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大日本帝国の国家戦略 なぜ日本は短期間でアジア最強になったのか?
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歴史
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1 【欧米の侵攻を食い止める、壮大な国家戦略】大日本帝国は国家プロジェクトだった

『大日本帝国の国家戦略 なぜ日本は短期間でアジア最強になったのか?』
[著]武田知弘 [発行]彩図社


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 ●迫り来る列強の魔手


 戦前の日本、つまり「大日本帝国」は明確な命題を持って誕生した国であった。


 いや、国家そのものがひとつの壮大なプロジェクトだったといってもいい。


 では、そのプロジェクトの目的とは一体なんだったのか?


 それは「欧米の侵略から国土を守ること」である。


 大日本帝国が誕生した明治元(1868)年は、ヨーロッパの帝国主義が絶頂期にあった頃だった。ヨーロッパの列強は各地で激しい植民地獲得競争を繰り広げていた。その標的となったのがアジアやアフリカだった。列強は隙をついてアジアやアフリカ諸国に侵攻、次々と植民地を獲得し、領土を拡張していった。




 その最たるものが、1840年のアヘン戦争だった。


 アヘン戦争というのは、清への貿易赤字に苦しんでいたイギリスが、その赤字解消のためにアヘンを密輸、それを清が禁止すると武力で攻め込んだという横暴を極めた戦争だった。清はこの戦いに惨敗。アヘンの密輸を黙認させられ、領土を割譲させられるなど、苦汁をなめさせられることになった


 この清の敗北は、日本を大いに震撼させた。当時の清はアジアの盟主ともいえる存在だった。その清がイギリスの前に為す術なく敗れさったのだ。その衝撃は計り知れないものがあった。


 そしてアヘン戦争から13年後の嘉永6(1853)年、ペリー提督率いる4隻の軍艦、いわゆる“黒船”が横浜の浦賀沖に来航した。ペリーは「武力による威嚇」を行い、日本との交易を求めてきた。幕府はその威嚇に屈し、翌年、やむなくアメリカと和親条約を結んだ。


 その4年後の安政5(1858)年、幕府はアメリカと「日米修好通商条約」を結んだ。関税自主権が認められず、治外法権を認めさせられるという不平等な内容だった。ここにきて、アヘン戦争は対岸の火事では済まされなくなったのである。


 そんな中、日本では革命が起きる。「これ以上、幕府にまかせていれば日本が危ない」と立ち上がった諸藩や志士たちが幕府を倒し、明治維新を成し遂げたのだ。

「欧米の侵略から国土を守る」ということは、当時の日本にとって単なる被害妄想ではなかった。国の命運を左右する、差し迫った問題だった。この問題を解決するために立てられたのが、欧米の侵略から領土を守る“大日本帝国”というプロジェクトだったのである。


 大日本帝国の歴史には、批判もある。未曾有の世界大戦の当事国となり、アジアの国々を混乱に巻き込んだ。戦争で多数の国民を失い、国土を焼け野原にもした。


 しかし、プロジェクトとして見た場合、大日本帝国は最低限の成果を挙げたといえる。なぜならば、日本は結果的に欧米から国土を侵されることがなかったからである。


 なぜアジアの中で日本だけが領土を守りぬくことができたのか。



 ●富国強兵という指針


 慶應3年1014日(1867年11月9日)、江戸幕府の15代将軍徳川慶喜が政権を天皇に返上、約270年間続いた江戸時代は終焉を迎え、王政復古の号令を経て、日本は大日本帝国として新たな門出を迎えた。


 しかし、問題は山積みだった。

「欧米の侵攻から国土を守る」ためには、列強に対抗できるだけの強力な軍事国家にならなければならない。だが、軍備を整えるには巨額の資金が必要になる。当時の日本には経済力がなく、人材は不足し、資源も科学技術もなかった。


 だが、そうかといって国が成長するのを呑気に待ってもいられない。欧米列強は依然として領土的野心を燃やし、アジアの地を虎視眈々と狙っている。うかうかしていると、日本も飲み込まれることは必至だった。


 そこで明治の指導者たちは、プロジェクトを推進する上である指針を立てる。


 それが「富国強兵」である。


 富国強兵とは、読んで字のごとく「国を富ませて、強い兵(軍隊)を持つ」ということである。経済力や技術力がつけば、自然と強い軍隊を持てるようになる。強い軍隊があれば、経済力もまた高まる。経済力が高まれば、さらに強い軍を持つことができる……。国力の増大が軍事強国への近道だと考えたのだ。




 明治新政府は、富国強兵を実現するために「中央政府への権力の集中」「近代的な軍の創設」「有能な人材の登用」「教育の充実」「経済の発展」「科学技術の発展」などの手法をとった。


 これらの手法は、ある種、力が弱い国、貧しい国が発展する上でのセオリーのようなものである。実際、当時の他のアジアの国々も同様の手法で国を発展させようとしていたはずだ。


 しかし、その実現は簡単ではない。事実、アジアの地域で富国強兵を実現できたのは、日本だけだった。他のアジア諸国はいずれも失敗に終わっているのだ。


 日本と他のアジアの地域との差はいったいどこにあったのか。


 それはひとえに認識の差ではなかったかと思われる。


 日本は列強に比べ、自国が劣っていることを早くから自覚していた。それに加えて時間の猶予がないことも知っていた。限られた国土、限られた資源や人材、限られた資金でいかに効率よく、素早く強力な軍事国家を築き上げるか、その一点に国を挙げて注力していたことに成功の要因があったと考えられる。


 では、いかにして大日本帝国は富国強兵を実現することができたのか。


 明治の新政府の取り組みから見てみよう。



※ヨーロッパの帝国主義が絶頂期

帝国主義の主人公であるイギリスがもっとも発展したのは、ヴィクトリア女王の時代(1837年~1901年)だが、この期間は日本では幕末から日露戦争直前までにあたる。

※清への貿易赤字

貿易赤字の原因となったのはお茶。当時、イギリスでは紅茶を飲む習慣が広まっており、中国から莫大な茶を輸入していた。

※アヘン戦争での清の代償

清はイギリスに香港を割譲、広東、上海など5港を開港した。また、清政府は事実上、アヘンの密輸を容認しなければならなくなり、アヘン中毒者が激増した。

※国土を侵されることがなかった

第二次大戦での敗戦により、日本は韓国、台湾、南方諸島などの領土を失ったが、そのほとんどは明治維新後に獲得したものである。明治維新と、第二次大戦後の日本の領土を比べると、ほとんど変わっていないのである。

※富国強兵

明治日本の専売特許のように思われている「富国強兵」だが、日本での用例は意外と古く、江戸時代中期の儒学者、太宰春台(だざい・しゅんだい)はその著書『経済録』の中で、富国強兵という言葉を使い、国を富ませて強い兵を持つことの重要性を説いていた。


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