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[証言録]海軍反省会 3
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歴史
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【黛発表】砲術学校を反省する──高木惣吉氏への反論

『[証言録]海軍反省会 3』
[編]戸高一成 [発行]PHP研究所


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 あのー、私は普通の人と違って兵学校の生徒から砲術だけを勉強するような格好になりまして、砲術学校の教官を六回、教頭を一回と、別に品行がいいわけではないんですが、とにかくどういう関係か知りませんけれども、海上の砲術長に出してもらおうと思うと、いつでも教官になったんです。それですから猪口((とし)(ひら)・兵46)中将と私は、日本の海軍の砲術界において一番砲術の、砲術学校の教官の経歴が長い。そして猪口さんは射法を一生懸命やり、私は主に砲戦術です。昭和十三年からは砲戦術と対空砲戦の事をやらされました。そういうわけで、みなが私は砲術以外何も知らんと思われているんですが、砲術の知識に比べると、何も知らんと言われてもしょうがありません。自分でも専門家と言われてもしょうがないと思っとりますが、亡くなられた高木惣吉(兵43)さんは、私が十年くらい前でしょうか、ある雑誌に標的射撃で、アメリカは日本の主力艦の主砲の三分の一しか命中しないという事を書いたのに対して、得てして専門家は自分の専門の事を過大に評価すると。イギリスは第二次大戦の前に標的射撃で七五%も当たった。然るに地中海のイタリーとの戦闘では三・二%でしたかな、二・三%か知りませんが、そういうふうに非常に命中率が違う。三〇分の一とか書いてあります。しかし、私共が言うには、大砲は何か、艦は何か、戦艦か、巡洋艦、そういうような艦の事。それから戦闘射撃なのか、ただ動かない標的を撃つ、何かの実験なのか、そういうような事全然書いてない。それでは我々専門家から見ると、比較にならない。私のここに書いた何%っていうのは、みんな日本の海軍は海軍省で統計にした、確認した本当の成績。アメリカの昭和九年の初め、野村留吉(兵46)少佐が、カリフォルニアの南部で車上からごく近い所で無線傍受をして、それを私が軍令部から頼まれて研究して、日本の三〇%しか当たらん事が分かった。翌年、私がアメリカ駐在として行っている間にワシントンへ呼ばれて、アメリカから取った、取ってすぐ返したんですが、アメリカの昭和九年に対する「砲術年報」の全部をコピーして、それをゆっくり拝見して、アメリカは無線傍受と同じように日本のちょうど三分の一しか当たらんという事が分かった。そういうふうに私の専門は、まあ、砲戦術でしょうけれども、長年、砲術学校にいたから、教育の事も少なくなく、事情は知ってるわけで、それで全て私はそういう数字に基づいて議論をする。そういう数字で議論をするのが常識的に、例えば、レイテ海戦の時、上手くやればこっちが敵の戦艦とわたり合えるだけの兵力を持っていれば、大決戦が起きたと思うんですが。いや、起きないという人もある。まあ、そういうふうに非常に見方が違うんですが。私は色々本にも書きここでも申し上げたが、それは全部、だいたい砲術学校において研究した事なんで、それで私の言う事が間違っておったとすれば、まあ、砲術学校が悪かったという事にもなりましょう。そこで、今日のように砲術学校を反省するといった、私の書いてる事は、高木さんに言わすと、だいぶになるらしいので、少し私の経歴等を書いて、その間に色々反省すべき事を申そうと思った。私は少尉くらいの時にやった事でも非常によく覚えているんです。まあとにかく、高木さんの見る所によると、日本海軍の砲術の教育は、()が回れば()(りん)が回るとかいうような、実際の兵器についてのメカニズムを教えて、機工学的な説明を一つもしない。機工学の理論を言わなかったと言っておりますが。しかし、それはちょっと違うのである。兵学校に入ったばかりの生徒に、力学も知らないのに機工学を言った所で始まらん。やっぱり何にも知らん三号生徒には一五サンチ級くらいの比較的簡単な兵器を、螺が回れば螺輪が回る、パッキンがあるから水道管は洩らんというような事で説明して、だいたい兵学校を卒業する頃になったならば、ちょっと機工学を入れてもいいんでしょうが、これが機関学校と兵学校を比較して、兵学校は機工学の教育をしなかったと言ってますが、だいたい機関科の方も、私と話してみると、指揮装置とかレンジ・ファインダーとか、この普通のタービンや(かま)なんかよりも遥かに複雑なので、決して世の中にあまりありませんから、世の中の機工学の人なんかにも、さつま芋のような格好をした立体カムで、苗頭、距離なんかを計算する指揮装置の機工学的な説明の事をできないと。やっぱり個々の計器について説明するという以外できない。そういうふうに、色々砲術学校なり兵学校なりの砲術教育については異論はあると思いますけれども、私はあれ以外の方法はなかったと思ってます。


 えー、ずっと飛ばしますが、私は大正十三年に、地震(関東大震災)の翌年に揚子江の砲艦、安宅の高角砲の指揮官をしてまして、上海から重慶まで色んな小さい砲艦等に乗って見学する機会を与えられました。その時敵がワイヤーでもって交通を止めたら困るぞ。そういうような考えから、だいたい敵はどういう事をするだろう、それにはどういう射撃をすれば破壊できるかというような事を詳しく書きまして、一つの「会敵射撃教範」というようなものを作って持ってました。そして司令部に出したんです。中尉の二年目です。それが昭和七年に五九期の、その鈴木(孝一)君なんかのクラスの遠洋航海の、浅間の副砲長に行って、うっかりすると上海事変に引き続いて日米戦争になりはしないかと。その時、比島を攻略する部隊の援護なんかに充てられるかもしれんと思って、その中尉の時の教範の案をそのまま浅間の副砲の訓練に使い、また十四年に海南島を占領する時には、部隊の駆逐艦に乗り、私が中尉の時書いたそのままを印刷して配って、この通りやれと言った事がある。そういうふうに中尉でも少尉でも一生懸命やれば、砲術学校へ持っていっても直されないくらいのものが書けたんです。他の人は知りませんが、私は砲術に熱中してましたから、ほかの事はできなくても、砲術だけは、例えば普通科学生といっても、ほとんど教わる事はなかった。こういう一種の奇形児ですから私の言う事は、高木(惣吉)さんが言われるように、時々専門家も間違いがあると思いますが、それもそういうおつもりで。


 私は昭和十四年に、主力艦の砲術長といわれる適齢期をミスしまして、古鷹の副長になったんです。その時行ってみたら司令官は田結(みのる)(兵39)という航海出身の極めて厳格なお方でした。私は前から砲術学校によって色々調べていくと、古鷹級の六門艦は、(一〇門艦の)妙高、高雄級の巡洋艦よりもずっと強い。命中率が二倍ですから。そしたらアメリカの九門艦の重巡よりも遥かに強い。そういう事を司令官に申し上げまして、古鷹級は小さい、弱いという観念でなく、アメリカの四艦くらいの強さだと思ってやってくださいと申した事があります。


 次は、山本(五十六・兵32)長官は昭和十六年の一月に及川大臣に対して手紙を出して、兵棋演習等をやったがいつも日本は勝たなかった。そこでハワイの空襲をやろう、そういう事を書いております。しかし私は昭和十六年の直前まで一艦隊にいまして、色んな演習、その研究会にも行きましたが、長官が戦艦無用なんて事を考えているという事はもう、全く知りませんでした。それから大和の艤装員の副長の時、作戦室の事で長門に行ったのが開戦の三カ月前の事です。その時も長官をお見かけして、色々申し上げましたが、戦艦無用なんて事はおくびにも出さずに、しっかりやって立派な強い戦艦を造ってくれなどと激励された。しかし、もしですね、戦艦無用とかアメリカに兵棋演習と同じように実戦でも負けるんだと思っておられたという事が分かれば、私はもうすぐ具体的に説明して、大いに考え直して頂く手段を取ったと思います。残念なのは、私はぼんやりしとってそういう事は分かりませんでした。


 それからですね、()()(きよ)(かず)・兵18)大将、三笠の砲術長。それから佐藤鉄太郎(兵14)中将、日本海海戦の時の二艦隊の作戦参謀。こういう方は命中率というのは訓練射撃の三分の一しか当たらない。これは目標をどんどん変えて試射をやる。試射が終わってまた目標を変えて、また試射をやる。そういうような訓練では、命中率が、うんと下がるだろう。しかし、ある時期には、例えば試射が終わって、ある態勢が続けば、その間は標的射撃と同じくらい当たるというような事は、二人とも言われませんでした。また、日露戦争の日本海海戦辺りを見るとたくさんの船が集中して、それで命中率がうんと下がって、それがだいたい三分の一と見ても、もっと低いですけれども、二隻か三隻だったか、三分の一くらいだったと思います。そういう事は一つも、安保さんも佐藤さんも言っておられません。海軍砲術学校は、明治四十四年に初めて砲戦術講義というのができまして、後の末次(信正・兵27)大将が少佐で、戦術の教官ですから、イギリスとかアメリカの専門雑誌くらい見られたと思いますが、日本が河内、摂津などの一二門もある大砲のうち、三分の一の四門は片舷にしか使えない。アメリカなどは当時の艦は一二門が全部片舷に使える。その前は、八門の艦は、戦艦ミシガンだが、全部戦闘に使えると。そういう事を知っておったもんですから、河内、摂津などの砲装を見ると、なってないんだと。当局や海軍大臣が判子押して命令して造ったやつでしょうが、末次少佐は、当局の愚や笑うべしと書いた。それが問題になりまして末次さんは左遷されたわけです。しかし、行った先は軍令部参謀で栄転です。そういう末次さんから後、江渡恭助(兵28)とか、青木宗作(兵33)とか、三井清三郎(兵34)とか、大野一郎(兵38)とか、かなり偉い砲術家が戦術科長をやりましたけども、昭和八年まで、戦闘になると命中率は三分の一になるという学説は正しいものとして、私は戦術科長になった。色々調べてみると、標的射撃と同じだとみられました。


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