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お江と徳川秀忠101の謎
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歴史
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お江関係人物(1)/お江の内祖父母と父母

『お江と徳川秀忠101の謎』
[著]川口素生 [発行]PHP研究所


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浅井久政(あざいひさまさ)(?〜一五七三)

 浅井長政(ながまさ)の父、お江の内祖父。近江小谷(おうみおだに)城(滋賀県長浜市)主。父は浅井亮政(すけまさ)、生母は側室・馨庵(けいあん)尼子(あまご)氏の娘)。通称は新九郎、受領名(ずりような)下野守(しもつけのかみ)天文(てんぶん)十一年(一五四二)に父の病没に伴い当主となるが、六角(ろつかく)家などの動きを封じることが出来なかった。永禄(えいろく)三年(一五六〇)、重臣に忌避(きひ)されて隠居をするが、元亀(げんき)元年(一五七〇)には織田信長と手を切り、朝倉義景(よしかげ)と同盟するよう長政に迫ったという。織田方の猛攻を受け、天正(てんしよう)元年(一五七三)八月二十九日に小谷城内で自刃(じじん)した。
阿古御料(あこのごりよう)(?〜一五七三)

 浅井久政(あざいひさまさ)の正室、同長政の生母、お江の内祖母。近江(おうみ)井口(滋賀県長浜市)の武将・井口経元(つねもと)の娘。通称は小野殿(おのどの)小谷(おだに)城落城後の天正(てんしよう)元年(一五七三)九月十九日に織田方に捕らえられ、手の指を切り落とされた末、数日後に絶命したという。
浅井長政(あざいながまさ)(一五四五〜七三)

 お江の父。近江(おうみ)(滋賀県)北部の戦国大名、同小谷(おだに)城(同県長浜市)主。父は浅井久政(ひさまさ)、生母は正室・阿古御料(あこのごりよう)(井口経元(つねもと)の娘)。通称は新九郎、受領名(ずりような)備前守(びぜんのかみ)(いみな)(実名)は賢政(かたまさ)とも。永禄(えいろく)三年(一五六〇)に父の隠居に伴い、十六歳で当主となる。支城在番制(しじようざいばんせい)の導入、的確な経済政策などを展開し、版図(はんと)を本拠である近江北部の三郡から、中部の三郡にまで拡大させている。外交面、軍事面では永禄(えいろく)十一年(一五六八)頃に織田信長に接近し、その妹(異説あり)・お市の方を継室(けいしつ)(後妻)に迎えた。お市の方との間にお江ら三女をもうけるが、元亀(げんき)元年(一五七〇)に突如として信長と手を切り、朝倉義景(よしかげ)と同盟する。しかし、織田方の猛攻を受け、天正(てんしよう)元年(一五七三)九月一日に小谷城内で自刃(じじん)した。行年は二十九。現在、徳勝寺(とくしようじ)(長浜市)に長政ら三代の墓碑がある。
お市の方(?〜一五八三)

 浅井長政(あざいながまさ)継室(けいしつ)(後妻)、お江の生母。織田信長の妹とされるが、織田與康(ともやす)(信長の従兄弟(いとこ))の娘、信長の養女、養妹(ようまい)とする説もある。法名は自性院(じしよういん)、通称は小谷(おだに)の方とも。生母、生年は共に不詳だが、一説に生年は天文(てんぶん)十六年(一五四七)であるという。永禄(えいろく)十一年(一五六八)頃、信長の命で長政の継室となり、近江(おうみ)小谷城(滋賀県長浜市)へ輿入(こしい)れをした。永禄十二年頃に長女・淀殿(よどどの)元亀(げんき)元年(一五七〇)頃に次女・お初、天正(てんしよう)元年(一五七三)に三女・お江を産む。同年の落城直前にお江ら三女と共に城外へ逃れ、のちに兄(異説あり)の織田信包(のぶかね)のもとへ身を寄せる。天正十年の本能寺(ほんのうじ)の変で信長が自刃(じじん)した後、神戸信孝(かんべのぶたか)(信長の三男)の仲介で柴田勝家(かついえ)と再婚して、三女を伴って越前北(えちぜんきた)(しよう)城(福井市)へ輿入れした。勝家が天正十一年四月二十一日の(しず)(たけ)の戦いで敗れた後、二十四日に夫と共に同城で自刃した。福井市の西光寺(さいこうじ)、自性院などに墓碑、供養塔(くようとう)がある。
柴田勝家(かついえ)(?〜一五八三)

 お市の方の後夫(ごふ)、お江の継父(けいふ)。織田信長の重臣、越前北(えちぜんきた)(しよう)城(福井市)主。通称は権六(ごんろく)修理亮(しゆりのすけ)弘治(こうじ)二年(一五五六)頃、織田勘十郎(かんじゆうろう)(信長の弟)の擁立(ようりつ)に動いたが、のちに信長に(ゆる)されて重臣(宿老(しゆくろう))筆頭となる。合戦ではいかなる場合にも、危険な先鋒(せんぽう)殿軍(しんがり)(最後尾部隊)を引き受けるなど、その勇猛果敢な戦いぶりで名声を()せた。天正(てんしよう)三年(一五七五)、越前(福井県)の支配を(ゆだ)ねられ、北陸方面軍を率いて上杉景勝(かげかつ)(謙信の養子)と互角に渡り合っている。天正十年に信長が自刃(じじん)すると、神戸信孝(かんべのぶたか)(信長の三男)と結んで豊臣秀吉に(あらが)い、お市の方を正室に迎える。しかし、佐久間盛政(もりまさ)(勝家の(おい))の失策、前田利家(としいえ)らの離反により、同十一年四月二十一日の(しず)(たけ)の戦いに敗れる。次いで、同月二十四日、お市の方と共に居城で自刃した。福井市の西光寺(さいこうじ)自性院(じしよういん)などに墓碑、供養塔(くようとう)がある。また、城跡には勝家を(まつ)る柴田神社が建立された。

お江関係人物(2)お江の兄弟姉妹
浅井万福丸(あざいまんぷくまる)(一五六四〜七三)

 浅井長政(ながまさ)の長男、お江の異母兄。生母は側室(出自は不詳)。天正(てんしよう)元年(一五七三)の小谷(おだに)城落城後に織田方に捕らえられ、美濃(みの)関ケ原(岐阜県関ケ原町)で(はりつけ)となった。行年は十。関ケ原町野上にある馬頭観音(ばとうかんのん)の付近が終焉(しゆうえん)の地とされている。
淀殿(よどどの)(?〜一六一五)

 長政(ながまさ)・お市の方夫妻の長女、お江の長姉。豊臣秀吉の側室、同秀頼(ひでより)の生母。法名は大広院(たいこういん)幼名(ようみよう)茶々(ちやちや)、通称は二ノ丸殿、西ノ丸殿、お袋様とも。生年は通説は永禄(えいろく)十年(一五六七)だが、同十二年頃の可能性が高い。天正(てんしよう)元年(一五七三)の小谷(おだに)城落城、同十一年の(きた)(しよう)城落城を経て、豊臣秀吉の庇護(ひご)を受ける。まもなく、秀吉の側室となり、天正十七年(一五八九)に秀吉の長男・豊臣鶴松(つるまつ)棄丸(すてまる))を産むが、鶴松は同十九年に早世(そうせい)する。次いで、文禄(ぶんろく)二年(一五九三)に秀頼を産み、秀吉の正室である高台院(こうだいいん)(お())を凌駕(りようが)する地位を得た。慶長(けいちよう)三年(一五九八)に秀吉が病没すると、秀頼の生母として権勢をふるうようになり、政治問題にも深く関与しはじめる。慶長十九年、元和(げんな)元年(一六一五)の大坂の陣では大御所・徳川家康、第二代将軍・同秀忠(家康の三男)を総大将とする徳川方に、秀頼の居城である大坂城を攻められた。なお、秀忠はお江の夫で、秀頼の正室・千姫は秀忠・お江夫妻の長女である。やがて、元和元年五月八日に城内の山里曲輪隅櫓(やまざとくるわすみやぐら)に追い詰められた淀殿・秀頼母子は、側近や侍女(じじよ)と共に自刃(じじん)して果てた。淀殿の行年は四十九、もしくは四十七。大阪市北区の太融寺(たいゆうじ)に、淀殿のものといわれる墓碑がある。
お初(?〜一六三三)

 長政・お市の方夫妻の次女、お江の次姉。京極高次(きようごくたかつぐ)の正室。法名は常高院(じようこういん)。生年は通説は永禄(えいろく)十一年(一五六八)だが、元亀(げんき)元年(一五七〇)頃の可能性が高い。天正(てんしよう)元年(一五七三)の小谷(おだに)城落城、同十一年の(きた)(しよう)城落城を経て、豊臣秀吉の庇護(ひご)を受ける。天正十五年、秀吉の命に従い、従兄(いとこ)で、近江(おうみ)大津城(大津市)主となる高次の正室となった。高次の生母・マリアと長政は、姉弟(一説に叔母(おば)(おい))の間柄である。慶長(けいちよう)五年(一六〇〇)、高次は徳川方へ寝返ったため、居城を豊臣方に攻め落とされた。しかし、関ケ原の決戦で徳川方が大勝利を(おさ)めたため、高次は若狭小浜(わかさおばま)藩(滋賀県小浜市)主に栄転する。慶長八年、徳川秀忠・お江夫妻に四女の初姫が生まれると養育に関与し、のちに初姫を高次の嫡子(ちやくし)・京極忠高(ただたか)(生母は側室)の正室としている。慶長十九年には長姉・淀殿(よどどの)の指名で豊臣方の使者となり、徳川方の使者と折衝(せつしよう)を重ねた。寛永(かんえい)十年(一六三三)八月二十七日に病没。行年は六十六、もしくは六十四。遺骸は生前のお初が自らの菩提寺(ぼだいじ)として建立(こんりゆう)した、小浜城下の常高寺(同市)に埋葬されている。
浅井井頼(あざいいより)(生没年不詳)

 長政(ながまさ)の次男、お江の異母弟。生母は側室(出自は不詳)。通称は喜八郎(きはちろう)周防守(すおうのかみ)、号は作庵(さくあん)(いみな)(実名)は政堅(まさかた)(政賢)とも。生年は不詳だが、天正(てんしよう)元年(一五七三)である可能性が高い。同年の小谷(おだに)城の落城後、織田方の追及を逃れ、成長後は豊臣秀長(ひでなが)、同秀保(ひでやす)増田長盛(ましたながもり)生駒一正(いこまかずまさ)らに相次いで仕えた。慶長(けいちよう)十九年(一六一四)、元和(げんな)元年(一六一五)には異母姉・淀殿(よどどの)のいる摂津(せつつ)大坂城(大阪市中央区)へ入城し、豊臣方として参戦した。その後は夏の陣で討死したとも、同じく異母姉・お初を頼って若狭小浜(わかさおばま)藩(福井県小浜市)主・京極(きようごく)家に仕えたともいうが、定かではない。
正芸(しようげい)(生没年不詳)

 長政(ながまさ)の子(三男か)。生母は側室(出自は不詳)。幼名は一説に万寿丸(まんじゆまる)。生年は不詳だが、天正(てんしよう)元年(一五七三)である可能性が高い。同年の小谷(おだに)城の落城後、織田方の追及を逃れ、成長後は福田寺(ふくでんじ)(滋賀県米原(まいばら)市)の住職となったという。

お江関係人物(3)お江の夫たち
佐治一成(さじかずなり)(一五六九〜一六三四)

 佐治信方(のぶかた)・お犬の方夫妻の嫡子(ちやくし)、お江の最初の夫。尾張(おわり)大野城(愛知県常滑(とこなめ)市)主、のち丹波柏原(たんばかいばら)藩(兵庫県丹波市)の重臣。通称は与九郎(よくろう)、号は巨哉(きよさい)。生母のお犬の方はお市の方の妹(異説あり)であるため、一成とお江は従兄妹(いとこ)という間柄になる。天正(てんしよう)十二年(一五八四)、お江は豊臣秀吉の命で一成と結婚するが、秀吉は一成が徳川家康に通じたという理由で二人の仲を()いた。以後の一成は柏原藩主となる織田信包(のぶかね)(信長の弟、お市の方らの兄)の重臣となり、私生活の面では継室(けいしつ)(後妻)と死別した後、信長の娘・お(ふり)の方(康清院(こうせいいん))と再々婚している。寛永(かんえい)十一年(一六三四)九月二十六日に病没。行年は六十六。
豊臣秀勝小吉(こきち)/一五六九?〜一五九二)

 三好吉房(よしふさ)瑞龍院(ずいりゆういん)(豊臣秀吉の姉)夫妻の次男、秀吉の(おい)、養子、お江の二人目の夫。美濃(みの)岐阜城(岐阜市)などの城主。通称は小吉、官職は少将、中納言(ちゆうなごん)天正(てんしよう)十三年(一五八五)、病没した秀吉の養子・羽柴(はしば)秀勝(於次丸(おつぎまる)/織田信長の子)の(いみな)(実名)と城地を受け継いで丹波(たんば)亀山城(京都府亀岡市)主となり、各地を経て同十九年に岐阜城主となる。文禄(ぶんろく)元年(一五九二)、お江は秀吉の命で秀勝と結婚し、のちに長女・豊臣完子(さだこ)を産む。しかし、同年九月九日、秀勝は唐島(からしま)巨済島(コジエド))で戦病死を遂げた。
徳川秀忠(一五七九〜一六三二)

 徳川家康の三男、お江の三人目の夫。江戸幕府の第二代将軍。生母は側室・西郷局(さいごうのつぼね)宝台院(ほうだいいん))。幼名(ようみよう)は長丸。長兄・岡崎(松平)信康(のぶやす)が切腹し、次兄・結城(ゆうき)(松平)秀康(ひでやす)が豊臣秀吉らの養子となった関係で、徳川家の世子(せいし)(次期当主)と定められる。なお、秀吉の膝下(しつか)で起居したため、秀吉の養子となっていたという見方もある。文禄(ぶんろく)四年(一五九五)、秀吉の命でお江と結婚した。慶長(けいちよう)十年(一六〇五)、父の隠居に伴って江戸幕府の第二代将軍に就任し、当初は父の後見を受けつつ、江戸幕府の基礎固めに功績を残している。また、慶長十九年、元和(げんな)元年(一六一五)には父と共に諸大名を動員し、摂津(せつつ)大坂城(大阪市中央区)主・豊臣秀頼(ひでより)(秀吉の次男)、その生母・淀殿(よどどの)(お江の長姉)を自刃(じじん)に追い込んだ。私生活の面では、お江との間に長女・千姫(秀頼、本多忠刻(ただとき)の正室)、長男・徳川家光、五女・東福門院和子(とうふくもんいんまさこ)ら二男五女を、側室との間に徳川長丸、保科正之(ほしなまさゆき)の二男をもうけている。元和九年、隠居して家督と将軍職を家光に譲り、寛永(かんえい)九年(一六三二)一月二十四日に病没。行年は五十四。遺骸は増上寺(ぞうじようじ)(東京都港区)に埋葬された。

お江関係人物(4)お江の子女と義子
豊臣完子(さだこ)(?〜一六五八)

 豊臣秀勝(小吉(こきち))・お江夫妻の長女。公家・九条忠栄(ただひで)の正室。文禄(ぶんろく)元年(一五九二)、もしくは同二年の出生。父が同元年に戦病死を遂げ、お江が徳川秀忠と再々婚した関係で、伯母(おば)(生母の長姉)・淀殿(よどどの)に養育される。慶長(けいちよう)九年(一六〇四)、関白(かんぱく)となる忠栄に(とつ)ぎ、摂政(せつしよう)となる嫡子(ちやくし)・九条道房(みちふさ)ら四男三女を産む。万治(まんじ)元年(一六五八)に病没。
千姫(一五九七〜一六六六)

 徳川秀忠・お江夫妻の長女。豊臣秀頼(ひでより)、のち本多忠刻(ただとき)の正室。法名は天樹院(てんじゆいん)、通称は播磨(はりま)姫君(ひめぎみ)慶長(けいちよう)八年(一六〇三)、淀殿(よどどの)(お江の長姉)の次男で、右大臣(うだいじん)となる豊臣秀頼(秀吉の次男)の正室となる。摂津(せつつ)大坂城(大阪市中央区)へ輿入(こしい)れしたものの、元和元年(一六一五)の大坂夏の陣で淀殿・秀頼母子は自刃(じじん)する。同二年、播磨姫路(ひめじ)藩(兵庫県姫路市)の世子(せいし)(次期藩主)となる忠刻と再婚し、長女・勝姫(かつひめ)、長男・本多幸千代(こうちよ)を産む。しかし、幸千代、次いで忠刻と死別し、寛永(かんえい)三年(一六二六)に勝姫と共に江戸へ戻った。以後は亡夫、亡児の供養(くよう)、勝姫の養育に多くの時間を()く一方、秀頼の遺児・天秀尼(てんしゆうに)(おい)(徳川家光の三男)・徳川綱重(つなしげ)の成長を見守るなどした。寛文(かんぶん)六年(一六六六)二月六日に病没。行年は七十。遺骸は伝通院(でんづういん)(東京都文京区)に埋葬された。
子々姫(ねねひめ)(一五九九〜一六二二)

 秀忠・お江夫妻の次女。加賀(かが)藩(金沢市)主・前田利常(としつね)利家(としいえ)の四男)の正室。法名は天徳院(てんとくいん)、名は珠姫(たまひめ)とも。慶長(けいちよう)六年(一六〇一)、利常に(とつ)いで金沢へ輿入(こしい)れし、嫡子(ちやくし)・前田光高(みつたか)ら三男五女を産む。元和(げんな)八年(一六二二)七月三日に病没。行年は二十四。のちに、子々姫の供養(くよう)のため、金沢城下へ天徳院が建立されている。
勝姫(かつひめ)(一六〇一〜七二)

 秀忠・お江夫妻の三女。越前(えちぜん)藩(福井市)主・松平忠直(ただなお)の正室。法名は天崇院(てんすういん)、通称は高田殿。慶長(けいちよう)十六年(一六一一)に従兄(いとこ)の松平忠直(結城秀康(ゆうきひでやす)嫡子(ちやくし))に(とつ)ぐ。越前へ輿入(こしい)れし、嫡子・松平光長(みつなが)ら一男二女を産む。しかし、元和(げんな)九年(一六二三)に忠直が除封(じよほう)となったため、江戸へ戻って光長らの養育に専念する。寛文(かんぶん)十二年(一六七二)二月二十一日に病没。行年は七十二。遺骸は天徳寺(てんとくじ)(東京都港区)に埋葬された。
初姫(はつひめ)(一六〇三?〜三〇)

 秀忠・お江夫妻の四女。若狭小浜(わかさおばま)藩(福井県小浜市)主・京極忠高(きようごくただたか)の正室。法名は興安院(こうあんいん)慶長(けいちよう)八年(一六〇三)、もしくは前年の出生直後から、伯母(おば)・お初が養育に関与した。慶長(けいちよう)十一年(一六〇六)に高次(たかつぐ)(お初の夫)の嫡子(ちやくし)・京極忠高(生母は側室)に(とつ)ぎ、小浜へ輿入(こしい)れした。寛永(かんえい)七年(一六三〇)三月四日に病没。行年は二十八か。遺骸は伝通院(でんづういん)(東京都文京区)に埋葬された。
徳川家光(一六〇四〜五一)

 秀忠・お江夫妻の長男。第三代将軍。幼名は竹千代(たけちよ)諡号(しごう)(だいゆういん)。お江が次男の徳川忠長を溺愛(できあい)したために世子(せいし)(次期藩主)の座が()らいだが、乳母(うば)春日局(かすがのつぼね)(お福)の奔走(ほんそう)もあり、元和(げんな)九年(一六二三)の父の隠居に伴って江戸幕府の第三代将軍に就任する。当初、大御所となった父の後見を受ける一方、幕閣の土井利勝(としかつ)、松平信綱(のぶつな)智恵伊豆(ちえいず))らの協力を得つつ、弟の忠長らを除封(じよほう)とした。また、江戸幕府の職制整備、鎖国(さこく)やキリスト教禁教令の強化、徹底などの武断政治を推進した。やがて、忠長が配流(はいる)先で自刃(じじん)するという痛事も発生するが、異母弟・保科正之(ほしなまさゆき)を厚遇するなどの配慮もみせている。慶安(けいあん)四年(一六五一)四月二十日に病没。行年は四十八。遺骸は寛永寺(かんえいじ)(東京都台東区)を経て、輪王寺(りんのうじ)(栃木県日光(につこう)市)へ埋葬された。なお、嫡子(ちやくし)・徳川家綱(いえつな)が第四代将軍となるが、直後に幕府転覆を目指した慶安事件(由井正雪(ゆいしようせつ)の乱)が勃発(ぼつぱつ)している。
徳川忠長(一六〇六〜一六三三)

 秀忠・お江夫妻の次男。駿河駿府(するがすんぷ)藩(静岡市(あおい)区)主。幼名は国松(くにまつ)国千代(くにちよ)、官位は従二位(じゅにい)受領名(ずりような)上野介(こうずけのすけ)、官職は参議(さんぎ)左中将(さちゆうじよう)権中納言(ごんちゆうなごん)権大納言(ごんだいなごん)。幼少時から利発で、生母のお江に溺愛(できあい)されたが、乳母(うば)春日局(かすがのつぼね)(お福)の奔走(ほんそう)、内祖父・徳川家康(秀忠の父)の裁定により兄・徳川家光が世子(せいし)(次期将軍)となる。甲斐甲府(かいこうふ)藩(甲府市)主を経て、寛永(かんえい)元年(一六二四)に五十五万石の駿府藩主に転じ、世人からは駿河大納言と呼ばれた。藩主として積極果敢な藩政運営を企図したが、寛永三年に生母・お江が病没して以後は藩政面で失策を、私生活の面で乱行(らんぎよう)を重ねたという。このため、寛永八年に甲斐での蟄居(ちつきよ)を申し渡されたが、同九年一月二十四日に父・秀忠が病没する。まもなく、上野高崎城(群馬県高崎市)へ配流(はいる)となり、同十年十二月六日に城内の一室で自刃(じじん)し、城地は除封(じよほう)となった。行年は二十八。遺骸は高崎の大信寺(だいしんじ)(高崎市)に埋葬されている。
東福門院和子(とうふくもんいんまさこ)(一六〇七〜七八)

 秀忠・お江夫妻の五女、第108代・後水尾(ごみずのお)天皇の中宮(ちゆうぐう)(皇后)、第109代・明正(めいしよう)天皇(興子(おきこ)内親王)の国母(こくぼ)(生母)。元和(げんな)六年(一六二〇)に女御(にようご)として京都御所(京都市上京(かみぎよう)区)の内裏(だいり)入内(じゆだい)し、同九年に興子内親王を産む。なお、後水尾天皇との間に二皇子五皇女をもうけたが、皇子は二人とも早くに薨去(こうきよ)している。寛永(かんえい)元年(一六二四)に中宮に立てられ、同六年十一月八日の後水尾天皇の譲位後には、興子内親王が即位して明正天皇となった。これに伴い、翌日の九日に東福門院の院号宣下(いんごうせんげ)を受けている。延宝(えんぽう)六年(一六七八)六月十五日に崩御(ほうぎよ)。行年は七十二。遺骸は月輪陵(つきのわのみささぎ)(京都市東山区)に埋葬された。
徳川長丸(一六〇一〜〇二)

 秀忠の子。生母は出自不詳の側室(家女)。慶長(けいちよう)六年(一六〇一)に出生したが、同七年九月二十五日に二歳で病没した。
保科(ほしな)正之(一六一一〜七二)

 秀忠の子。生母は側室・お(しず)の方(浄光院(じようこういん))。幼名(ようみよう)幸松丸(こうまつまる)陸奥会津(むつあいづ)藩(福島県会津若松市)主。父がお江に遠慮したため、見性院(けんしよういん)(武田信玄の次女)の手で養育され、譜代(ふだい)大名の保科正光(まさみつ)の実子として江戸幕府に届け出られた。父の没後、異母兄で、第三代将軍の徳川家光(秀忠の長男)に厚遇され、慶安(けいあん)四年(一六五一)に家光が病没すると遺命に従って第四代将軍・徳川家綱(いえつな)(家光の嫡子(ちやくし))の補佐役となった。幕政を家光の武断政治から文治(ぶんち)政治へと転換させるなど、補佐役として多大な功績を残している。この間、出羽(でわ)山形藩(山形市)主を経て、二十三万石の会津藩主となって藩政面でも功績を残したが、私的な面では学問も()くした。寛文(かんぶん)十二年(一六七二)十二月十八日に病没。行年は六十二。遺骸は会津郊外の見祢山(みねやま)(福島県猪苗代(いなわしろ)町)へ神葬(しんそう)で埋葬された。
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