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大日本帝国の発明
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歴史
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オギノ式避妊法の発明

『大日本帝国の発明』
[著]武田知弘 [発行]彩図社


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 不妊治療の学説が避妊法として広まる



 オギノ式避妊法というと、保健体育の授業などで、多くの人が耳にしたことがあるのではないだろうか?


 女性はいつごろ受胎して、妊娠するのか。


 実は女性の受胎については、90年ほど前まで大きな謎だった。


 その謎を世界で初めて解明し、

「次の月経の時期によって、妊娠する時期を逆算することができる」


 としたのが、大日本帝国時代の日本人、荻野久作博士である。


 荻野久作は、明治15(1882)年、愛知県下川村(現・愛知県豊橋市)に農家の二男として生まれる。


 幼い頃から勉強がよくできたため、19歳のときに漢学者の養子となり、東京帝国大学医学部に進学する。卒業後は貧しい実家を支えるために、新潟の病院に就職した。


 そこで見た農村の現状に、荻野はショックを受ける。


 当時の農村では、労働力を得るために、女性はとにかくたくさん子どもを産むことが求められていた。そのため、子どもができない女性はそれだけが理由で離婚されたり、思い悩んで自殺してしまうケースもあった。


 荻野はそうした女性を救うために、月経と排卵日、受胎期の関係の解明に取り組むようになった。


 その頃の医学会では、ドイツの医師が提唱した「排卵は28日月経周期の女性では、月経後の14日から16日の3日間に起こる」というものが定説になっていた。しかし、この定説には例外も多く、はっきりとしたことはわかっていない状況だった。


 荻野は患者への問診を通じてデータを集めると、丁寧に検証を行っていった。


 研究開始から3年後の大正13(1924)年、荻野は「次回予定月経の12日から16日前の5日間が排卵期、12日から19日前の8日間が受胎期」だとする「荻野学説」を発表する。


 荻野学説はそれまでの医学界の常識にとらわれない、大胆な発想でできたものだった。


 当時の医学界では、「月経が終わってから、いつ排卵日や受胎期が訪れるか」ということに主眼が置かれていた。しかし、月経の周期は常に一定ではなく、排卵日を正確に知ることはできなかった。


 荻野は診察に訪れた女性が「次の月のもの(月経)の2週間前になると痛む」と排卵痛を訴えたことをヒントに、排卵日が「月経日の後」ではなく、「月経日の前」に起きるものであることに気がついたのである。



 ローマ法王も認めたオギノ式避妊法



 女性が妊娠しやすい時期を初めて特定した画期的な学説だったが、荻野の発表は日本の学界の注目を集めることはなかった。一介の町医者である荻野にそうした発見ができるはずがないと思われたのである。


 昭和4(1929)年、荻野はドイツに渡った。医学先進国のドイツならば、自分の研究価値が理解され、不妊や多産に悩む世界の女性を救うことができると思ったからだ。


 荻野は論文をドイツ語で書き直すと、現地の大学や研究室を飛び込みで訪れ、論文を読んでくれないかと頼んで回った。


 ドイツに渡って3ヶ月後、ようやくひとりの研究者が論文を読み、ドイツの医学誌に掲載してくれると約束してくれた。


 昭和5年、荻野の論文「排卵日と受胎日」がドイツの婦人科医学誌に掲載されると、意外なところで評判になる。オーストリアの研究者ヘルマン・クナウスが学説に賛同し、避妊法として発表。すると教義上の理由から堕胎を禁じられていたカトリックの間で流行したのである。


 昭和7年、ローマ法王のピオ11世は、論争の末、荻野式避妊法を容認すると発表。荻野学説は急速に世界に広まっていった。


 荻野は、世界的に有名になった後も新潟で一介の医者として働いた。自身の学説が避妊に用いられることについては「不妊症の治療に役立つもので、不本意だ」と常々語っていたという。



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