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大日本帝国の発明
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歴史
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初の近代的な農地解放を実行

『大日本帝国の発明』
[著]武田知弘 [発行]彩図社


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 明治維新とは大規模な土地改革だった



 大日本帝国は、画期的な制度改革をいくつも行っている。そのなかでも特筆すべきは明治6(1873)年の「地租改正」だろう。

「地租改正」は、小中学校の教科書では「米で納めていた年貢を、お金で納めるようになった」程度の説明で終わっていることが多い。そして、「農民の実質的な負担はあまり変わらなかった」として、戦後の日本ではあまり評価されてこなかった。


 しかし、実は地租改正というのは、当時の社会を根底から変えてしまうような大規模な改革だったのである。


 地租改正というのは、簡単に言えば、農地解放である。しかも歴史的に例がないほど大規模なものだった。




 江戸時代の日本では、土地の所有者は藩主や藩士だった。藩主が領地を藩士に分け与え、農民はその土地を耕すだけの存在だった。


 それを変えたのが、先ほどの項目で触れた「版籍奉還」である。


 版籍奉還では、各藩は自分たちがそれまで持っていた領地を無償で国(天皇)に返すことになった。


 それでは、そうして返還された領地を新政府はどうしたのか。


 事実上、農民に与えたのである。


 新政府は幕府や藩から取り上げた領地を、すべて国土として編入し、近代的な意味での農地の所有権は農民が持つことになったのだ。


 これは、西洋の歴史観で言えば「農地解放」そのものである。


 それも日本全国の土地を、その土地で耕作していた農民たちに分け与えたのだ。いまだかつてないほど大規模な農地解放だった。


 農地解放というと、戦後のGHQによる「農地改革」をイメージする人が多いだろう。


 しかし、戦後の農地解放は、実はそれほど大規模なものではない。


 GHQの農地改革は、窮乏していた小作農(他人の土地で農業をする者)を救うために、国が地主から小作地を安値で買い上げ、それを小作農に安値で売るというものだった。


 当時、日本の農地に占める小作地の割合は、46だった。GHQの農地改革では、そのうちの80が買い上げられ、小作人に売られたとされている。戦前の地租改正に比べると、その規模ははるかに小さい。


 戦後教育の中では、ことさらGHQの農地改革が素晴らしいことのように教えられてきた。


 だが、それはGHQの手前味噌的な話であり、実際は明治新政府の方がもっとダイナミックで民主的な改革をしていたのだ。



 税負担の公平性を生んだ地租改正



 明治新政府の農地解放は、農民の勤労意欲を増進させ、農業生産を飛躍的に向上させた。


 歴史家の中には、地租改正によって農民の負担はむしろ大きくなった、と言う者もいる。しかし、それは不平農民の蜂起などごく一部の出来事しか見ていない意見である。




 地租改正では、これまで物で納めていた年貢をやめ、金銭による納税に変更した。


 しかし、これは何も農民の負担を増やすために行われたわけではない。むしろ逆に農民のインセンティブを増やすものだった。


 地租改正というのは、農民に農地の所有権を与え、土地の価格に応じて税を課すという制度である。


 この制度で定められた税率は、土地代の3だった。この土地代の3というのは収穫した米の平均売価の34程度に設定されていた。これは江戸時代と同等か、若干低い程度の負担率だった。


 江戸時代の年貢では、収穫高に応じて年貢率が定められたので、収穫が上がるとその分だけ年貢が増えた。つまり「がんばって生産を増やしても、年貢で取られるだけ」という状態にあったのだ。


 しかし地租改正は、収穫高に応じて税額が決められるのではなく、あらかじめ決まった額の税金を納めるだけで済んだ。だから、農民としてはがんばって収穫を増やせば、増えた分は自分の取り分になるということだった。そのため勤労意欲が湧き、生産量が増加したのだ。


 地租改正は、税の公平性、透明性を高めるものでもあった。


 江戸時代の年貢は、幕府の直轄領(天領)と各藩の年貢率が異なっていた。幕府は広大で肥沃な領土を持っており、幕府としての威光を示す意味から、天領の農民の負担は諸藩よりも軽く設定されていたのだ。


 地租改正ではこの不均衡な税負担を一掃し、全国共通の税率を導入して公平化を図った。


 その結果、大部分の農民は税の負担率が軽くなったが、もともと低目に設定されていた幕府直轄領の農民は負担が重くなってしまった。


 明治初期には税負担率の上昇に反発する農民がなんどか一揆を起こしており、そのことを理由に地租改正が「農民に高負担を押しつけた」として批判されることがある。しかし、農民一揆の多くは幕府直轄領で起きたものだった。


 また、地租改正は税徴収の透明性を高めるものでもあった。


 江戸時代は、毎年の取れ高に応じて年貢率が決められていたが、その年貢率の決定権は地域の役人が持っていた。当然、ワイロなどの不正行為が横行していた。この不透明な関係も地租改正で一掃されることになった。



 明治時代に米の収穫高が2倍になった



 地租改正の結果、日本の農業生産力は飛躍的に上昇した。


 次の表のように明治初期から中期にかけて、日本の農業は大躍進していることがわかる。




 明治6(1873)年と明治45(1912)年を比べると米の収穫量で2倍以上の増収となっている。そこから得られる税金は政府の大きな歳入源となった。地租改正は、優れた税制改革でもあったのである。


 フランスの大蔵大臣で、経済学者でもあったレオン・セーは、明治期に政治家の松方正義から「地租改正」の話を聞き、「租税改革として最善の策だ」として称えた。そしてフランスでも参考にしたいので、詳しい経緯を文書にして送って欲しいと要請したという。


 農業生産力の上昇は、国力の増強につながる。日本の近代化には、この地租改正も大きな役割を果たしたのだ。


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