白熱電球が直面した新しい問題
「電球を発明した人は誰?」と聞くと、多くの人はトーマス・エジソンと答えるだろう。
電球が実用化されたのは、1879年。アメリカのエジソンと、イギリスのジョゼフ・スワンがほぼ同時に成功したとされる。
しかし、エジソンらが実用化に成功した電球は、現在普及している電球とはちょっと違う。当時の電球はガラスが透明だったのだ。
現在使用されている電球は、ガラスが白く曇っているものがほとんどである。
この白い電球は、実は大日本帝国時代の日本で発明されたものなのである。
エジソンらの実用化以来、電球の開発は大きなテーマになっており、世界中の技術者たちが研究に取り組んでいた。その成果もあり、電球は年々進歩し、より明るく、丈夫になった。
しかし、その進歩が「まぶしさ」という弊害を生む。電球の性能が上がり、明るくなり過ぎたため、まぶしくてそのままでは使えなくなってしまったのである。
それから世界の研究者は、明るさを保ちつつ、まぶしさを解消する方法を探し始めた。様々な方法が考案される中、いち早く発明に成功したのが、日本だったのである。
電球開発をリードする日本企業「東京電気」
日本でその研究をリードしていたのは、東京電気という会社だった。
東京電気の創業は明治23(1890)年。工学士の藤岡市助と元工部省の技師・三吉正一が共同で設立した会社で、創業時は白熱舎という名称だった。
東京電気はその名の通り、国産電球の製造を主な事業としており、エジソンによる電球実用化の翌年には、早くも国産電球第一号を製造。その後も白熱電球の普及のために研究を続け、大正10(1921)年には、同社の技師・三浦順一がタングステンのコイルを二重にする「二重コイル電球」を発明。白熱電球の進歩に大きく貢献していた。
ひとりの技術者が世界的な発明に成功
そんな東京電気で電球のまぶしさを解消する研究を担当したのは、不破橘三という技術者だっだ。
不破は当初、ガラスの外側につや消し加工を施すことでまぶしさを軽減させようとした。
この方法では、たしかにまぶしさを弱めることはできた。しかし、照度(明るさ)が極端に落ちてしまい、電球も汚れやすく、掃除がしにくかった。
そこで、不破はガラスの内側を処理することを思いつく。しかし、ガラスの内側のつや消し加工は技術的にたいへん難しく、電球が壊れやすくなるという欠点があった。
不破は失敗を繰り返しながらも、粘り強く研究を続けた。そして大正14(1925)年、ついにガラスの強度問題を克服した、内面つや消し加工に成功する。
昭和2(1927)年、不破は「内面つや消し自動機械」を開発。この新技術により、東京電気は内面つや消し電球の量産化ができるようになり、不破の電球は「新マツダ瓦斯入電球」の名前で発売された。
その後、不破の内面つや消し電球はアメリカに渡り、実用化された。この電球が世界のスタンダードになったのである。
現在のホワイトランプと呼ばれる白熱電球は、この「新マツダ瓦斯入り電球」と同じ形態、色のものである。ただし現在の白熱電球ではつや消しではなく、電球をコーティングすることによって白色にしている。
不破橘三の発明した「つや消し電球」は、三浦順一が発明した「二重コイル電球」とともに、「電球における5大発明」のひとつに数えられている。
ちなみに東京電気は、昭和14(1939)年に重電メーカーの芝浦電機と合併し、東京芝浦電気となった。後に日本を代表する大手電機メーカー「東芝」の誕生である。