誰でも自信を持って生きたい。しかし多くの人は自信を持てないままに僻んでみたり、無気力になったりして生きている。
あるいは自信のないことを隠すために虚勢を張ったり、誰かまわず人を批判したり、やたらに世の中の価値を否定したりしている。
誰でもが自信を持ちたい。しかし実際にはなかなか持てない。ということは、自信を持つことが、いかに大変であるかを示している。
安易なことで自信が手に入るものなら、誰でもすでに自信を手に入れているだろう。それほど自信を手に入れることは難しいことなのである。
多くの人は自信は欲しいけれども、辛いことは嫌だと思っている。例えば、重荷という言葉を聞いた時に「イヤだなー、できれば逃げたいなー」と感じる人がいる。そういう人に「あなたは自信が欲しいか?」と聞けばおそらく「欲しい」と答えるだろう。
でもそれは無理である。
ちょうど、働くのは嫌だけれども、給料は欲しいと言っても、そんなことを認めてくれる会社はなかなかないのと同じである。暴飲暴食をして健康でいたいと言っても無理である。
重荷という言葉を聞いた時に、「いい言葉だなー、好きだなー」と感じる人は、おそらく今現在心理的に安定して生きている人だろう。自信のある人である。人を恨んでいないに違いない。元気に楽しく生きているに違いない。
その重荷という言葉をどう感じるにせよ、人生には重荷がある。そして人生の重荷から逃げる人は残念ながら自信を持てない。
私は人生の重荷を背負うことが、その人に自信を与え、結果として幸せをもたらすと思っている。
安易な人生は、あなたに何も残さないだけでなく、人生の最後に苦悶を持ってくる。
楽な人生などない。生まれた以上、重荷を背負って生きるしかない。そして、そこに生きる充実感もあるし、生きる喜びもある。
生きることの価値を確信できるのは、自ら重荷を背負った時である。
重荷から逃げている人がなぜ自信を持てないのだろうか。
それは自分の運命から何とか逃げようとしているからである。つまり重荷から逃げる人は、自分の宿命を受け入れられない人なのである。
悩んでいる人は苦労をしているが、現実から逃げている。
それは自分自身を受け入れない人であるということである。
「自分とは何か?」ということがよく言われる。「自分がある」とか、「自分がない」とかよく言うが、具体的には「自分のある人」というのが良く分からない。自分というのは眼に見えるものではないし、匂いのするものでもない。ましてや鳥の声のように聞こえてくるものでもない。
しかし私たちはそれを体験できる。では自分があるとか、自分がないとかいうのはどういうことであろうか。
人が自分の運命を受け入れよう、自分の宿命を背負おうとした時にはじめて、その人の中に「自分」というものが現われる。
それは宿命を背負うのが誰かと言って、「自分」だからである。
「自分」とは神からの贈り物としての運命の受け取り人である。そしてその贈り物に込められたメッセージを読み取る人である。
自己不在の人の心理状態というのは、書留の郵便物が来たのに家に誰もいなくて、また郵便物が戻ってしまうような家の状態である。
家はあるけど中に人がいない。それが自己不在の人の心理である。
あるいは、自分の運命を受け入れない自己不在の人は、家をたてたけれどもまだ番地がない家のようなものである。
車を買ったけれどもナンバーがついていない車である。
「自分のない人」というのは、「これではイヤだ」と自分の運命に文句を言って不満になっている人のことである。文句を言って、自分の運命を背負うのをなんとか避けようとしているのである。
運命は受け取り人のない郵便物とは違う。これは私のではないと、突き返すわけには行かない。
あなたの運命にはあなたの名前がついている。いつかは受け取らないわけには行かない。
もちろん自分宛ての郵便物の受け取りを拒否し続ける人がいる。自分の運命を受け入れなければ心理的・社会的に挫折する。
普通に成長した場合には、人はある年齢になると自分の運命を受け入れる。運命を受け入れるのが「自分」である。そして中の郵便物に何が書いてあるかを良く読んで、理解する。
そうして自分の運命を受け入れた人の意見を「自分のある人の意見」と言うのである。
よく「彼は偉そうなことを言うが、自分がない」と言うのは、自分の運命を受け入れていない人が、偉そうなことを言っている状態を指している。
「自分のない人」というのは、自分の環境も、自分の性格も、自分の能力も受け入れていない。
そういう人は、どうしても周囲の人たちとうまくいかない。ナンバーのない車が走っていれば、普通の人は避ける。自分の運命を受け入れない人は、偉そうなことを言っていても、どうしても社会の中で孤立する。
もちろん人生の重荷と言ってもいろいろな重荷があるだろう。人生の重荷には大きく分けて、二種類ある。
いいかげんな生き方をしてきた結果、背負わされた重荷、つまりそれまでの人生の「つけ」としての重荷と、背負う人に充足感とか自信を与えてくれるような「重荷」と二種類ある。
若い頃から安易な道ばかりを選んできたがために生きるのが辛くなっている人もいるだろう。自分を鍛えるということをしないで生きてきた人は、ある年齢で心理的、社会的に挫折する。
「悩みは昨日の出来事ではない」とはオーストリアの精神科医ベラン・ウルフの言葉である。ながい人生の、いい加減な生き方の積み重ねの結果として人は悩むので、昨日何かあったから悩むのではない。
悩みは今までの人生の垢みたいなものである。重荷が充実感や自信を与えない時には、それはたいてい人生の垢である。
だから悩んだ時には、この悩みは自分に何を教えようとしているのかと考えることである。
ただこの本で書いているのは、主としてそうした人生の垢としての重荷ではない。
すこし具体的に考えてみる。生活の重荷というのがある。社会の中で生きられないでカルト的な宗教に逃げたりする人も多い。
修行という名前で生活の重荷から逃げているのである。日々の生活をきちんとするよりも、「真理、真理」と騒いでいたほうが心理的にはずっと楽である。
生活の重荷を背負う人は誇りを持つ。どんなに贅沢をしても親の臑をかじっているのでは、自分の生活に誇りを持てない。
親に買ってもらった高級車に乗っていても、誇りは持てない。貧しくても自分が働いて生計をたてていれば、自分の生活をしているという誇りはある。
自分の肉体的条件という重荷もあるだろう。体が弱いけれども体に細心の注意を払って堅実に生きていれば誇りはある。「生きている――」という実感はある。心の落ち着きはある。
あるいは、世の中にはどうしようもない親というのがいる。そんな親でも、その親の世話を逃げる子供と、高齢になった親の世話を引き受ける子供がいる。
親が親の役割をしてこなかったのだから、子供が親の世話から逃げるのも、それなりに理由がある。しかしそれでも年老いた親の世話をする子供もいる。
そしてその世話を引き受ける子供は表面的に見ると、損な役割を引き受けたようである。
しかし実は損な役割ではない。そうした役割を引き受けることで自分に自信ができてくるのである。
重荷を背負うから自分が何か大きなものにつながれているという感覚を持つのである。堂々としている人はたいてい重荷を引き受けている人である。
人生の重荷から逃げた人は「良き一日」を持つかもしれないが、「悪い人生」になるに違いない。
重荷から逃げると、自分が何か大きなものから切り離されて生きているという不安に悩まされる。不安になるのは、重荷から逃げる時は、たいてい近い人を犠牲にして逃げているからである。自分は誰ともつながっていないと心の底で感じてしまうのである。
その生きる姿勢が、その人の重さとなってかえってくる。自信となってかえってくる。納得して重荷を引き受けて生きている人は、凄みがある。軽くない。
重荷を背負う戦いの中ではじめて人は幸せを感じる。
重荷が自信と幸せを人に与えるものだとすれば、重荷をどう解釈し、どう背負えばいいのかを考える必要がある。それをこの本では試みた。得したように見える人が最後に悲惨な人生の結末を迎える。損したように見える人が最後に自信を手に入れる。
人の重さは自分が納得して重荷を引き受けた時の苦労から生まれるのである。自然と頭の下がる人に出会う時がある。それは生活がきちんとしている人であり、重荷を正面から引き受けて生きてきた人である。
生活を人に依存しながらどんなに偉そうなことを言っても軽いのは、若者を見れば分かる。
重荷を自分の人生の仕事としてしっかりと引き受けた者には、重荷はそれなりの価値が出てくる。
引き受けたか逃げたかは、何となく信頼感のある人と、何となく信頼感のない人となって表われてくる。
偉そうなことを言う若者が軽く見えるのは、重荷を背負って生きていないからである。逆に偉そうなことを何も言わなくても、何となく信頼感のある人は皆責任を持って重荷を引き受けている人である。
生きることそのことがある意味では重荷だから重荷を完全に避けることはできないが、重荷も視点を変えれば色は違ってくる。
人は重荷を背負うことで自信も生まれる。重荷は生きがいの源でもある。そう思えば重荷の色は違ってくる。
人間関係の重荷に苦しんでいる人は多い。
「もう生きていけない」と思っている人は、今の人間関係を変えれば生きて行かれる。友達を変え、恋人を変え、付き合う人を変えれば生きて行かれる。家族も同じである。
今あなたが生きて行かれないほど苦しいなら今の人間関係を変えることである。
アメリカの心理学者シーベリーが「生きていけないということは今の人間関係で生きて行かれないということだ」と言っているが、まさにその通りである。
あなたが今生きて行かれないのなら「今の人間関係を変えろ」というメッセージである。
オタマジャクシが海に行ったら生きるのが辛くなる。生きにくい。オタマジャクシは小川にいなければならない。今いる海に執着してはいけない。
今の人間関係に執着してはいけない。
二〇〇九年八月加藤諦三