読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-1
kiji
0
1
1102783
0
山本勘助101の謎
2
0
0
0
0
0
0
歴史
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
Q21 勘助はなぜ三河牛久保を出奔したのか

『山本勘助101の謎』
[著]川口素生 [発行]PHP研究所


読了目安時間:3分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ



 出生地には諸説がありますが、勘助が三河牛久保(みかわうしくぼ)城下で十代の大半を過ごしたという点では諸説とも一致しています。牛久保は現在の愛知県豊川市牛久保町で、養父の大林勘左衛門(かんざえもん)は牛久保城主・牧野右馬允(うまのじよう)の家老でした。家老の養子であるわけですから、将来は約束されていたはずです。にもかかわらず、勘助は出奔(しゆつぽん)して諸国を放浪。さらに、今川義元(よしもと)や武田信玄の家臣となることを望みました。では、出奔の理由は何だったのでしょうか。

 これについては、少なくとも次の三つがとり沙汰されています。まず、理由の第一とされているのは、兵法を究めたいという思いが(こう)じて出奔したとするものです。将来が約束されていようとも兵法好きの念を抑え切れなかった──というのは一応は納得出来ます。

 次に、理由の第二とされているのは、養父に実子が出生したために養家を出たとするものです。愛知県新城(しんしろ)市黒田の山本家の由緒書、系図では、勘助が武者修行の途中で養家に立ち寄ったところ、養父に実子が生まれていたので再び武者修行に出たとされています。養父に実子が生まれたために養家を去り、武者修行に出たという見方もあります。

 そして、理由の第三といわれているのは、誹謗中傷(ひぼうちゆうしよう)に耐え切れず、やむなく牛久保を去ったとするものです。これは松浦鎮信(まつらしげのぶ)『武功雑記』に記されていますが、勘助の剣術の評価とも密接に関わるものです。それによると、剣豪の上泉秀綱(かみいずみひでつな)が弟子の虎伯(こはく)を伴って牛久保を訪問した際のこととされています。

 城主・右馬允が、秀綱と京流(きようりゆう)の遣い手である勘助との立ち合いを所望しました。しかし、秀綱はこれを固辞し、勘助と虎伯とが立ち合いました。立ち合いは一本目は虎伯が勝ちを収めましたが、二本目は勘助が虎伯の太刀を奪いました。剣の腕前からすると、勘助の方が相当上のようです。ところが、これをみていた人々は、勘助が一本目の立ち合いで敗れたことだけを意図的に吹聴したといわれます。面目を失った恰好の勘助は牛久保に居づらくなり、牛久保を出奔したというのです。

 ただ、勘助が第四次川中島の戦いで討死したのが永禄(えいろく)四年(一五六一)で、秀綱が兵法修行の旅に出たのが永禄七年です。従って、勘助と虎伯との立ち合いが実話ではないことがわかります。『武功雑記』のこの記述を鵜呑みにしない方が賢明でしょう。

 勘助が兵法修行の旅に出たのは、二十歳の時とされています。勘助に限らず、誰でも二十歳前後の頃には進路について悩み、自らの思いを抑え切れないものです。そんな矢先に養父に実子が誕生したことから、跡取りの座を義弟に譲るべく兵法修行の旅に出たのではないでしょうか。確証はないのですが、これが真実に近いのではないかと思われます。


この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:0文字/本文:1207文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次