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田中角栄と越山会の女王
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ルポ・エッセイ
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中曾根派切り崩しの大ローラー作戦

『田中角栄と越山会の女王』
[著]大下英治 [発行]イースト・プレス


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 大平の総裁担ぎ上げの司令塔になったのは、田中派の()(とう)()(まさ)(はる)であった。後藤田は、警察庁長官として連合赤軍(あさ)()(さん)(そう)事件、日航ハイジャック事件、土田国保警務部長宅爆破事件などの指揮にあたり、(らつ)(わん)を振るった。それを田中に見込まれ、昭和四十七年には官房副長官に抜擢され、政権の中枢に参画。官僚への睨み、判断、実行力で定評を得た。昭和五十一年十二月の衆議院選挙では、徳島全県区から出馬して初当選をかざり、田中派入りしていた。


 後藤田は、大平派の佐々木義武代議士といっしょに永田町のホテルオークラ二階に対策本部をつくり、陣取った。このホテルオークラが、予備選を総指揮する前線基地となったわけである。


 後藤田がまず動いたのは、党員名簿の獲得であった。


 当時、自民党員党友は、百五十万人いた。その名前と住所が記してある党員名簿は、非公開であった。党員名簿は、固く金庫に保管されていた。


 後藤田は、名簿の有効性を、竹下登から教わった。当時、全国組織委員長だった竹下は、各都道府県の支部の名簿が閲覧できることに気づき、各支部名簿を四十七都道府県分揃えたのである。こうしたノウハウは、竹下だけが知っていた。


 後藤田は、その党員名簿を見ながら、田中派秘書軍団に電話をかけまくらせた。直接、自宅に行かせ、大平支持を訴えてまわらせた。


 後藤田は、さらに考えた。

「時間に限りがある。一軒一軒党員党友をまわるために、もっとスピーディーな方法はないものか」


 そのあげく、元警察庁長官であった後藤田ならではの、じつに効果的な手を考えついた。


 後藤田は命令した。

「おい、ヘリコプターを飛ばそう! 東京上空から、東京各所の写真を撮らせるんだ!」


 写真を撮り、一軒一軒党員党友の家を把握すれば、最短距離を通って次の家へ、また次の家へと行ける。できるだけ短時間で家をまわることができる。

「早くやらないと、他の派閥の候補たちに戸別訪問をやることが発覚し、先手を打たれる可能性がある」


 後藤田は、ヘリコプターで上空から東京各所の写真を撮らせ、名簿にもとづいた大ローラー作戦を展開させた。後藤田の指示により、大平、田中両派の秘書軍団、大平支持の企業関係者合計二百六人が大動員された。彼らに、航空写真の丸印の入ったコピーを渡し、片っ端からまわらせたのである。狙いは主に、東京でいちばん多い中曾根系の党員党友の切り崩しにあった。


 戸別訪問は、かならず秘書を二人一組で行かせた。一人だとサボるかもしれないが、二人ならサボれない、という狙いであった。


 また、河本系の党員党友は、企業に固まっていた。しかも、幽霊が多い。企業といっても、そんなに大手ではない。そこへも、切り崩しをかけた。それがなければ、河本が総裁になる可能性もないではなかったのである。


 東京支部における大ローラー作戦たるや、凄まじかった。党員だけで八万人もいるというのに、十一月十三、十四、十五日の三日間ですべてをまわらせた。いかに航空写真が生きたかがわかる。この作戦により、東京の票を、一気に大平支持に固めていった。


 昭も、秘書たちを激励した。越山会の金庫からいくばくかの金を取り出し、田中派の木曜クラブの事務局におもむいた。

「みなさんにひもじい思いはさせない。食事代だけです。みんな、足で票を稼いでくださいと伝えてね」


 秘書たちのローラー作戦は、見事に功を奏した。


 大平は東京にあった中曾根票を奪い取り、総選挙に勝利した。第九代自民党総裁に就任したのである。


 その後、中曾根がコメントした。

「田中さんと大平さんの金の力に、負けました」


 昭は憤慨した。

「なにを言っているの! 田中が、なんで人さまの選挙に金を出さなければならないの」


 たしかに、大平は、田中派の力がなければ勝てなかったにちがいない。しかし、それをすべて金の力と決めつけるとは、どういうことなのか。昭には、さっぱりわからなかった。が、中曾根をしてそう言わしめるほど、田中派の結束力と実行力は、冴えわたっていた。


 なお後藤田は、この戦いでの論功行賞により、大平内閣成立とともに防衛庁長官として入閣を求められるが、これを辞退。のちに昭和五十四年十一月九日の第二次大平内閣で、自治相、国家公安委員長、北海道開発庁長官として、初の入閣を果たす。


 田中は、もっとも不利だと思われた大平をみごと総裁の座につけたことで、ふたたび政界で睨みを利かすことになった。まわりからは、“キング・メーカー”“闇将軍”と呼ばれるようになる。


 田中は、そう呼ばれることについて、昭に冗談めかして言った。

「おまえは女王だからいい。おれなんか、闇将軍だからな。誰も、帝王とは呼ばないよ」


 佐藤昭は、昭和五十四年に「昭子」と名前をあらためた。「淋しき越山会の女王」が発表されてからというもの、マスコミは、田中とともに田中金脈のひとりとして、昭を格好の目標にして追いかけ、佐藤昭と呼び捨てにした。

〈世間で言われる田中金脈、そしてそれに自分がつながっているというのは、根も葉もない言いがかりだわ!〉


 昭があえて名前をあらためたのは、マスコミや世間に対するささやかな抵抗であった。



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