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本当は怖ろしい韓国の歴史
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歴史
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13 新王朝 李氏朝鮮の建国【歴代王朝の遺産を放棄】

『本当は怖ろしい韓国の歴史』
[著]豊田隆雄 [発行]彩図社


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 ●李成桂即位


 1392年7月、高麗最後の王・恭譲王から王位を譲られ(というより、奪取したのだが)李成桂が即位した。日本では実質的な最高権力(摂政や関白、征夷大将軍)に就いたらそれで終わりだが、朝鮮半島の国家には、まだ大事な手続きが残っている。


 明の皇帝に理解を得なければならないのだ。即位しても、朱元璋改め明の洪武帝が国家を承認してくれなければ“自称・皇帝”という恥ずかしい身分のままなのである。李成桂は即位後すぐに明に使者を送り、国王交代の承認を求めた。


 この時点では国家として認められていないので、「権知高麗国事(けんちこうらいこくじ)」という肩書であった。


 権知国事とは仮の国王という意味である。洪武帝は李成桂の王位を認めたものの、正式な冊封関係は結んでくれなかった。


 しかし、その年の冬、明は国号の改定問題を持ち出してきた。地位を確立したい李成桂にとっては願ってもない申し出であった。そこで「朝鮮」と「和寧」というふたつの案を洪武帝に提示し、1393年に朝鮮という国号が決定した。まるで大企業がコンペの末に案を決めるような光景である。


 ところが、国号が決定した後も李成桂の地位は権知国事のままだった。洪武帝は、もともとモンゴル帝国と一緒になって紅巾賊を苦しめて功績を積んだ李成桂を心から信頼できなかったのかもしれない。


 明が朝鮮国王の地位を正式に認め、辞令が授与されるのは3代目の明皇帝・永楽帝の代になってからである。当時の明はお決まりの壮絶な跡目争い「靖難の変」が起こったばかり。政権を安定させる必要があったからだ。1403年の出来事だった。ここから正式に朝鮮王朝がスタートするのである。



 ●粛清の嵐


 日本では権力者が交代しても、旧支配層は皆殺しにはならず、せいぜい地方で出家させられるくらいだが、大陸では易姓革命が成功すると旧勢力はひとり残らず皆殺しにする。


 朝鮮もまた例外ではない。李成桂は王位を自分に禅譲した恭譲王を追放するだけでは飽き足らず、王とその一族を海に突き落として葬ったと言われている。


 さらに粛清は続いた。都を開城から風水によって決定した漢城(ソウル)に遷都すると、旧高麗王朝の官僚を大量に虐殺してしまった。彼らの土地・財産を没収すると国有化し政権奪取の功労者たちに分配したのである。



 ●骨肉の争い


 李成桂には8人の息子がいた。最初の妻との間に6人、後妻の間に2人である。彼は後妻の生んだ当時10歳の末っ子が可愛くてしようがなかったらしく、王位継承者である「王世子(おうせいし)」に指名した。臣下の多くはこれに反対した。


 なぜなら五男が働き盛りの25歳で、しかも16歳で科挙を突破するほどの秀才であったからだ。しかし、李成桂は建国の功臣である鄭道伝(ていどうでん)に末っ子の教育を依頼。あくまで末っ子に王位を譲る姿勢を見せた。


 ところが1398年、五男・李芳遠は私兵でもって末っ子のもとに攻め入ると、後妻の二男一女を皆殺しにしてしまった。寵愛する末っ子の死に絶望した李成桂は、二男に帝位を譲り、咸鏡道咸興(かんきょうどうかんこう)に引きこもってしまう。成桂は高僧・無学大師(むがくだいし)を心の支えとして、殺された後妻の子女のため、念仏三昧の生涯を送ったという。


 骨肉の争いはまだまだ続く。1400年、四男李芳幹(りほうかん)は、李芳遠に権力が集中することに反発し、重臣・朴苞(パクポ)の協力を得て挙兵した。ところが、李芳遠は素早くこれを鎮圧し、後に即位して三代太宗となった。



 ●崇儒廃仏


 李成桂が目指したのは「儒教立国」である。といっても、李成桂自身は儒学者ではない。


 易姓革命論を主張して李成桂を国王に担ぎだしたのは、儒学の朱子学派の者たちだったこと、高麗の建国理念が「仏教立国」の確立だったことなどから、旧王朝勢力のしがらみから完全に脱却するために儒学の力を借りたのである。


 こうして李朝による「崇儒廃仏(すうじゅはいぶつ)」、すなわち仏教の弾圧が始まるのである。


 儒教以外の教えは異端とされ、全国の寺や仏像は破壊、僧侶は賤民の身分に落とされた。


 三代太宗の代になると従来の宗派11宗は7宗まで減らされ、四代世宗(せいそう)の代には、7宗を淘汰統合して2宗まで減らしてしまった。漢城の本山二寺以外はすべて破却され、二宗以外の僧や尼は漢城の東大門、西大門、南大門、北大門の四大門の中に入ることが禁止されてしまった。


 この入城の禁は日清戦争後、日本人僧侶の進言によって解かれるまで続いたという。


 日本に茶の風習が伝えられたのは朝鮮半島からであるが、本家の朝鮮半島では仏教弾圧によって茶の風習がなくなったのだという。高麗では茶を仏教儀式に取り入れたため、栽培も僧侶が担当していたが、李朝の仏教弾圧により茶園も荒廃し消滅してしまったのだ。



※征夷大将軍

もとは奈良末期から平安初期、東北の蝦夷を征討するために派遣された、遠征軍の総指揮官の称号。律令軍制により、天皇から軍事指揮権を仮授されるかたちで任命される。天皇の代理人として権威をふるうことが可能になる。


※靖難の変

洪武帝の跡を継いだ建文帝に対し反旗を翻した朱棣は南京を占領し明3代皇帝・永楽帝として即位した。


※李芳遠(りほうえん)

(1362~1422)

李成桂の第5子。異母弟2人と鄭道伝を殺害し、王室の内紛に勝ち、朝鮮王朝第3代国王太宗として即位した。


※朱子学

11世紀頃、南宋の朱子によって体系化され、中国をはじめ東アジアに大きな影響を与えた儒学の一大哲学体系。新儒学ともいう。


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