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本当は怖ろしい韓国の歴史
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歴史
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27 李王朝 王族たちはどうなった?【他の王朝の比較とともに】

『本当は怖ろしい韓国の歴史』
[著]豊田隆雄 [発行]彩図社


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 ●琉球王国処分

「大韓民国」が成立したところで、少々閑話休題。


 日韓併合後も李王朝を支配していた李王家はどうなったのだろうか?


 追放か、投獄か、はたまた処刑されたのだろうか。いずれも違う。


 李王家がどうなったのかを紹介する前に、当時の日本において李王家がどのような位置付けにあったのかを見てみたい。比較として最適なのが、朝鮮より前に日本に併合された沖縄の琉球王国の(しょう)王家である。


 琉球王国の支配者尚氏は、1871年に日本が彼らの同意なしに「廃藩置県」を一方的に行って琉球王国を鹿児島県の管轄としてしまったため、事実上併合されたような形になった。


 翌年には「琉球藩」を設置し、琉球王国の尚泰を琉球藩主とするが、これはお互いの同意のもとに文書を交わして条約を結んだわけではなく、日本側が一方的に行っただけだ。


 納得のいかない尚氏は、上京の要請にも応えることなく、朝鮮の閔妃のように清に密使を送るなど抵抗を続けた。しかし1879年、本土から軍隊と警察官合わせて600人が送られ軍事的威圧のもと、いったん配置された琉球藩は廃止され(琉球処分)、王国は消滅してしまった。


 抵抗した尚氏であったが、「お家断絶」することなく引き続き華族のままであった。尚泰は明治政府に東京移住を命じられたため、琉球処分後は東京で華族として生活。


 1901年に華族のまま生涯を終えた。なお尚家の末裔は健在であり、家として今なお存続している。


 とすれば、日韓併合後の日本は、李王家も華族として扱ったのだろうか。答えはノーである。


 日韓併合条約3条に「韓国皇帝や皇族に対し相応の待遇や称号を付与する」と定めていたため、李王家は「殿下」と呼ばれ、華族ではなく「朝鮮貴族」または「王皇族」として扱われたのだ。つまり、主に明治維新で藩主ではなくなった名家が加わる華族ではなく、日本の皇室に李王家が加わったような扱いをされたのだ。帝国主義下の国において、このようなことは異例中の異例である。




 ●帝国主義のもとで


 彼らが異例だとすれば、他国の旧王家はどのような道をたどったのか。


 ミャンマー最後の王朝、コンバウン朝は、「第3次英緬(えいめん)戦争」でイギリス軍に王宮を取り囲まれると、無条件降伏して滅亡した。マンダレーの黄金宮に入城したプレンダーガスト司令官は、ティボー王と王妃に対し、「45分後にインド西岸に出発するから、準備を整えろ」と威圧的な口調で言い放った。


 保護国ではなく、植民地として編入するための措置だった。


 覚悟を決めた王は、象か駕籠で都を出ることを希望した。コンバウン朝の王の乗り物は象か駕籠だったからだ。司令官はそれを認めず牛車で出ることを強要した。王と家族は多くのイギリス兵に囲まれたまま、牛車で都を後にした。


 その後、イギリスの軍艦に乗せられると、インド西岸のボンベイ(現在のムンバイ)に移送され、そこで一生を終えている。


 ハワイの例も見てみよう。1893年、かねてよりハワイ王室の転覆を狙っていた米国公使のジョン・スティーブンスは、米海兵隊でイオラニ宮殿を包囲、アメリカの息のかかった現地の共和政派が政庁舎を占拠し、王政廃止と臨時政府樹立を宣言する「ハワイ革命」が勃発した。


 翌年、本国と同じ独立記念日の7月4日、臨時政府は共和国の独立を宣言。反対する王政派は反乱を起こしたが、新政府軍に鎮圧されてしまう。


 国王リリウオカラニは、私邸やイオラニ宮殿から銃器が見つかったことから、反乱の首謀者とされ逮捕、幽閉されてしまった。リリウオカラニは反乱で捕らえられた200人の命と引き換えに、女王廃位の署名をしたため、ハワイ王国は滅亡した。


 さらにリリウオカラニは反乱に加担した罪で、5000ドルの罰金と5年間の重労働の刑を言い渡されてしまった。


 紹介した2例は、まったく他国の王家に対して敬意がない処遇といえる。



 ●併合後の李王家


 李王家の話に戻ろう。


 併合当日の8月29日、日本は「朝鮮貴族に関する皇室令」を出している。李王家に敬意を払い、保護することを約束している。



  第一条、本令により爵を授けられ又は爵を戴きたる者を朝鮮貴族とす


      有爵者の享帝は朝鮮貴族の族称を享く


  第二条、爵は李王の現在の血族にして皇族の待遇を享けさる者及門地は功労ありたる朝鮮人に之を授く



 総督府は、朝鮮王家の李王や皇太子に対し「殿下」と呼ぶことを義務付け、最大の敬意を表した。朝鮮最後の皇帝となった純宗は、「李王殿下」と呼ばれ、引き続き皇族として暮らすことができた。


 跡継ぎの李垠(りぎん)は李垠殿下と呼ばれていた。李垠は日本史の教科書によく掲載されている。伊藤博文と2人で写真に収まっている、日本の着物を着た小学生くらいの可愛い少年こそ李垠だ。


 李王家には「李王家歳費」が、総督府から毎年150万円支給されていた。驚くべきことに、この金額は日本のどの宮家に支給される皇族費よりも多かったのだ。


 1920年、李垠のもとに、皇族の梨本宮方子(なしもとのみやまさこ)女王が15歳で嫁ぐことになった。皇族と一般人のご成婚は戦後の天皇陛下が最初であり、当時は皇族同士の結婚が普通だった。


 李方子妃殿下には「日鮮融和の礎」としての使命が託されていた。


 李垠は陸軍士官学校に入り、卒業後は陸軍士官学校教官、近衛歩兵第2旅団長を経て、陸軍中将になる。朝鮮出身者としては最高位である。朝鮮半島出身で中将まで上りつめたのは洪思翊と李垠の2人だけである。



 ●終戦後の李王家


 終戦の年の4月、純宗が死去。王家の跡継ぎは陸軍中将の李垠のみであった。終戦時、垠と方子は東京に滞在していた。太平洋戦争で日本が負けたことで、朝鮮半島は誰のものでもなくなった。同時に李王家も日本の皇族ではなくなったのだ。


 李垠は王の地位を失い、いち在日韓国人となったのだ。夫妻は韓国への帰国を希望したが、当時は大韓民国と日本は国交がなかったうえに、大韓民国の初代大統領・李承晩が王政復古を恐れ「日本の皇族になったのは祖国への裏切りである」と難癖をつけ帰国を許さなかった。李垠が帰国できたのは、ようやく許可が下りた1963年になってから。日韓国交正常化交渉が始まったことが影響していたといわれる。もちろん方子もついて行った。波瀾万丈の夫婦生活となったが、2人の絆は固かったのだ。


 方子は漢城で身体障害者のための慈善会を設立するなど、慈善事業に力を入れた。


 また、日本へ宮中衣装の返還要求を出すなど韓国のためにも尽くしている。方子は夫が亡くなってからも日本へ帰らず韓国で生涯を終えた。「韓国は私の永遠なる故郷。死んだら必ず夫の側に骨を埋めて」が口癖だったという。



※廃藩置県

1871年に行われた地方制度改革。全国の藩が廃止されて府県が置かれ、中央集権化が完全に達成された。


※尚泰(しょうたい)

(1843~1901)

琉球王国最後の国王。尚育王の次男。即位後は内政・外交ともに多難を極めた。明治政府によって受けた「琉球処分」によって首里城の明け渡しを強要され、城を出た。


※コンバウン朝

ビルマ最後の王朝。アラウンパヤーが創始した。王都はイラワジ川中流のアヴァ。「英緬戦争」によって滅亡した。


※リリウオカラニ

(1838~1917)

ハワイ王国最後の女王。兄のカラカウアが王位に就くと、それを補佐し不在時は摂政を務めた。兄の死後に女王となり、アメリカ人に支配されていくハワイの政情に激しく抵抗したが、退位させられた。


※暮らすことができた

もし、日露戦争でロシアが勝って朝鮮を併合していたら、このような待遇はまず得られることはなかったと思われる。


※洪思翊(ホンサイク)

(1889~1946)

日本の陸軍軍人。軍人として非常に優れた才覚を示し、朝鮮出身者の日本陸軍軍人としては李垠中将と並ぶ地位にのぼった。太平洋戦争後、戦犯としてフィリピンで処刑された。本人は朝鮮の立場を「イギリスにおけるアイルランドのようなもの」と理解していたという。


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