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日本で本当に行われていた 恐るべき拷問と処刑の歴史
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歴史
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その1 日本ではいつ頃から拷問や処刑が存在した?

『日本で本当に行われていた 恐るべき拷問と処刑の歴史』
[編]歴史ミステリー研究会 [発行]彩図社


読了目安時間:4分
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 日本最古の歴史書「古事記」の「国生み・神生み神話」では、天から降り立ったイザナギノミコトとイザナミノミコトが、日本列島と周辺の島々、そして多くの神々を産み落としていく様子が書かれている。


 しかし、妻のイザナミが火の神であるカグツチを生んだとき、大火傷を負って地底にある黄泉の国へと召されてしまう。


 そんな妻の姿を追って黄泉の国へ足を踏み入れたイザナギだが、死者の国で変わり果てた姿のイザナミを目の当たりにし、地上に戻って目鼻を清めるための(みそぎ)を行う。


 そのときにも神々が誕生し、生まれたのがアマテラスオオミカミ(天照大神)、ツクヨミノミコト(月読命)、そしてスサノオノミコト(素戔嗚尊)だった。


 アマテラスの弟神であるスサノオは乱暴者で、姉の住む(たか)(まが)(はら)で数々の狼藉を働いたため、アマテラスは怒って洞窟に隠れ、入り口を岩で塞いでしまう。


 しかし、アマテラスは太陽神でもあるので、彼女が洞窟に隠れてしまったことで、世の中は闇に覆われてしまったのだった。


 これに対し、高天原の神々は洞窟の前で飲めや歌えの大騒ぎで、なんとかアマテラスの気をひこうと頑張った。


 そして、騒ぎを不思議に思ったアマテラスがそっと外の様子をうかがったとき、怪力で知られるアメノタヂカラオが岩を取り除き、アマテラスを洞窟の外に出したため、無事、世の中に光が戻ったのである。


 これがいわゆる「天岩戸(あまのいわと)の伝説」で、アマテラスが閉じこもる原因を作ったスサノオは、高天原を追放されることになった。


 このとき、スサノオは手足の爪を剥がされ、さらに髪の毛を引き抜かれるという、後の世でも存在した「爪剥ぎ」に近い処分を受けているのである。




 また、奈良時代初期に編纂された地誌「播磨国風土記」には、次のような記述がある。


 仁徳天皇の時代とされる5世紀前半のこと、伯耆国(ほうきのくに)(現在の鳥取県西部)の迦具漏比売(かぐろひめ)と、因幡国(現在の鳥取県東部)の邑由胡(おおゆこ)という男は、酒で手足を洗うという目に余る贅沢を行い、しかも身勝手な振る舞いが多かった。


 そこで朝廷は、狭井連佐夜(さいのむらじさよ)を遣わし、2人だけでなく一族もろとも捕縛。難波の宮に護送する途中、「水責め」にして苦しめたという。


 さらに、「日本書紀」の「舒明記」によれば、7世紀頃、天皇や皇后の身の回りの世話をする女官である采女(うねめ)に乱暴を働いた者がことごとく捕らえられ、その中で、三輪小鷦鷯(みわのおさざき)がきつい取り調べを受けたと記されている。


 そして、小鷦鷯は苦痛に耐えかね、自ら命を断ったという。


 もちろん、これらは全てが史実とは言えないが、小鷦鷯の話のように、容疑者を苦しめて罪を認めさせるという拷問に近い行為は、古代から存在したということだろう。


 実際、6世紀終わりから7世紀初め頃の日本の様子を記録した中国の歴史書「隋書」の「倭国伝」には、木で膝を打ったり、弓の弦で叩いたりして自白を促した、との記述がある。


 ちなみに、この「隋書」の「倭国伝」は、聖徳太子が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という国書を、隋の皇帝・煬帝(ようだい)に送ったと記録されていることでも有名だ。


 さて、容疑者に対する拷問が古くから存在したとなれば、当然、罪を犯した者に科せられる刑罰も神代から執行されている。


 例えば、イザナミはカグツチを産んだことでこの世を去るが、その際、イザナギはカグツチを剣で切って成敗している。


 また、神話でなく史実に近い記録によれば、邪馬台国について記した「魏志倭人伝」の中に、倭人(日本人)の社会では、罪の重い者を死刑にしていると書かれている。


 さらに、5世紀ころの様子を記した「古事記」の「顕宗記」には、天皇の食料を奪って逃げた老人の首を河原ではね、その一族も膝の筋を切って歩けないようにしたと書かれ、さらに、587年に蘇我氏と物部氏が武力衝突した際には、物部方の兵・捕鳥部萬(ととりべのよろず)が遺体を8つに刻まれ、8ヶ国に晒されたとされている。


 この他にも、4世紀中頃に神功皇后の部下・葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)が新羅からの使者を檻の中に閉じ込めて火をつけたり、また、5世紀ころには宮中の女官と石河楯(いしかわのたて)という人物が密通したため、2人とも両手足をくくりつけられて「火炙り」に処されたとされる。


 加えて、562年に都の大殿が炎上した際、犯人とされた馬飼首(うまかいのおびと)守石と馬飼首中瀬氷の兄弟が火の中に投げ入れられたとされる「火刑」が行われている。


 このように、「犯罪者の命を奪って償わせる」という刑罰はきわめて古くから存在し、それは現在の死刑制度に至るまで受け継がれているのである。



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