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[証言録]海軍反省会 3
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歴史
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「軍艦戦闘部署標準」執筆の動機

『[証言録]海軍反省会 3』
[編]戸高一成 [発行]PHP研究所


読了目安時間:6分
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 それで話は変わりますが、私は昭和十一年の七月にアメリカから帰って、大巡の砲術長にしてもらおうかと思っておった所が、軍令部一課別室で軍縮条約だとか議会の大臣の答弁資料の一問一答の原稿の作成とか、そういう私の柄にもない仕事を言いつかりました。私は、実はその仕事を逃げるのが一つなんですが、一つは早く船に出してもらいたいというので、「軍艦戦闘部署標準」というのをこれから書きますから、やらせてくださいと言って、それを兼務でやったのが、しまいにはそれが主務みたいになった。そしてやっていくうちに、今まで日本の海軍では戦術、すなわち砲戦術です。その大艦巨砲の砲戦術を教えるのに、連合艦隊とアメリカ合衆国艦隊の全兵力の決戦の場面で、私のクラスは三三回ぐらい兵棋演習をやりました。砲術学校、高等学生には約一〇回やっているんです。それで合計すると四四~四五回にもなりますか。そういう三年間でやる戦術の教育は、全部連合艦隊対合衆国艦隊の決戦、それ以外の事はほとんど全くやらない。


 私は五九期の高等科学生、兵科の五九期辺りのクラスには、その前の藤村(義一・兵55)君なんかの時だから、土肥(一夫・兵54)さんの次のクラスですね。あのクラスからです。私は砲戦術の基礎は、(大艦隊ばかりでなく)小さい戦隊から一艦の砲戦指揮まで及ばないかんと言って、向こうが八隻、こっちは八隻と。あるいは、向こうは八隻でこっちは四隻というような小規模の基礎的な砲戦術をやらせて、そして具体的に一艦の艦長としての号令、あるいは操艦、そういう事にまで及んで、基礎を作るようにやったことがあります。


 しかし、私は学生で習ったのは、いつも連合艦隊長官としての計画実施であり、たまたまある戦隊の極めてまずい(行動の)場合には、教官から指摘された事もありますが、ほとんど長官の戦術実施以外には触れない。あの数の多い水雷戦隊、これはなかなか審判が難しいんですが、お若い方は知らんかもしれませんけども、四隻の一個駆逐隊は、真鍮の細い鎖で表現しとった。そして一隻沈んだら、その長さを四分の一減らすと、こんなような事でやっていまして、水雷戦隊の旗艦とか、一個水雷戦隊に一六隻もある駆逐艦が一隻一隻、どうしたこうしたなんて事はとても砲戦術の専門であるべき砲術学校の高等科学生に対してさえ、そういう教育はできなかった。いわんや大学校では、そんなふうなものは全然相手にしない。ですから、海軍の戦術は長官あるいはそれを補佐する連合艦隊司令部幕僚ぐらいの事のやり方の良いか悪いかでありまして、例えば戦艦長門、あるいは水雷戦隊の旗艦の夕張とか、いわゆる列兵の各駆逐艦長なんかも砲戦指揮なんていう事は全く教えておられない。


 どういう考えか知りませんが、甲種学生を出て艦長にもなる時代になれば、みんな研究して、良い戦術家になるというお考えだったかもしれないが、私が思うと、大艦の艦長なんていう人は、よくて軽巡の艦長を一年やる。あるいは、練習艦隊とか、あるいは鉄砲屋、通信屋のような、操艦をやる機会のなかった人は、尻矢だとか神威とか、ああいう旧式のタンカーの艦長。あるいは、小さい敷設艦とか、工作艦とか、そういう小さい船の艦長をやらせて、それから大きな船の艦長になる。運の良い人は、初め艦長講習を経て、艦長講習というと右砲戦とかいう事になるかと思うんですが、それは艦長の操艦をやらせる。そして、その講習を経て、軽巡の艦長になる。それから一足飛びに戦艦にいく人もあるし、重巡をやって戦艦にいく人もある。


 私は、日向の副砲長の時の艦長は、豊田(そえ)()(兵33)大佐でありましたが、あの方はどこかで艦長講習をやって、そして由良の艦長で一年艦隊勤務、それから日向に来られました。その間に教育局の課長をやっておられて、各種の教範操式など目を通しておりましたから、なかなか艦長の業務に明るかった。


 そして、私のような老、老と言ったらおかしいが、古参の大尉は、何にも言われる事、叱られる事はありませんでしたが、新しい、私より五年ぐらい下のクラスの科長なんかは、分隊長辺りは変針をする時、おもかーじ、なんて言うと、おもーかじ、と言えと、そういうふうに克明に教えておられたです。それだけあって、自分のやられる事は自信満々で、これは本当の立派な艦長だと、私は敬意を表した。


 この間座談会(「歴史と人物」一九八一年、中央公論社)で、最高指揮官にはだれが良いかというのを色々と集まってやったんですが、私は豊田副武大将が一番良いと言ったんです。そうしたら、ある方は、あの人はあんまりがむしゃらばっかり言って、せいぜい二艦隊の長官だからと言われましたが、私はそうは思わない。


 雑談になりますから言いませんが、例えば昭和八年、軍務局長の時、あの制度が変わって、軍令部は非常に力を得た。その一部長が近藤信竹(兵35)少将。軍務局長は豊田副武。何か用があって軍務局長に報告に行ったら、ちょっとそこで待っていろと言うんで待っていたら、それで近藤一部長が来て、来年度の予算なんて言ったら、もう初めからそんなもんにめくら判を押したら海軍予算は幾らになると思うか。駄目だ、もう一回やってこい。「はい」と言って、軍令部一部長は、まあ一号三号の関係もあったんでしょうね。軍令部を背景にしながら、しっぽを巻いて早く帰ってこられた。そういうとにかくはっきりした強い人です。ですから、色んな事を細かく知っておられた。


 それから、やっぱり砲術の関係なんですが、砲術出身の大西新蔵(兵42)さんの本(「海軍生活放談」一九七九年、原書房)を読むと、あの方が利根の艦長の時は、ことに夜戦の事、一つは砲戦ですね。突然敵と会って、号令かけるというような事を非常に、あの艦長にもなってたくさんの部下を連れていって、自分で作られて訓練しておられた。そういう艦長を私は見た事がないんです。そうだから、急にあの八艦隊が三川(軍一・兵38)長官のもとに、重巡五隻、その他を連れて、ツラギの夜戦をやった。その時、参謀長は大西さんですが、上手くいったのは、やっぱり参謀長のそういう利根艦長以来の竿頭における戦術という。それを実際やる時の号令などの訓練がよく身についておって、上手くいったんだろうと思います。


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