖父、父に当たる、亮政・久政・長政の墓碑がある。また、徳勝寺は長政・お市の方夫妻の木像などを所蔵している。

お江関係史跡(b)北ノ庄城と柴田家ゆかりの史跡
(しず)(たけ)古戦場(滋賀県長浜市木之本(きのもと)大音(おおと)ほか/交通=JR北陸本線木之本駅よりタクシー、もしくは徒歩。賤ケ嶽リフト乗場よりリフト)

 天正(てんしよう)十一年(一五八三)四月二十一日に柴田勝家(かついえ)率いる柴田方と、豊臣秀吉率いる羽柴(はしば)(豊臣)方とが激突した賤ケ嶽の戦いの古戦場の一つ。戦いの際には羽柴方の桑山重晴(くわやましげはる)らが布陣したが、頂上からの眺望(ちようぼう)は抜群である。また、頂上には無名兵士の休息をモチーフとした、「(いくさ)のあと」の銅像(座像)がある。なお、柴田方と羽柴方との激闘が北方の余呉(よご)湖の湖畔(こはん)北国(ほつこく)街道の周辺で行なわれた関係で、勝家が本陣を置いた内中尾山(うちなかおやま)玄蕃尾城(げんばおじよう)跡(長浜市余呉町(やな)()/交通=JR北陸本線木之本駅よりタクシー)などの史跡、古戦場は、木之本町から余呉町にかけての広範囲に点在している。
(きた)庄城址(しようじようし)公園・柴田神社(福井市中央一−二一−一七/交通=JR北陸本線福井駅より徒歩)

 天正(てんしよう)三年(一五七五)、織田信長によって越前(えちぜん)(福井県)に封じられた柴田勝家は、この北ノ庄城を居城とする。お江ら三姉妹は生母・お市の方が勝家と再婚した関係で、同十年にこの城へ移り住んだ。七重の天守閣が(そび)え立っていたという北ノ庄城は、同十一年四月二十四日、羽柴(はしば)(豊臣)方の総攻撃で落城する。お江ら三姉妹は(から)くも脱出したが、勝家・お市の方夫妻は城と運命を共にしている。その後、青木秀以(ひでもち)結城(ゆうき)(松平)秀康(ひでやす)(徳川家康の次男)らが入城したが、越前福井城(福井市)の築城に伴って北ノ庄城は惜しくも廃城となった。夫妻を(まつ)る柴田神社には槍を手にした勝家の銅像(座像)、お市の方の銅像(立像)がある。また、先年発掘された北ノ庄城の礎石(そせき)なども展示されている。
西光寺(さいこうじ)・柴田勝家公資料館(福井市左内(さない)町八−二一/交通=JR北陸本線福井駅よりバス)

 西光寺には一つの(ほこら)(おさ)められた柴田勝家の墓碑、お市の方の墓碑や、摂津(せつつ)大坂(大阪市)の医師・柴田徳翁(とくおう)文政(ぶんせい)九年(一八二六)に建立した柴田勝家公墳(こうふん)の石碑も現存する。また、資料館には勝家・お市の方夫妻の木像、北ノ庄城の鬼瓦(おにがわら)、勝家の「金の御幣(ごへい)」をはじめとするゆかりの史料、遺品が展示されている。なお、徳翁は自身の菩提寺(ぼだいじ)である天鷲寺(てんじゆうじ)(大阪市天王寺(てんのうじ)六万体(ろくまんたい)町三−一八/交通=大阪市営地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ケ丘駅から徒歩)にも、夫妻や忠勇院(ちゆうゆういん)(勝家の父)の墓碑(供養塔(くようとう))を建立している。
自性院(じしよういん)(福井市西木田二−一〇−二一/交通=JR北陸本線福井駅よりバス)

 寺名はお市の方の法名・自性院にちなむ。維新後に建立されたお市の方の墓碑(供養塔(くようとう))がある。

お江関係史跡(c)お江ゆかりの地と嫁ぎ先
伊勢上野(いせうえの)城跡(三重県津市河芸(かわげ)町上野/交通=近鉄名古屋線豊津上野駅より徒歩)

 お市の方の兄(異説あり)である織田信包(のぶかね)の居城。天正(てんしよう)元年(一五七三)の近江小谷(おうみおだに)城(滋賀県長浜市)の落城後、お市の方と娘のお江ら三姉妹は一時、この城へ身を寄せた。残念ながら城跡は遺構が余り残ってはいない。
尾張(おわり)大野城跡(愛知県常滑(とこなめ)市金山字城山四六−一・城山公園/交通=名鉄常滑線大野町駅より徒歩)

 知多(ちた)半島の水軍を指揮下に置いた武将・佐治(さじ)家の居城。天正(てんしよう)十二年(一五八四)、城主の佐治一成(かずなり)と結婚した十二歳のお江は、この大野城へ輿入(こしい)れした。お江の生母・お市の方と一成の生母・お犬の方とは姉妹(異説あり)で、一成とお江とは従兄妹(いとこ)の間柄になる。しかし、豊臣秀吉が若い夫妻の仲を()いたため、お江の最初の結婚生活は極めて短期間で終焉(しゆうえん)した。城山公園に城郭を模した展望台があり、隣接する佐治神社には一成の石像(座像)が建立されている。
聚落第(じゆらくだい)(京都市上京区智恵光院中立売(ちえこういんなかだちうり)ほか/交通=東海道新幹線京都駅よりバス)

 豊臣秀吉が天正(てんしよう)十四年(一五八六)に構築した居館で、同十九年に豊臣秀次(ひでつぐ)に譲られた。文禄(ぶんろく)元年(一五九二)に秀次の弟・豊臣秀勝(小吉(こきち)/秀吉の(おい)、養子)と結婚したお江は、夫と共に聚落第の一郭(いつかく)の屋敷に移り住んだという。しかし、この屋敷から朝鮮出兵に出征した秀勝が戦病死を遂げたため、夫婦生活は極めて短期間で終焉(しゆうえん)した。なお、秀次の自刃後、聚落第は秀吉の手で徹底的に破却されている。現在、智恵光院中立売に石碑がある。
山城伏見(やましろふしみ)城跡(京都市伏見区桃山町ほか/交通=JR奈良線桃山駅などより徒歩)

 豊臣秀吉が文禄(ぶんろく)三年(一五九四)に伏見の指月(しげつ)の地に構築した城郭が地震で倒壊したため、慶長(けいちよう)元年(一五九六)に伏見の木幡山(こはたやま)の地に新たな伏見城の構築が開始された。天正(てんしよう)十一年(一五八三)の越前北(えちぜんきた)(しよう)城(福井市)の落城後に秀吉の庇護(ひご)を受けたお江ら三姉妹は、指月や木幡山の伏見城にしばしば起居したものと推測される。のちに、木幡山の伏見城では慶長五年に関ケ原の戦いの前哨戦(ぜんしようせん)が行なわれた後、徳川将軍家の持ち城となった。この関係で、第二代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の正室となっていたお江は、再び木幡山の伏見城で起居している。なお、木幡山の伏見城も江戸時代初期に廃城となるが、前哨戦の際に徳川方の城代・鳥居元忠(とりいもとただ)らが自刃した板の間は、お江ゆかりの養源院(ようげんいん)(お江関係史跡(f)参照)の天井に転用された。現在、城跡の近くに復興天守閣が建立されている。

お江関係史跡(d)兄弟姉妹の墓碑とゆかりの史跡
浅井万福丸終焉地(あざいまんぷくまるしゆうえんち)(岐阜県関ケ原町野上/交通=JR東海道本線関ケ原駅よりタクシー)

 お江の異母兄・万福丸の墓碑。万福丸は天正(てんしよう)元年(一五七三)の小谷(おだに)落城後に城外で捕らえられ、関ケ原で斬られた。その場所は野上の馬頭観音(ばとうかんのん)のある辺りと伝えられている。
若狭小浜(わかさおばま)(福井県小浜市城内一/交通=JR小浜線小浜駅よりバス)

 お江の次姉・お初の夫である京極高次(きようごくたかつぐ)の、慶長(けいちよう)五年(一六〇〇)の関ケ原の戦いの後の居城。徳川方に属して小浜藩主に栄転した高次は、日本海と川とを外堀にした平城(ひらじろ)・小浜城(別名雲浜城(うんぴんじよう))の築城に着手する。のちに完成した小浜城は、天守閣を有するという本格的な城郭であった。寛永(かんえい)十一年(一六三四)、第二代藩主・京極忠高(ただたか)(高次の嫡子(ちやくし)、秀忠・お江夫妻の娘婿(むすめむこ))が出雲(いずも)松江藩(松江市)主に転じた後は、譜代(ふだい)大名の酒井忠勝(ただかつ)が入封して定着している。城郭の建物は維新後の火災で失われたが、石垣などが現存する。
常高寺(じようこうじ)(福井県小浜市小浜浅間(あさま)一/交通=同前)

 お初が生前、自らの菩提寺(ぼだいじ)として建立した寺院で、寺名はお初の法名・常高院にちなむ。寛永(かんえい)十年(一六三三)に病没したお初の墓碑が現存し、お初の画像(肖像画)も所蔵されている。
福田寺(ふくでんじ)(滋賀県米原(まいばら)市長沢一〇四九/交通=JR北陸本線田村駅より徒歩)

 お江の異母弟・正芸(しようげい)が入山し、住職となったという浅井家ゆかりの寺院。入母屋造(いりもやづくり)茅葺(かやぶ)きの書院(浅井(あざい)御殿)は近江小谷(おうみおだに)城(同県長浜市)の遺構といわれている。
近江(おうみ)大津城跡(大津市浜大津一−五/交通=JR東海道本線大津駅よりバス。もしくは京阪石山坂本線・京津(けいしん)線浜大津駅より徒歩)

 お初の夫・京極高次(きようごくたかつぐ)慶長(けいちよう)五年(一六〇〇)当時の居城。高次が関ケ原の戦いの直前に徳川方へ転じたため、豊臣方の精鋭による猛攻を受けた。城内にいたお初、(まつ)丸殿(まるどの)(高次の姉)も降り注ぐ砲弾に(きも)(つぶ)したという。やむなく、降伏するが、徳川方が関ケ原の決戦で大勝利を(おさ)めたことから、高次は若狭小浜(わかさおばま)藩(福井県小浜市)主に栄転している。落城後、城は破却され、用材は近江彦根(ひこね)城(滋賀県彦根市)の築城に転用された。この関係で琵琶湖(びわこ)沿いの城跡には石垣などは残っておらず、石碑が一つ残るのみである。
山城淀古城(やましろよどこじよう)(京都市伏見区納所(のうそ)/交通=京阪本線淀駅より徒歩)

 お江の長姉・淀殿(よどどの)が豊臣秀吉の側室となって以降、一時住まいとした城。宇治川(うじがわ)淀川(よどがわ)桂川(かつらがわ)等の合流点にあり、水陸の要衝(ようしよう)、京都南郊(なんこう)屈指の軍事的要地で、戦国時代には細川家、「三好三人衆」などがこの城を掌中(しようちゆう)に置いた。永禄(えいろく)十一年(一五六八)に織田信長の手で落城した後、明智光秀(あけちみつひで)、豊臣秀吉によって修復が加えられている。淀殿は天正(てんしよう)十七年(一五八九)にこの城に入るが、文禄(ぶんろく)元年(一五九二)には木村常陸介(ひたちのすけ)が入城した。同四年に廃城となったため、現在では城跡の痕跡(こんせき)すら見当たらない。なお、納所の妙教寺(交通=同前)に城跡の石碑が建立されている。
摂津(せつつ)大坂城跡(大阪市中央区大阪城一−一/交通=JR大阪環状線大阪城公園駅などより徒歩)

 豊臣秀吉が天正(てんしよう)十一年(一五八三)から三年の歳月を費やして構築した、豊臣家の居城。秀吉の庇護(ひご)を受けた淀殿(よどどの)、お江ら三姉妹は、この大坂城でも多くの時を過ごしたものと推測される。のちに、長姉の淀殿は秀吉の側室となり、豊臣秀頼(ひでより)を産む。慶長(けいちよう)十九年(一六一四)、元和(げんな)元年(一六一五)の大坂の陣では、大御所・徳川家康、第二代将軍・徳川秀忠の号令の(もと)、約二十万の徳川方がこの城に猛攻を加えた。姉の淀殿や秀頼の正室となった秀忠・お江夫妻の長女・千姫が城内にいたこと、(しゆうと)や夫、娘婿(むすめむこ)の前田利常(としつね)、松平忠直(ただなお)らも徳川方に参加していたことから、お江も大いに胸を痛めたことであろう。結局、激しい攻防戦の末、五月八日までに淀殿・秀頼母子が自刃(じじん)し、大坂城は落城した。現在、城跡には見事な石垣、堀が現存し、往時の天守閣を模した大阪城天守閣も建立されている。
太融寺(たいゆうじ)(大阪市北区太融寺町三−七/交通=JR東海道本線大阪駅より徒歩)

 大阪のキタの繁華街の近くにある名刹(めいさつ)で、境内に淀殿(よどどの)の墓碑といわれる石塔がある。なお、三寳寺(さんぽうじ)(京都市右京区鳴滝本町(なるたきほんまち)三二/交通=京福(けいふく)電車北野線高雄口(たかおぐち)駅より徒歩)には、古奈姫(こなひめ)(お初の養女)が建立(こんりゆう)した淀殿・秀頼・国松(くにまつ)の三代の供養塔(くようとう)が現存している。

お江関係史跡(e)徳川秀忠ゆかりの史跡
遠江(とおとうみ)浜松城跡(静岡県浜松市中区元城町(もとしろちよう)一〇〇−二/交通=JR東海道新幹線浜松駅よりバス)

 徳川家康が元亀(げんき)元年(一五七〇)から天正(てんしよう)十四年(一五八六)頃まで居城とした城郭。お江の夫・徳川秀忠は家康を父、側室・西郷局(さいごうのつぼね)宝台院(ほうだいいん))を生母として城内で生を受けた。江戸時代には譜代(ふだい)大名の居城となり、城郭の建物は維新後に失われた。現在、城跡には復興天守閣、家康の銅像などがある。なお、城跡から少し離れた場所に、徳川秀忠産湯(うぶゆ)の井戸(同市中区早馬(はやうま)町/交通=遠州(えんしゆう)鉄道遠州病院駅より徒歩)と呼ばれるものがある。
宝台院(ほうだいいん)(静岡市(あおい)常盤(ときわ)町二−一三−二/交通=JR東海道新幹線静岡駅より徒歩)

 徳川秀忠の生母・西郷局(さいごうのつぼね)(宝台院)の菩提寺(ぼだいじ)。寺名は正しくは金平山(こんぺいざん)宝台院龍泉寺(りゆうせんじ)というが、宝台院という呼称は西郷局の法名・宝台院にちなむ。天正(てんしよう)十七年(一五八九)に病没した西郷局は、この寺に埋葬された。現在、境内に西郷局の墓碑が残る。
信濃(しなの)上田城跡(長野県上田市二の丸ほか/交通=JR長野新幹線上田駅より徒歩)

 織豊(しよくほう)(安土桃山)時代、江戸時代初期の真田(さなだ)家の居城。城主の真田昌幸(まさゆき)や、その次男の同信繁(のぶしげ)幸村(ゆきむら))は、天正(てんしよう)十三年(一五八五)には徳川家康、慶長(けいちよう)五年(一六〇〇)にはその三男の徳川秀忠の率いる大軍の攻撃を受けた。しかし、昌幸・信繁父子は神出鬼没(しんしゆつきぼつ)のゲリラ戦法を繰り広げ、二度とも徳川方を翻弄(ほんろう)している。中でも、秀忠は慶長五年の第二次の戦いの際は昌幸・信繁父子の攻撃に固執(こしゆう)し過ぎたため、結果的に九月十九日の美濃(みの)関ケ原(岐阜県関ケ原町)での決戦に遅参した。しかし、昌幸・信繁父子は除封(じよほう)(おとり(つぶ)し)となり、上田藩主となった嫡子(ちやくし)・真田信之(のぶゆき)ものちに転封(てんぽう)(国替え)となって上田城を去った。城跡には見事な石垣や堀が残り、これまでに城門や(やぐら)が再建されている。
武蔵(むさし)江戸城跡(東京都千代田区千代田・皇居/交通=JR東海道新幹線東京駅より徒歩)

 徳川将軍家の居城。中世には江戸家が居館を置き、室町(むろまち)時代末期には太田道灌(どうかん)資長(すけなが))が本格的な築城を行なう。天正(てんしよう)十八年(一五九〇)に関東に入封した徳川家康は、大規模な城郭の構築、城下町・江戸の整備に腐心した。また、慶長(けいちよう)八年(一六〇三)に将軍(征夷大将軍(せいいたいしようぐん))に補任(ぶにん)されると、江戸城を居城、政庁とする江戸幕府を開設している。同十年、三男・徳川秀忠は父の隠居に伴って第二代将軍となり、江戸城の増築にとり組んでいる。現在、城跡は皇居となっているが、東御苑(ひがしぎよえん)にある天守台、歴代将軍や妻妾、女中らが起居した大奥の跡地などは月曜日と金曜日、年末年始を除いて一般に公開されている。

 
お江関係史跡(f)お江の墓所とゆかりの寺院
増上寺(ぞうじようじ)(東京都港区芝公園四−七−三五/交通=都営地下鉄三田線芝公園駅、御成門(おなりもん)駅より徒歩)

 徳川将軍家の菩提寺(ぼだいじ)として栄えた浄土宗(じようどしゆう)の寺院。慶長(けいちよう)三年に徳川家康(秀忠の父)がこの地に移した。建物では勅額門(ちよくがくもん)三解脱門(さんげだつもん)、秀忠の霊廟(れいびよう)の門(国重要文化財)などが現存する。また、徳川将軍家の墓所は昭和三十三年(一九五八)以降、東京タワーの建設に伴って改葬され、墓碑、遺骨の学術的な分析もなされた。現在、徳川将軍家の墓所には第二代将軍・徳川秀忠、第十四代将軍の徳川家茂(いえもち)ら歴代六人の将軍と、家茂の正室・静寛院宮(せいかんいんのみや)和宮(かずのみや)親子(ちかこ)内親王の墓碑、妻妾、子女の合葬墓等があるが、春の御忌大会(ぎよきだいえ)の期間以外は非公開である。なお、家康と、秀忠・お江夫妻の長男である第三代将軍・徳川家光の墓碑は輪王寺(りんのうじ)(栃木県日光(につこう)山内(さんない)二三〇〇/交通=東武日光線日光駅よりバス)に、第四代将軍・徳川家綱(いえつな)ら六人の将軍の墓碑は寛永寺(かんえいじ)(東京都台東区上野桜木一−一四−一一/交通=JR山手線鶯谷(うぐいすだに)駅より徒歩)に、第十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の墓碑は徳川家墓所(台東区谷中(やなか)/交通=JR山手線日暮里(につぽり)駅より徒歩)にあるが、通常は非公開である。
養源院(ようげんいん)(京都市東山区三十三間堂廻(さんじゆうさんげんどうまわ)(ちよう)六五六/交通=京阪本線七条(しちじよう)駅より徒歩)

 淀殿(よどどの)文禄(ぶんろく)三年(一五九四)に亡父・浅井長政(あざいながまさ)菩提(ぼだい)(とむら)うべく建立した寺院で、寺名は長政の法名・養源院にちなむ。開基(かいき)には浅井家の一族の成伯法印(じようはくほういん)が迎えられたが、一時、火災などにより衰退する。そして、元和(げんな)元年(一六一五)の淀殿・豊臣秀頼(ひでより)母子の自刃(じじん)を経て、長政の三女、淀殿の末妹であるお江が再建事業を引き継ぎ、堂宇(どうう)を寄進した。現在、養源院は名匠(めいしよう)俵屋宗達(たわらやそうたつ)の描いた本堂の著色杉戸絵(ちやくしよくすぎとえ)(国宝)や、崇源院(すうげんいん)(お江)画像(肖像画)などの多くの寺宝を所蔵するが、画像などは非公開となっている。
崇源院供養塔(すうげんいんくようとう)(和歌山県高野(こうや)町高野山/交通=高野山ケーブル高野山駅よりバス)

 参道の(かたわ)らに、徳川秀忠・お江夫妻の次男である駿河駿府(するがすんぷ)藩(静岡市(あおい)区)主・徳川忠長が、寛永(かんえい)四年(一六二七)に亡母の冥福(めいふく)を祈って建立した供養塔がある。なお、高野山には夫妻の長男である第三代将軍・徳川家光の命で造営された徳川家霊台(れいだい)や、秀忠の兄・結城(ゆうき)(松平)秀康(ひでやす)及び生母・お(まん)(かた)長勝院(ちようしよういん))の霊屋(れいおく)(以上、国重要文化財)、京極高次(きようごくたかつぐ)(お初の夫)が建立した大津籠城戦死者供養碑など、徳川将軍家やその縁者と関わりのある霊屋、石塔もある。このうち、徳川家霊台には徳川家康(秀忠の父)や秀忠らが(まつ)られており、歴代将軍の位牌(いはい)が安置されている。一方、供養碑は慶長(けいちよう)五年(一六〇〇)の近江(おうみ)大津城(大津市)攻防戦の討死者を(とむら)うべく、城主であった高次が建立したものである。

お江関係史跡(g)お江の子女ゆかりの城郭・寺院
大信寺(だいしんじ)(群馬県高崎市通町(とおりちよう)七五/交通=JR東北新幹線・上越新幹線高崎駅よりタクシー)

 徳川秀忠・お江夫妻の次男である徳川忠長は、寛永(かんえい)九年(一六三二)に上野(こうずけ)高崎藩(同市)主・安藤重長(しげなが)のもとへ預けられ、同十年十二月六日に高崎城(同市高松町一/交通=JR東北・上越新幹線高崎駅より徒歩)内で自刃(じじん)して果てた。遺骸はこの大信寺に埋葬されている。墓地に忠長の墓碑があり、忠長の遺品も所蔵されている。
伝通院(でんづういん)(東京都文京区小石川三−一四−六/交通=東京メトロ丸の内線後楽園駅よりタクシー)

 応永(おうえい)二十二年(一四一五)創建の浄土宗(じようどしゆう)の寺院。正しくは無量山寿経寺(むりようさんじゆきようじ)というが、徳川家康の生母・於大(おだい)(かた)菩提寺(ぼだいじ)となって以降、於大の方の法名である伝通院と呼ばれることが多い。戦災のために堂宇(どうう)は焼失したが、墓地には於大の方の他に、徳川秀忠・お江夫妻の長女・千姫(天樹院(てんじゆいん))、四女・初姫(興安院(こうあんいん))、夫妻の長男・徳川家光の正室・鷹司孝子(たかつかさたかこ)本理院(ほんりいん))らの、徳川将軍家の妻妾、子女の見事な墓碑群が現存している。
東慶寺(とうけいじ)(神奈川県鎌倉(かまくら)(やま)(うち)一三六七/交通=JR横須賀(よこすか)線北鎌倉駅より徒歩)

 臨済宗円覚寺(りんざいしゆうえんがくじ)派の名刹(めいさつ)で、別名は縁切寺(えんきりでら)駆込寺(かけこみでら)松岡御所(まつがおかごしよ)。近代までは尼寺(あまでら)であったが、現在は男性の僧侶が住持(じゆうじ)(住職)をつとめている。鎌倉時代後期に覚山志道尼(かくざんしどうに)北条時宗(ほうじようときむね)の正室)が開山(かいざん)、夫妻の嫡子(ちやくし)・北条貞時(さだとき)開基(かいき)となって創建された。なお、時宗は鎌倉幕府の第八代執権(しつけん)、貞時は第九代執権である。室町(むろまち)時代、戦国時代には鎌倉公方(くぼう)足利(あしかが)家(足利将軍家の別流)の娘が、元和(げんな)元年(一六一五)の大坂夏の陣の後には天秀尼(てんしゆうに)(豊臣秀頼(ひでより)の長女)が入山した。徳川秀忠・お江夫妻の長女・千姫(天樹院(てんじゆいん))が天秀尼の嫡母(ちやくぼ)(父の正室)であった関係で、第二十世の住持に出世した天秀尼ら歴代住持は、千姫や徳川将軍家の理解を得つつ、寺法の整備、離縁を望む女性の救済に生涯を傾けた。境内には千姫に先立って正保(しようほ)二年(一六四五)に病没した、天秀尼の墓碑がある。
野田山(のだやま)墓地(金沢市野田町野田山/交通=JR北陸本線金沢駅よりバス)
天徳院(てんとくいん)(金沢市小立野(こだつの)四−四−四/交通=同前)

 野田山墓地には前田利家(としいえ)を藩祖とする加賀(かが)藩(金沢市)主・前田家の墓所があり、利家や、その四男で第二代藩主・前田利常(としつね)、徳川秀忠・お江夫妻の次女で、利常の正室であった子々姫(ねねひめ)らの墓碑が残る。また、天徳院は前田家が元和(げんな)八年(一六二二)に病没した子々姫の菩提(ぼだい)(とむら)うべく、建立した寺院で、寺名は子々姫の法名・天徳院にちなむ。
播磨姫路(はりまひめじ)(兵庫県姫路市本町六八/交通=JR山陽新幹線姫路駅よりバス)

 元和(げんな)三年(一六一七)当時の姫路藩主・本多忠政(ただまさ)の居城。別名は白鷺城(しらさぎじよう)で、かつて黒田如水(じよすい)孝高(よしたか))、豊臣秀吉らが居城としたこともある。徳川秀忠・お江夫妻の長女である千姫(天樹院(てんじゆいん))は、元和二年に忠政の嫡子である本多忠刻(ただとき)と再婚し、忠政の転封(てんぽう)(国替え)に伴い姫路城へ移り住んだため、「播磨の姫君(ひめぎみ)」と呼ばれた。姫路時代の千姫は忠刻との間に長女・勝姫(かつひめ)円盛院(えんせいいん))、長男・本多幸千代(こうちよ)をもうけたが、先夫・豊臣秀頼(ひでより)の亡霊に苦しめられていたという説もある。やがて、幸千代、次いで夫の忠刻が病没したため、寛永(かんえい)三年(一六二六)に江戸へ戻っている。城郭は慶長(けいちよう)五年(一六〇〇)に姫路藩主となった池田輝政(てるまさ)が、総奉行(そうぶぎよう)伊木忠次(いぎただつぐ)(筆頭家老)らを動員して構築したもので、大天守(だいてんしゆ)と西・(いぬい)・東の小天守(しようてんしゆ)諸櫓(しよやぐら)などが林立(りんりつ)する姿は、この上もなく優美である。現在、大天守、三つの小天守、渡櫓(わたりやぐら)などが国宝、「千姫の化粧櫓(けしようやぐら)」などが国の重要文化財の指定を受けており、平成五年には全域が世界文化遺産に登録された。城下町やその周囲には、千姫が寄進を行なった男山(おとこやま)千姫天満宮(てんまんぐう)(姫路市山野井町一−三/交通=同前)や、忠刻の廟所(びようしよ)のある書写山円教寺(しよしやざんえんぎようじ)(姫路市書写二九六八/交通=JR山陽新幹線姫路駅よりバス、ロープウェー)などの、千姫ゆかりの寺社もある。このうち、忠刻の廟所の傍らには、宮本造酒助(みきのすけ)(三木之助/武蔵(むさし)の養子)らの殉死者(じゆんししや)の墓碑も残る。
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