『絶対に足を踏み入れてはならない 日本の禁断の土地』
[編]歴史ミステリー研究会
[発行]彩図社
日本最大のダムを作るための大工事
日本は古くから山岳信仰が盛んな国だが、富山県にある立山もまた地域住民にとっては聖地たる場所である。
その霊峰の東側に巨大なダムがお目見えしたのは1963年のことだ。
お椀を縦に割ったような形をしたアーチ式ドーム越流型の水力発電ダムで、高さ186メートルの壁面は昔も今も日本最大である。
ダム建設の背景にあったのは戦後の深刻な電力不足だ。
とくに関西地方は渇水や石炭不足から電力制限を余儀なくされ、もっともひどい時には1週間のうち3日も停電するという非常事態を招いていた。
そこで関西電力が白羽の矢を立てたのが、豊富な水量が確保できる富山県の黒部峡谷だ。
しかし、北アルプスの厳しい自然を切り裂いて、ダムを建設するのは容易なことではない。
工事は昭和31年に始まったが、その先には予想だにしないアクシデントと大きな代償が待っていたのである。
事故によって死んだ171人
「黒部ダム」と名づけられたそのダムの建設予定地は北アルプスの山奥で、富山県の立山あるいは長野県の大町のいずれかからしかたどり着けない困難な場所にあった。
そこで、急務となったのが大町から建設予定地まで輸送路となるトンネルを掘ることである。
工事は急ピッチで進められたが、トンネルの入り口から2・6キロメートル地点で長さ80メートルの破砕帯にぶつかるアクシデントが発生する。
破砕帯とは砕かれた岩石が帯状になっている強度の低い断層で、トンネル工事では最も危険視すべき地質構造なのだ。このときは水温4度の冷たい地下水が、毎秒660ミリリットルという猛烈な勢いとともに噴出し、たちまち坑内を水浸しにするという非常事態に陥った。
結局、ふつうなら8日間で掘り終える長さを7ヵ月かけて攻略し、トンネルは開通した。
一方、富山方面からも危険な山岳路をつたって徒歩やトロッコなどで資機材を運搬した人たちがいた。この運搬夫は最盛期で400人もいたという。
着工から7年後、悲願のダムは完成したが、トンネル工事の従事者や運搬夫など171人の死者を出してしまった。
現在、ダム堰堤東側の一角には殉職者の慰霊碑が建っており、そこには犠牲者全員の名前が刻まれている。