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江戸東京の寺社609を歩く 下町・東郊編
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[1]日本橋から人形町通り周辺を歩く……中央区

『江戸東京の寺社609を歩く 下町・東郊編』
[監修]山折哲雄 [著]槇野修 [発行]PHP研究所


読了目安時間:21分
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 東京の寺社をめぐる初めの一歩をどこから踏み出すか、それについて少々悩んだ。

 名所や旧蹟全般の東京案内ならば、皇居(江戸城)をはじめに解説して、しだいに東西南北、波紋のように広げてゆくのが常套(じようとう)だろうが、寺院と神社に偏った案内となると、京都でいえば清水寺とか八坂神社や金閣寺、奈良ならば東大寺とか春日大社や法隆寺に匹敵する名の通った寺社を冒頭に据えなければならないかな、そうなると、江戸チームには「浅草寺」しか四番打者はいない。

 と思って、早朝の雷門(かみなりもん)にたたずむことをまず想定してみた。

 しかし、どうもしっくりこない。東京の地図にコンパスをあてるとなると、軸の針先はやはり皇居か東京駅になるはずで、台東区浅草は中心から離れすぎているし、いかにも観光的な起筆になりそうである。

 あれこれ考えたすえに、初めの一歩は常識の線で、全国への道路元標が埋めこまれている「日本橋」のたもとから踏み出すことにした。

 中央区日本橋一丁目一番地から「日本橋」を北へ渡りはじめる。「七つ立ち」の午前四時とはいかないが、二月の某日曜日午前八時半ころだった。

 橋の下を流れるのは、後楽園のすぐ南、三崎橋で神田川と分かれた日本橋川で、飯田橋、九段、大手町を流れて箱崎町から隅田川に合流する。かつては隅田川からさかのぼって、市中へ物資を運ぶ主要な河川であった。
「日本橋」は慶長八年(一六〇三)に創架、現在のルネサンス式石橋は明治四十四年(一九一一)の竣工で、長さ約四九、幅約二七。欄干の照明灯にほどこされた獅子と麒麟(きりん)の青銅像は、東京美術学校(現・東京芸術大学)の制作になり、精緻な意匠で、なかなか威厳にみちている。ふだんは見過ごされているが、しばし足をとめて一見する価値はある。また橋銘は徳川慶喜の筆である。

 日本橋川に架かる橋は、日本橋以東、江戸橋、鎧橋、茅場橋(かやばばし)、湊橋、豊海橋(とよみばし)となり、かつて日本橋と江戸橋の間には、北側に魚市場がたち、日本橋魚河岸としてにぎわった。いまの築地(東京都中央卸売市場本場魚類部)に移ったのは大正十二年の関東大震災後すぐのことである。

[小網神社]こあみじんじゃ
中央区日本橋小網町1623 03(3668)1080


 中央区の寺社をめぐるにあたって、前出した日本橋川を境に北域と南域に分けた。


 最初のコースは、北域の日本橋人形町、同小舟町(こぶなちよう)、同堀留町、同大伝馬・小伝馬町、同浜町といった地域である。

 首都高速でふたをされた薄暗い日本橋をわたって東に歩き、小網神社(小網稲荷)から寺社めぐりをはじめる。町名の由来となった古社で、約五百五十年前に鎮座したとされる。

 小網神社の伝えるところによれば、室町時代、小網山万福寺を別当として、この地に稲荷社が勧請(かんじよう)され、明治の神仏分離令により、小網神社となったという。

 祭神は、食物とくに稲をつかさどる倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と、宗像(むなかた)三女神の一神で、のちに弁財天として信仰される市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。「日本橋七福神」のうち福禄寿と弁財天を(まつ)り、東京銭洗い弁天ともいう。

 当社はことに強運厄除の神様といわれ、また、五月二十八日の例祭、十一月二十八日の「どぶろく祭」で盛り上がる。

 蛎殻町(かきがらちよう)と小舟町の交差点をむすぶ大通りからすこし北へ入り、つぎの三叉路の西側に小網神社の鳥居、社殿、神楽殿(かぐらでん)がおしちぢめられたように建っている。社殿の向拝(ごはい)には龍や獅子、鳳凰などこまかな彫刻がみられ、神楽殿の上部は六角形の建築様式でめずらしいものである。


 なお、小網神社にかぎらず、この日本橋界隈の神社は場所柄、ほとんどビルの谷間に押し込められた境内(けいだい)しか持たず、それらの小さな(やしろ)を訪れるためにはかなり細かな地図が必要となることを申し添えておきたい。


 江戸橋の北詰から小舟町交差点にむかう大通りの二本目の道を北へ入ると、ごく小さな常盤(ときわ)稲荷神社がある。

 太田道灌(おおたどうかん)が江戸城内に伏見稲荷大神の分霊を勧請、城の守護神とした。徳川家康の入城後、いまの常盤橋付近に移され、橋の名の由来となった。その後、日本橋魚市場近くに、相殿(あいどの)を水神大神として移座した。この水神は神田明神内に魚河岸水(うおがしすい)神社として、また築地市場内にその遙拝所、水神社として祀られている。


 新大橋通りの蛎殻町交差点から、少し水天宮前交差点方向へ歩くと銀杏(いちよう)八幡宮が左側にある。

 この八幡宮は福井藩松平氏の屋敷内に祀られていたもので、近隣の町民らの信仰を集めていた。祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと)(応神天皇)で、境内にそびえていた大銀杏からの社号といい、現在境内社となっている銀杏稲荷神社の創立のほうが古いとされる。

[水天宮]すいてんぐう
中央区日本橋蛎殻町2―4―1 03(3666)7195


 安産の神様として「水天宮」の名は全国的に知られており、地下鉄半蔵門線水天宮前駅のすぐ地上にあり、交通の便もいいため、若い夫婦や母娘の姿でつねに賑わいをみせている。

 社殿は一階部分を基壇として、その階上がかなり広い境内となっている。このような設計の寺社は東京の、とくに繁華な地域にみられ、階下を駐車場などに活用しているケースも多い。


 人形町通りから階段をあがると、大きな鳥居の奥にほぼ南向きに本殿・拝殿が建っていて、少し高い位置にあるため、ビルの谷間という感じを多少とも免れている。


 ここ日本橋の水天宮は、もともと有馬藩邸内(港区赤羽)に文政元年(一八一八)、当時の藩主有馬頼徳(よりのり)が領地の久留米の水天宮を勧請したことがはじまりであるから、総本社となる福岡県久留米の水天宮の由来から紹介しておこう。

 源平合戦の最後の戦場となった元暦二年(一一八五)の壇ノ浦(だんのうら)の戦で平氏は全滅し、幼い安徳天皇をいだいて二位尼(にいのあま)(平清盛の妻、安徳天皇の祖母)、建礼門院(けんれいもんいん)(清盛の娘徳子、安徳天皇の母)らは入水した。建礼門院は源氏の武将に救われたが、天皇と二位尼は没した。

 この戦いののち、建礼門院に仕えていた女官の伊勢は源氏の目をのがれて、久留米まで落ち、その地に三人の霊をまつる小さな(ほこら)をもうけた。

 その後、慶安三年(一六五〇)久留米藩主有馬忠頼が社地を寄進、社殿を新造した(現在、久留米市瀬下町(せのしたまち))。

 江戸の有馬藩邸内に分祀された水天宮には町民らは入ることができず、賽銭をそとから投げ入れて祈願したほどの人気で、有馬屋敷も毎月五日の縁日だけは町民に開放した。「なさけありまの水天宮」と洒落ことばになるほどの参詣人があった。

 明治維新で有馬邸がいったん赤坂に移ると、水天宮も移ったが、さらに明治五年に屋敷が現在地に変わると宮居も遷座(せんざ)した。
「昔、縁日ではない日は門が締まっていた時分、私はばあやに連れられて門の外から中を覗いた。門には格子(こうし)()まった窓が明いていて、その内側に賽銭(さいせん)箱が置いてあった。子供の私が辛うじて手の届く格子の中へ銭を投げ込むと、ちゃりんという音がして賽銭箱に銭の落ちる音が聞えた」(『谷崎潤一郎随筆集』「ふるさと」岩波文庫)。

 と谷崎が述べているから、蛎殻町に移っても、現在のようにつねに参拝できるわけではなかった。

 さて、なぜ水天宮が安産の神様になったのか。社伝によると、むかし、鈴を鳴らす(ひも)(鈴乃緒)を取り替えるとき、それを腹帯にいただいた妊婦がいて、とても楽なお産ができたといった。それ以来、鈴乃緒を求める女性が多く、(いぬ)の日に宮でも頒布(はんぷ)するようになったことが、いわれとしている(私事ながら、筆者の娘も水天宮に詣でたお陰かどうか、とても安産で男の子を授かった)。

 水天宮の祭神は、まず、天地開闢(かいびやく)のさい、高天原(たかまがはら)に最初にあらわれた天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)と前出した安徳天皇、二位尼、建礼門院の四神である。

 なお、日本橋七福神で、水天宮は弁財天を祀り、芸能と学業、貨殖(かしよく)にご利益があるとされる。境内にその「宝生辨財天(ほうしようべんざいてん)」が社務所側に建っている。九代藩主有馬頼徳が加賀藩の前田斎広(なりなが)と宝生流能楽の技を競うことになり、この弁財天に願をかけて勝利したという話も伝わる。

[茶ノ木神社]ちゃのきじんじゃ
中央区日本橋人形町1―1210


 水天宮から新大橋通りをわたり、少し西へいった路地の奥、高層ビルの公開空地のような場所に、小さな茶ノ木神社の祠がある。


 この神社も倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を祭神とする稲荷社で、社伝によれば、この地に江戸時代、下総佐倉藩主堀田氏の中屋敷があり、当社はその屋敷の守護神であったという。

 その社のまわりは茶(うね)に囲まれていたことから、お茶ノ木様とよばれ、年一回初午祭の日にかぎって町民たちの参拝を許した。

 また、堀田氏の中屋敷もその近隣もたびたび火災から免れたことから、お茶ノ木様は火伏せの神として信仰されたらしい。昭和六十年に、布袋尊を合祀して、日本橋七福神の仲間入りをした。

[松島神社]まつしまじんじゃ
中央区日本橋人形町2―15―2 03(3669)0479


 ふたたび新大橋通りにでて、水天宮前の交差点をすぎ、二本目の道を左に入ると、郵便局の隣に、日本橋七福神の大国神をまつる松島神社(大鳥神社)がある。


 むかしこのあたりが入江であったころ、松の茂る小島があり、その島の祠に毎夜ともされる灯を目印に船の運行がなされたといい、その祠が松島神社の起源とされる。

 その後、江戸下町の造成により、神社周辺は繁華な場所となり、芸妓や役者、職人らが住み、それぞれの人の故郷の神を合祀したため、いまも当社は十数神の祭神をまつるにぎやかな神社となっている。

 ビルの一、二階が社殿で、入口に朱色の鳥居が建ち、いかにも都心の神社というけしきである。


 松島神社の東にトルナーレという高層マンションがあり、その南東の角に浜町神社(はまちようじんじや)が鎮座する。この社も倉稲魂神を祀る稲荷社である。狭い境内に、摂社として陶栄神社の小さな社殿がたつが、この祠は常滑秘色焼という陶器製で、ごくめずらしいものだ。

[清正公寺]せいしょうこうじ
中央区日本橋浜町2―59―2  03(3666)7477


 清洲橋通りにでて、北へ二〇〇も歩かないうちに、明治座の入る高層ビルが見えてくる。その高層ビルの角をほぼ東西に通る道は明治座通りといい、東にいくと浜町公園、西へ歩くと甘酒横町となる。

 浜町公園へ通じる道のかたわらに、人の背丈ほどの小堂がひっそりと建っている。これは昭和二十年三月十日の東京大空襲で亡くなった人びとを弔うために建立された明治観音堂である。──明治座に避難した数百人が焼死したといわれる。

 浜町公園は関東大震災後の昭和四年に造られた広大な緑地で、総合スポーツセンターが中央に建つ。そのスポーツセンターの南に、日蓮宗の清正公寺がすこし小高い場所にある。


 このあたりはかつて肥後熊本藩細川氏の下屋敷があったところで、文久元年(一八六一)に当時の藩主細川斉護(なりもり)が、関ヶ原の戦いのあと肥後五十一万石の大大名となった加藤清正を祀るため創建した寺である。

 港区白金台にも同じように「清正公さま」とよばれ、加藤清正を祀る堂をもつ覚林寺(かくりんじ)が桜田通り沿いに建っている。

 清正公寺は町民たちにも参拝を許し、近隣の人たちにはよく知られていた。明治十一年(一八七八)に生まれた鏑木清方(かぶらききよかた)も同十九年に生まれた谷崎潤一郎も、ここ清正公寺は住まいや遊び場の近くで、鏑木清方は、
「私の住居の横は、河岸から清正公様への抜道になっていたから、長岡邸の(しい)の古木が深々と茂って、昼でも小暗(おぐら)い道ではあったが、割に人通りは絶えなかった」(鏑木清方『明治の東京』「浜町にいたころ」岩波文庫)と述べ、谷崎潤一郎は『幼少時代』(岩波文庫)で、
「天気のよい日には、ばあやは私を背中に負ぶって方々の縁日へ連れて行ってくれた。浜町の家から一番近いところにある清正公(せいしようこう)、人形町の水天宮、大観音(おおかんのん)、……」

 と記している。

 筆者が訪れた二月の晴れた午前中にも、なにかのついでに、といった風でお参りにくる人が前後にいて、かれらが祈る前に鳴らす本堂前に吊り下げられている銅鉦(どうしよう)の響きは澄んだとてもいい音色だった。

[大観音寺]おおがんのんじ
中央区日本橋人形町1―18―9 03(3667)7989


 浜町公園から清洲橋通りをわたり、下町情緒にひたろうとする賑やかな人出の甘酒横丁を通って人形町通りにでる。

 筆者が訪れたのが日曜日ということもあって、大勢の人たちが歩道を往きかう。江戸・明治の風情が残る商店街の魅力にさそわれて足をのばしにきているのだろう。

 大観音寺は人形町通りの西側、狭い石段をのぼった階上に寺域がある。当寺は本尊の「鉄造(ぼさつ)(とう)」がよく知られている。中央区教育委員会の解説によると、これは高さ一七〇、面幅五四、頭上には五三(もとどり)がある観音像の頭部で、もとは鎌倉の新清水寺に安置されていたものが火災で崩れて、頭部だけが鶴岡(つるがおか)八幡宮の井戸から掘り出されたという。

 しかし明治初年の廃仏毀釈により、せっかく火災当時の寺僧が井戸に難をさけた頭部も破却されることになった。それを知った石田可村、山本卯助の両人(人形町の住人)が船で深川御船蔵前の河岸にはこび陸揚げした。

 それが明治六年のことで、同九年に人形町通り蛎殻町二丁目に仮堂を設けて安置、さらに同十三年には、間口五間五尺五寸、奥行六間、四層楼の大悲閣を建立して菩頭をおさめたのである。

 その後、関東大震災、戦災でたびたび堂宇は焼失するが、本尊は無事にのこって現在も毎月十七日に開扉されている。また、「願いの地蔵尊」や市民ランナーたちがお参りする「護法韋駄天(いだてん)尊」なども祀られる。なお、大観音寺は浅草寺とおなじ聖観音宗である。


 さきほども『幼少時代』から引用したように、谷崎潤一郎は江戸のおもかげを色濃くのこすこの日本橋界隈で生まれ育った。その生家跡の碑が、甘酒横丁と人形町通りの交差点を東に入ったところにある。

 住所は日本橋人形町一―七―一〇、半地下が駐車場になったビルの壁面に「谷崎潤一郎生誕の地」のプレートがかかげられている。


 当時ここは潤一郎の祖父が経営する谷崎活版所があり、その奥座敷で潤一郎は明治十九年(一八八六)七月二十四日に生まれた。のちに同じ下町の浜町や南茅場町に移るが『幼少時代』にはこの付近のことが細微に描かれている。

[椙森神社]すぎのもりじんじゃ
中央区日本橋堀留町1―10―2 03(3661)5462


 椙森神社は『江戸名所図会』に、杉森稲荷の社として挿画とあわせて案内されている古社である。平将門を討伐した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が、のちに霊夢をみて、杉の高く繁る森に社を草創したという。また、江戸城にいた太田道灌は東国の旱魃(かんばつ)に悩み、当社に祈ったところ降雨がつづき「百穀大いに」(みの)ったともいう。

 祭神は稲荷の三神(倉稲魂命(うかのみたまのみこと)猿田彦命(さるたひこのみこと)大宮女命(おおみやのめのみこと))と、蛭子(ひるこ)神と姫大神を合祀、五社稲荷大神としている。

 江戸時代は三森の一社(ほかに柳森・烏森(からすもり))と称されて、庶民の広く信仰するところとなった。また、しばしばおこる火災からの復興のため、いくつかの寺社で富くじの興行がおこなわれたが、当社の富もたいへんに人気があった。その富塚が境内の手水舎(てみずや)の横にある(昭和二十八年再建)。

 椙森神社の社殿は関東大震災で全焼し、いまは、私たちが古い神社にいだく渋い色のイメージとはちがって白く塗られた鉄筋造りの建築である。


 なお、日本橋七福神として恵比寿(えびす)神を祀っている。

[大安楽寺]だいあんらくじ
中央区日本橋小伝馬町3―5 03(3661)4624


 人形町通りにもどり、小伝馬町の交差点方向へ歩く。このあたりの通りのけしきはすっかりビジネス街に変わっている。同交差点をわたり、最初の角を左に入ると「十思(じつし)公園」がある。それほど広い公園ではないが、びっしりとビルが建ち並ぶなかにあって、ほっとする空間となる。

 この十思公園の南側に大安楽寺と身延別院(みのぶべついん)が隣り合って建っている。いずれも明治十五年(一八八二)に創建された「東京時代」の寺である。

 明治八年に市ヶ谷囚獄ができるまで、この一帯には約二六〇〇坪の「伝馬町牢屋敷」があった。江戸の牢屋敷は当初常盤橋あたりにあったが、慶長のころ伝馬町に移され、二百七十年のあいだ数十万人が投獄、一万人以上が刑死したといわれる。
『江戸学事典』(弘文堂)によれば、牢屋敷の周囲には高さ七尺八寸の塀、その内外に幅六尺、深さ七尺の堀がめぐらされ、多いときは九〇〇名、平均でも二〇〇から四〇〇名の囚人が収容されていたという。牢屋敷はいまでいう拘置所であって刑務所ではないとされるが、拷問や斬首もおこなわれ、安政の大獄(一八五八〜九)では吉田松陰や梅田雲浜(うんぴん)(らい)三樹三郎、橋本左内ら勤王志士九六名が処刑された(『中央区の歴史』名著出版)。
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留め置かまし大和魂」

 松陰の辞世を刻んだ碑が十思公園にある。また園内には、寛永三年(一六二六)江戸市中で最初に時を知らせた「石町(こくちよう)時の鐘」が移設されている(昭和五年)。

 なお、十思という名は、小学校が開校されるさい、当時の住所が第十四小区で、十四は「十思之疏」(天子がわきまえる十ヶ条)の十思に音が近いことによった。公園隣の旧十思小学校はいま十思スクエアという福祉施設になっている。

 大安楽寺の創建については矢田挿雲の『江戸から東京へ』第一巻(中央公論社)に詳しく、それによると、高野山から麻布の不動院の住職になった山科俊海和尚は、牢屋敷の跡地が草茫々(ぼうぼう)と荒れている様子をみて、
「何千百人か知れぬ無告の霊が鬼哭啾々(きこくしゆうしゆう)として、寄辺なきを弔わん」

 と江戸市内で勧進をはじめ、七年間で五千余円をあつめたという。牢屋敷跡は気味悪がって買い手がつかず、「地価坪百円ぐらいであったが、坪三円五十銭で買えた」らしい。

 寺を建立するさい、寄進の筆頭であった実業家大倉喜八郎、安田善次郎両名の姓をとって「大安楽寺」と命名した。本堂の横に刑死者の霊を鎮める延命地蔵がたっている。

[身延別院]みのぶべついん
中央区日本橋小伝馬町3―2 03(3661)3996


 当院には山梨県の身延山久遠寺(くおんじ)(日蓮宗の総本山)から本尊として迎えた木造日蓮聖人坐像が安置されている。檜材の寄木造、像高七〇、袖張七六、胎内に明応六年(一四九七)の墨書銘があるというから、時代的には北条早雲が小田原城に入ったころの作だろう。

 ただ散策の途中に訪れる私たちには、表門の横の小祠に鎮座している「油かけ大黒天神」に興味をおぼえる。

 身の丈およそ二〇だろうか、まっ黒でテカテカとしたかわいらしい石像で、足元に貯められている油をそなえつけの小さな柄杓(ひしやく)でかけてお祈りする。油がかけられると、この像は細部がいっそうはっきりとみえ、大黒天もうれしがっているようにおもえる。


 この大黒天神は昭和の名優長谷川一夫(一九〇八〜八四)の夫人が施主となって造立されたものである。長谷川一夫が生まれた京都伏見には、油掛町という町名があり、西岸寺に油掛(懸)地蔵が祀られている。

 夫人はこの地蔵にまつわる話に興味をおぼえた。ある油商人がこの寺の門前でつまずき担いでいた油桶をひっくり返してしまう。あわてて桶をおこしたものの、底わずかに油がのこるだけだった。たいへんな損をしたと立ちつくす商人は、これも命運とかんがえて、寺の地蔵に残りの油をそそいで功徳として帰った。そのため、のちにこの油商人はおおいに栄えて大長者となったという話だ。

 この話を知ってから、たびたび地蔵の夢をみるようになった夫人は、ここ身延別院の住職に相談して、東京の人にも地蔵との結縁(けちえん)をと望んだのである。


 小網神社、水天宮から浜町、人形町通りをめぐって、おもだった寺社は拝見したことになる。大安楽寺のすぐそばが地下鉄日比谷線の小伝馬町駅だから、ここで散策の足を終えてもいい。

 ただ、脚にまだ余力のある人のために二三の寺社を引きつづき紹介しておこう。

 身延別院から江戸通りをわたって日本橋本町三丁目に入ると、宝田恵比寿神社がある。この小さな(やしろ)も駐車場に挟まれて居心地がわるそうだ。

 いまの皇居外苑あたりにあった宝田村の鎮守神。三伝馬取締役となった馬込勘解由(まごめかげゆ)が家康より拝領した恵比寿神像を安置して創建した。一月二十日、十月二十日に商売繁盛を祈る恵比寿講が催され、その前日に開かれる「べったら市」(いまは十月のみ)が知られる。日本橋七福神では恵比寿神となる。

 宝田恵比寿神社から昭和通りにむかうとビルの一角に「於竹如来」の供養碑がある。この於竹さんという女性は貧しい人に自分の食事を与えて、みずからは流しにたまった米粒で飢えをしのいだという下女で、そのことを聞いた桂昌院が、この娘こそ大日如来の生まれかわりと信じたため、死後、江戸中の信仰をあつめた(「山の手・西郊編」心光院参照)。

[薬研堀不動院]やげんぼりふどういん
中央区東日本橋2―6―8 03(3866)6220


 小伝馬町あたりからは少し離れているが、両国橋の南、東日本橋二丁目に薬研堀不動院が建っている。

 筆者は、車の往来がはげしい幹線の江戸通りを避け、大伝馬本町通りと横山町大通りを歩いて、衣料問屋街のようすをみながら靖国通りにでた。この靖国通りの北側の歩道を両国橋へ歩くと「両国広小路記念の碑」がたっている。両国橋は明暦(めいれき)の大火(一六五七年)のあと寛文元年(一六六一)に完成し、火除地(ひよけち)として広小路が設けられた。

 この記念碑のすぐ北に、神田川に架かる「柳橋」がある。隅田川も目の前で、川には大型の屋形舟がもやってある。柳橋は江戸から明治ころまで、殷賑(いんしん)を極めた花街、料亭街で、時代小説の舞台として欠かせない一帯である。いまは団体用の屋形船が川面に浮かんでいるのが目立つ程度になった。


 両国橋西の信号から斜め南西へ入る柳橋通りの街灯には薬研堀不動院参道の名がみえる。なお当院は川崎大師の東京別院である。

 寺伝によれば、紀州根来寺(ねごろじ)大印(だいいん)僧都は豊臣秀吉による焼討のさい、不動明王像を背負い、遠路隅田川までくだり、当地にその像を安置する堂宇を建てたのをはじまりとする(一五八五年ころ)。

 この不動明王像は、真言宗新義派の開祖で高野山に根来寺(のちに紀州に移る)を創建した覚鑁(かくばん)(興教大師、一〇九五〜一一四三)が四十三歳の厄年を無事にすごすことができたお礼に刻んだ像といわれている。


 ここ薬研堀不動院も本堂は階上にあり、道路から階段をのぼって参拝する。また当院は江戸庶民の正月用品をあきなう歳の市の立つ寺として知られていた。十二月十四、十五日の深川八幡にはじまり、浅草観音、神田明神、愛宕(あたご)神社、平河と湯島の天満宮の順でまわり、最後は二十八日にこの地で催された。現在は周辺の問屋街から衣料品などが安価で提供される歳末の市と内容をかえている。


 清洲橋通りに戻り、久松町の交差点を西へゆくと、日本橋七福神の寿老神を祀る笠間稲荷神社がある。さらに浜町川を暗渠(あんきよ)にした緑地公園を西に歩くと、七福神の毘沙門天を祀る末広神社が建っている。

 笠間稲荷神社は、伏見、豊川とともに日本三大稲荷といわれる茨城県笠間市の同社の東京別社であり、末広神社はかつて葺屋町(ふきやちよう)一帯にあった遊廓吉原(葭原)の地主神であった。

 もうひとつ紹介したいのは三光稲荷神社で、日本橋堀留町二丁目の三光新道(さんこうじんみち)(人形町通りから入る)にある。旧長谷川町の三光新道は落語にしばしば登場し、とくに「百川(ももかわ)」ではここに住む芸人と医師を山出しの奉公人がまちがえる場面があって大騒ぎになる。

 そして、三光稲荷神社は迷い猫を探すときに霊験があるとされている。

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