『[証言録]海軍反省会 3』
[編]戸高一成
[発行]PHP研究所
松田 一部の方にこの本をお配りしたんですが、まさに私の体験なのは事実ですが、色々面白い話があります。一番最後にこれは海軍の鎌田芳朗、七七期の方、海軍大将が何人いるかを調べて、その後、海軍が解散されて自衛隊に移ってから幕僚長をやった、つまり海軍大将に相当する人がだれだれと書いている。空将のほうは佐薙(毅・兵50)さん、それから源田(実・兵52)さんそのほかの海将のほうはね、海幕長のほうはこれに書いてないんですよ。
もう一つはね、あの戦争当時、永野修身さんが、兵学校の二八期で一番年が上。それから飛んで米内(光政)さんが二九期です。及川(古志郎)さんが三一期。山本(五十六)さんが三二期で、豊田(副武)、古賀(峯一)さんまで三四期の間の人が戦の責任者だった(豊田副武は兵33)。その後、あと澤本(頼雄)さん、南雲(忠一)さん三六期、井上(成美)さん三七期、栗田(健男)さん三八期、問題になるのは伊藤(整一)、軍令部次長ですね、伊藤さん。三九期なんです。その時の一部長宇垣(纏)さんが四〇期、たった一期違い。そしてご承知の伊藤さんは非常に穏健な人で、宇垣さんは相当向こうっ気の強い人で、そういう関係で、軍令部は永野さんと宇垣さん、それから海軍大臣の嶋田(繁太郎・兵32)、この辺で引きずられていったんじゃないかという気がしているんです。福留(繁)さんが四〇期で、ここにいらっしゃる保科(善四郎)さんが四一期、私がぐっとその下(四四期)で、縁の下の力持ちだったわけです。
そういう所を考えましてね、この本ご承知とは思いますけど、「歴史と人物」の編集長は横山恵一、非常に海軍に親身になって全然部外者でありながら水交会会員にもなっている。そういう関係で、私は十日前、一週間ばかり前か、書いてくれと言ってきた。忙しいからとてもできないと言ったら、それじゃ少し日を延ばすからという事で十日まで延ばしてもらって、それでも材料は手元にないし、あんまり待たせてもしょうがないから、せっかく、ここに矢牧(章・兵46)さんおいでにならないけど、矢牧さんはお調べになった、これをノートにしましてね、私の感想、具体的な事は覚えていないけれども、感じだけは頭に残った。その感じで書いてあるんです。
それからこれはマスコミですから、一般の人にも読まれるし、殊にここにはだいぶ悪口言っている方もいるけれども、お読みになると思います。そういう感じで表現をだいぶ穏やかに書いたわけです。後でご覧になるとなかなかおもしろい。つまり山本(五十六)さんの真珠湾攻撃、当時の一航艦の参謀の吉岡(忠一・兵57)さんが書いている。つまり表題はハワイへの道程、すべての参謀がそろって、ハワイ攻撃を行った。司令官なんか無用だ、というような事を書いてある。さっき言った海軍大将のあれとか、色々おもしろい事がありますから、お暇であったら、お読みになったらいいかもしれません。もしそれでしたら、私に申し出があれば、私は差し上げたいと思います。
それから先ほど申したように、これに書いてある事はありふれた事で、私の発明でも何でもないものなんです。ここにおられる、少なくとも昭和十五年頃までに幕僚おやりになった人はこんなような感じを持っておられると思う。しかしそれは一般の人にもいるんだろうと思って、私事を並べた。これは少し間違っているものがありますから、後で訂正したいと思っています。
一四インチ砲を採用した理由はどうだというのがこちらにご存じの方がおられるから、これは私がちょっと勘違いして、ジュットランド海戦の時に一四インチ砲を採用したと書いているんですね。これは間違いです。その前にほとんど明治四十五年頃の河内、摂津がそうであって、これは私のデータが間違っています。大前さんの書いたのにあるかもしれませんけれども、ワシントン条約の決定前のその当時、アメリカと日本の戦艦の精度の比較もある。それ以外、具体的なものは私の手元になかったものだから漠然と書いています。