『絶対に足を踏み入れてはならない 日本の禁断の土地』
[編]歴史ミステリー研究会
[発行]彩図社
荒れはてた廃墟が立ち並ぶ島
長崎県は、さまざまな見どころがあるところだ。異国情緒を感じさせる旧グラバー邸や大浦天主堂、訪れるたびに平和について考えさせられる平和公園など、古くから外国文化の影響を受けてきた土地らしく、街のそこかしこに異国の雰囲気が漂っている。
しかも、三方を海に囲まれているために多くの島々もある。
そのひとつが、長崎港から約19キロ、県南部の長崎市の沖合に浮かんでいる端島だ。周囲1・2キロ、面積は6万3000平方メートルという小さな人工島である。
ただし、この正式名称よりも、「軍艦島」といったほうがピンとくる人が多いのではないだろうか。
周囲には高さ10メートルの岸壁をめぐらし、その上に大きな建物が建ち並ぶさまはさながら要塞のようだ。その姿が戦艦「土佐」に似ていることから、軍艦島という呼び名がついたのである。
軍艦島は、“黒ダイヤ”と呼ばれた石炭を採掘する海上の炭坑都市だった。最盛期には5000人以上の人々がこの島で暮らし、当時、世界でいちばん人口密度が高かったといわれている。
これほどの繁栄を誇っていた軍艦島だが、今では不気味なほど静まり返っている。
1974年の閉山以降、島は無人島になってしまったのだ。
住む人もいないままに放置された建物だけが、なかば朽ちかけながらゴーストタウンのように海上にたたずんでいるのである。
当時の最先端技術でつくられた建物群
軍艦島が本格的に開発されたのは明治時代のことだ。海底炭坑から豊富な石炭を産出し、明治・大正・昭和の3つの時代を通じて日本の近代化を支えてきたのである。
ここには炭坑労働者だけでなく、その家族たちも住んでいたため島全体がひとつの街を形成していた。住居、商店、銭湯、床屋や美容院、酒場、遊技場などが完備され、子供たちが通う学校まで造られていた。
たとえば、島の南西部にある30号棟アパートは、地下1階、地上7階という立派な建物である。これは1916年に建てられたものだが、日本初の鉄筋コンクリート造りの高層アパートだった。
さすがに内部は荒れ果てているものの、長年風雨にさらされながらも建物自体はまだ健在だ。
このほかにも、7階建てや9階建てといった高層アパートが多い。限られた土地の中により多くの人が暮らすためには建物を高層化するしかなかったのだろう。
また、日本最初の空中庭園や海底水道などもある。軍艦島は当時の最先端技術を結集して造られた島だったのだ。
炭鉱労働者たちの給料は高く、サラリーマンの倍も稼ぐことも可能だった。食卓にはまだ庶民には縁遠かったビフテキが上ることもしばしばだったという。
しかし、そのかわりに労働はきつい。蒸し暑い炭坑の中での肉体労働に加え、落盤、出水、爆発といった危険と常に隣り合わせでの作業になるからだ。
ところで、無人島になってから35年、軍艦島はその眠りから覚めることになった。2009年4月から、この島への上陸が可能になったのである。
見学コースとして整備されているのはおよそ230メートルだけだが、主だった建物は見渡すことができる。
長い間うち捨てられ、すっかり廃虚と化してしまった軍艦島。再び人間の息づかいを感じて、島は今、何を思っているのだろうか。