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江戸全170城 最期の運命 幕末・維新の動乱で消えた城、残った城
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歴史
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黒田官兵衛がつくった博多と福岡──福岡、大分

『江戸全170城 最期の運命 幕末・維新の動乱で消えた城、残った城』
[著]八幡和郎 [発行]イースト・プレス


読了目安時間:18分
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005──(ちく)(ぜん)国 (ふく)(おか) (くろ)()家 福岡県福岡市 四七・三万石



 関ヶ原の戦いのあと黒田(なが)(まさ)に筑前が与えられたとき、居城は港町の博多と有機的なつながりが持てる場所から選定された。博多の北に隣接した(すみ)(よし)はまったくの平地、その北の(はこ)(ざき)は水攻めに弱く、西の海岸に面した(あら)()は城下町の面積が取りにくく地質も悪いとして(ふく)(ざき)となった。南側が丘陵につながるのが欠点だが、西は低湿地で北は博多湾、東は()()(がわ)を挟んで博多の町だから、南側に重点的に防備を施せば大丈夫と見た。


 天守台は築かれたが、天守が建てられたかどうかはわからない。たとえ建てられたとしても、あまり背の高いものではなかったと推定される。砲撃の格好の目標になるからだ。また、城下町の規模は石高に比べて小さかったが、これは博多に隣接しているため必要がなかったからである。


 この福岡で黒田氏は江戸三〇〇年間、変わることなく過ごした。途中で官兵衛と長政の血筋は途絶えてしまい、幕末の(なが)(ひろ)は島津重豪の子である。酒豪であることが気に入られて側室となった下女との子だが、豪快にして英明で、兄の孫にあたる島津斉彬の盟友でもあった。ただ養子のこととて藩内の掌握は十分ではなく、尊皇攘夷派の独走を抑えられず、逆に大政奉還の数カ月前の(いっ)(ちゅう)(へん)で彼らを粛清するという間の悪さだった。


 維新後には偽金づくりをしたことが発覚して知藩事の(なが)(とも)は免職。廃藩置県を前に(あり)()(がわの)(みや)(たる)(ひと)(しん)(のう)が知藩事になった。長溥は西南戦争のときに政府から派遣されて島津久光を鹿児島に訪れて説得にあたったが、江戸生まれの長溥は初めて桜島を見て、薩摩の人々からも歓迎された。


 長溥はのちに留学当時の知己であるアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に接触するなど日露戦争の裏舞台で活躍した(かね)()(けん)()(ろう)や、(みつ)()財閥の幹部として活躍した(だん)(たく)()などを育てた。藩医学校(さん)(せい)(かん)は九州大学に発展し、藩校(しゅう)(ゆう)(かん)はいったん廃止されたが、黒田家の援助でその名とともに復活して「一中的存在」となった。


 廃城によって建物のほとんどは破却されたが、(しお)()(やぐら)()(もん)(やぐら)などいくつかの遺物があり、石垣もよく残っている。また、三の丸は平安期の迎賓施設である(こう)()(かん)の跡であり、戦後は(へい)()(だい)球場がつくられて西(にし)(てつ)ライオンズ(現在の西武ライオンズ)全盛期の本拠地となった。



006──()(ぜん)国 (なか)() (おく)(だいら)家 大分県中津市 一〇万石



 黒田官兵衛が豊前(福岡県、大分県)の三分の二しかもらえなかったのは警戒されたからだという伝説があるが、このころの秀吉譜代の家臣としては(はち)()()家に次ぐもので冷遇とはいえない。この地を得た官兵衛は()()(けい)から流れ出る(やま)(くに)(がわ)の河口に中津城を築いた。石材を調達するために古代につくられた(とう)(ばる)(さん)(じょう)からも持ってきた結果、この時代の石垣としては巨大に加工された石が使われ、()(づら)(づみ)の細川時代の石垣との対比が楽しめる。


 幕末の藩主は奥平家で、長篠(かっ)(せん)のときの城主(のぶ)(まさ)と家康の長女(かめ)(ひめ)の子孫である。島津重豪の子である(まさ)(たか)を養子に迎え、最後の藩主は宇和島の伊達宗城の子である。(せい)()である(まさ)(ゆき)を江戸から外国船に乗せて大坂に脱出させ、官軍に参加した。


 福沢諭吉は(かん)(じょう)(かた)という専門職の子として大坂で生まれた。維新後の明治三年に、この福沢の提案で城の施設は御殿を残してあっさり撤去された。昭和三九年には萩城のかつての天守を(ぬり)(ごめ)(かべ)から(した)()(いた)(ばり)に置き変えたようなデザインの天守閣が旧藩主家によって建てられた。城下町は博多などほかの官兵衛が設計した町と同様に短冊形の街区からなり、全体を惣堀が囲っていた。官兵衛の城造りを見たければ、まず中津城から、とおすすめしたい。


007──豊前国 ()(くら) ()(がさ)(わら)家 福岡県(きた)(きゅう)(しゅう)市 一五万石



 日本の城郭史上で最も強いインパクトを残したのは安土城だが、その次はこの小倉城かもしれない。天守閣など多重の櫓は大屋根の上に望楼を乗せたのが起源だが、そのうちに大屋根がなくなってしまった。それでも名古屋城のように飾りの()()をつけていたが、それもきれいさっぱりやめたのが細川(ただ)(おき)の小倉城だった。しかも最上階がその下の階よりはみ出ているという斬新さだった。


 よほどしゃれていると思われたのか、あちこちで()()された。津山の(もり)(ただ)(まさ)は家臣を小倉に派遣して海上の舟から見取り図を描かせた。これが発見されてスキャンダルになりそうだったが、忠興は城に招いて図面を与え、津山城が完成すると、祝いに半鐘を贈った。


 信濃国守護だった小笠原氏の本家は(はり)()(あん)()藩(兵庫県姫路市)だが、事実上は小倉だ。対岸の長州からともに攘夷をと呼びかけられたが応じず、四国艦隊砲撃も傍観したため恨みを買った。第二次征長のさなかに小笠原(ただ)(よし)が死去したが、それを伏せ、肥前(佐賀県)(から)()藩から老中の小笠原(なが)(みち)がやってきて指揮した。だが、応援に来て頼もしかった熊本藩も一日で前線から退()くなどして高杉晋作や山縣有朋の奇兵隊になすすべもなく、長行は幕府軍艦()()(やま)(かん)に乗って脱出し、各藩は勝手に帰国したため、藩士たちは城に放火して、内陸部の()(がわ)()(わら)に移った。だが、のちに東北方面で官軍として活躍し、賞典禄五〇〇〇石を得た。


 一八六九年に藩庁を京都(みやこ)(とよ)()(みやこ町)に移して豊津藩と称した。昭和三四年に再建された天守閣が(さん)(よう)新幹線の小倉駅の近くにあるが、破風なしでは物足りないと、たくさんの飾り破風がつけられた。ただし、最上階がはみ出す構造は無事に再現され、かろうじて面影を保っている。


008──(ちく)()国 ()()() (あり)()家 福岡県久留米市 二一万石



 ()(ばや)(かわ)(たか)(かげ)は、はじめ弟で毛利元就の九男である(ひで)(かね)を養子にしていた。秀包の母は小早川一族の()(みの)(おお)(かた)で、毛利(ひで)(もと)の父()()()(もと)(きよ)(あま)()(もと)(まさ)、それに秀包の三人の男子をもうけ、いずれも優秀だった。だが、(きたの)(まん)(どころ)(おい)(ひで)(あき)を養子に取ることになって秀包は分家し、久留米藩を立てて独立した。その居城として選ばれたのが久留米城である。


 関ヶ原の戦いのあとは筑後(やな)(がわ)藩(柳川市)()(なか)(よし)(まさ)の支城になったが、一六二〇年に有馬(とよ)(うじ)が二一万石で入封した。この有馬氏はキリシタン大名で越前(まる)(おか)藩主(福井県(さか)()市)の有馬氏ではなく、(せっ)()(兵庫県)の有馬温泉あたりに()った(あか)(まつ)一族である。このときに城も補修された。


 藩内での殖産興業に見るべきものがあり、一七八八年に一二歳の井上(でん)()()()(がすり)を考案し、(とう)(しば)の創業者とされ、「からくり()右衛()(もん)」の異名を取る田中(ひさ)(しげ)も輩出した。


 地元の(すい)(てん)(ぐう)の宮司だった()()和泉(いずみ)が禁門の変で敗れて自害するなど勤皇派の活動が活発だったが、藩主の(より)(しげ)は一二代将軍(いえ)(よし)の養女で有栖川宮(つな)(ひと)親王の娘(あき)(ひめ)を正室に迎えていたこともあって佐幕派だった。


 王政復古後ののち、勤皇派が佐幕派を粛清し、戊辰戦争でも官軍で活躍して賞典禄一万石を得た。昭和初期の(より)(やす)(たい)(せい)(よく)(さん)(かい)の事務総長や農林大臣を務め、競馬の有馬記念の発案者である。


 筑後川に面した丘の上にあり、本丸では天守代用の(たつみ)(やぐら)など七基の三層櫓が二層の多聞櫓で結ばれていてなかなかの壮観だった。明治になって早々に壊されたため古写真でしのぶしかないが、本丸の石垣も完全に残っている。二の丸と三の丸は地元の()()()()店として創業したブリヂストンの工場になっている。


009──筑後国 (やな)(がわ) (たち)(ばな)家 福岡県(やな)(がわ)市 一〇・九万石



 (あり)(あけ)海周辺ではクリークを小舟で行く水郷めぐりが名物だが、柳川(柳河)は詩人(きた)(はら)(はく)(しゅう)の故郷としても知られる。もともと戦国大名(かま)()氏の居城だったが、(まつ)()(せい)()もその一族といわれる。九州を支配下に置いた豊臣秀吉は、筑前で島津氏の侵攻を食い止めて時間稼ぎをしてくれた大友一族の(たち)(ばな)(むね)(しげ)に筑後半国を与えた。宗茂は朝鮮遠征でも(へき)(てい)(かん)(みん)()(じょ)(しょう)率いる大軍に勝った際の最高殊勲者でもある。


 関ヶ原の戦いで宗茂は西軍について大津城包囲戦に参加したために改易され、石田三成を捕縛した近江出身の田中吉政が三河岡崎から栄転して本格的な築城をしたが、のちに二代将軍秀忠の信頼を勝ちえた宗茂が復帰を果たした。


 幕末の藩主(あき)(とも)は、民間に融資して長崎で貿易をする「(てい)(そく)運転の法」と呼ばれたしくみを考案し、武器も近代的だったが、夫人が()(やす)徳川家から来ていることなどで佐幕的だった。だが、のちに(いわ)()(たいら)城(福島県いわき市)攻防戦などで活躍して賞典禄五〇〇〇石を得た。


 吉政は前任地の岡崎城下町の再生でも知られるが、城下町全体を囲むように堀をめぐらして惣構えとし、五層の華麗な天守閣も建てた。明治五年に原因不明の火事でほかの建物と同様に焼けたが、写真が残されている。明治七年には石垣が筑後川の治水工事に使われたが、三の丸の藩主の屋敷「()(はな)」が旅館や宝物館になっている。


010──(ぶん)()国 ()(ない) (まつ)(だいら)家 大分県大分市 二・一万石



 豊後の(こく)()が市街地の背後にあり、(こく)(ぶん)()がその面影をとどめる。守護大友氏の館は大分駅の南東あたりにあり、(なん)(ばん)文化との出会いの場として重要な史跡である。このころは府内といい、明治になって郡名の大分を都市名にした。大友宗麟の若いころには九州一の勢力だったが、晩年には島津氏に押され、豊臣秀吉軍の到来でかろうじて豊後のみを(あん)()された。しかし、宗麟の子の(よし)(むね)は朝鮮遠征で友軍を見捨てて退却したとして(じょ)(ほう)された。


 豊後は小大名に分割されたが、府内には石田三成の娘婿ともいわれる(ふく)(はら)(なお)(たか)が入り、大分川河口に平城を築いた。江戸時代には小大名の城になり、幕末の()(ぎゅう)松平家の(ちか)(よし)は老中松平(さだ)(のぶ)の孫。一八六七年に(わか)(どし)(より)となったが、国元は鳥羽・伏見の戦いのあと官軍に恭順した。近説も若年寄を辞して京都に向かったが、姓を松平から大給に変更することになった。


 中津城や小倉城に似た立地で豊臣流の城下町だ。軟弱な地盤を補うため、石垣の中段に犬走りがある。一七四三年に四層の天守などを焼失し、戦災でも数棟の櫓が焼かれたが、(しゅう)(もん)(やぐら)(ひと)(じち)(やぐら)が残り、また一部の櫓や大手門、(ろう)()(ばし)が復元されている。


011──豊後国 (うす)() (いな)()家 大分県臼杵市 五万石



 キリシタンになったのち、大友宗麟は防御が難しい府内の館から少し南の入江の奥にある遠浅の海岸に孤立した(にゅ)()(じま)に城を築いて移った。これが臼杵城である。


 稲葉氏は淀藩とは別系統で、信長にいち早く()せ参じた西美濃三人衆のひとり稲葉(いっ)(てつ)の系統である。鳥羽・伏見の戦いの際には大坂に兵がいたが、戦闘には参加せず、戦後に官軍の要請で京都市内の警備にあたった。国元からも藩主の(ひさ)(みち)が上京した。


 城跡は、かつては海に浮かぶ島になっていたが、いまは埋め立てによって陸続きになっている。三層の天守があったが、廃城とともに壊された。二の丸の(たたみ)(やぐら)と、本丸の(きり)(づま)(づくり)()(との)(ぐち)(もん)(わき)(やぐら)が残るが、上下階の平面が同規模の重箱型の形状をしているのがユニークだ。城に近い臨海部に町家、山麓に武家屋敷という配置で、()(おう)()付近の凝灰岩を削った曲がりくねった坂道に情緒がある。


012──豊後国 ()() (きの)(した)家 大分県(はや)()郡日出町 一・五万石



 (たき)(れん)()(ろう)は中学校唱歌として、『(こう)(じょう)(つき)』のほか『(はこ)()(はち)()』『(ほう)(たい)(こう)』を作曲して三部作になっている。そのうち『豊太閤』がほとんど歌われないのは、「(ばん)()(へだ)つる(とつ)(くに)なるも傲慢無礼の振舞あらば討ちて(こら)して降参せしむ」という朝鮮出兵礼賛の歌詞ゆえだが、滝家は北政所の実家である(きの)(した)家が藩主だった日出藩家老の家柄だから、豊臣秀吉礼賛はごく自然な気持ちだったのだろう。


 藩祖の(のぶ)(とし)は北政所の甥であり、(わか)()(福井県)小浜城主にして姫路城代だったが、細川(ふじ)(たか)(ゆう)(さい))の娘婿でもあった。関ヶ原の戦いでは曖昧な立場だったが、豊前の領主になった細川忠興の取りなしで隣接地の日出で生き残った。


 明治元年九月に藩主の(とし)(まさ)は同族の備中(あし)(もり)藩(岡山市)木下家ともども(とよ)(くに)神社(京都市)の再建を提案して許されている。幕府を開かずに(かん)(ぱく)として朝廷を大事にした功績が理由とされたが、官位を基準に大名と公家を同列に置いた発想は王政復古や華族制度の先駆けであり、新政府が歓迎したのは当然のことである。長州支藩の(きよ)(すえ)藩主が木下家から養子に出ていたことも、官軍との密接な関係の理由である。


 城は別府湾に突き出た丘陵上にある。廃城となって売り払われたが、移築されて民家などになっていた畳櫓と(うら)(もん)(やぐら)が、二一世紀になって二の丸に移築復元された。


013──豊後国 ()(つき) 松平家 大分県杵築市 三・二万石



 大友一族の()(つき)氏があったが、関ヶ原の戦いのころは細川忠興の飛び地になり、重臣でのちに八代城代になる(まつ)()氏があった。幕末の松平(()()(ちか)(よし)は寺社奉行で帰国できなかったが、薩摩などの勧告で子の(ちか)(たか)が上洛して、()()(山梨県)などに兵を出した。


 海に面した小山の上に天守閣も建てられたが、一五九六年と翌年に震災と台風で損壊。一六〇八年に落雷で焼失したため麓に居館が移され、やがて山上の施設は放棄された。城下町も麓にあったが、土地不足のために、谷を挟んだ反対側の高台にも拡張された。そのあたりの「(かん)(じょ)()(さか)」の武家屋敷群あたりから復興された小さい天守閣が見下ろすような形で望まれる風景は美しい。このほかに城門や御殿の一部が残る。


014──豊後国 ()(いき) 毛利家 大分県佐伯市 二万石



 近江出身の毛利(たか)(まさ)が関ヶ原の戦いのあと豊後()()から移って築いた城で、標高一三六メートルの城山に本丸や二の丸があり、のちに山麓に三の丸が築かれた。(せん)(とう)()(しょ)の造営にあたるなど朝廷とも縁が深かったが、鳥羽・伏見の戦いののちには(たか)(あき)が入京し、豊臣恩顧の大名らしく、豊国神社の再建には瓦を献じたりした。


 江戸初期の火事で天守閣は焼け、麓の三の丸が政庁となって、山上の施設はかろうじて維持されていただけだったが、明治になって壊された。三の丸御殿の正門が現存し、御殿も一部が市内に移築されている。大手前から(はち)(まん)山麓に沿って(よう)(けん)()まで続く通りが「歴史と文学の道」と呼ばれて武家屋敷が残り、「日本の道百選」にも選ばれている。お(はま)()殿(てん)(くに)()()(どっ)()館として利用されている。細川(もり)(ひろ)の祖母にあたる近衛(ふみ)麿(まろ)夫人はここの毛利家から出ている。華族社会でめずらしい恋愛結婚だった。


015──豊後国 (おか) (なか)(やま)家 大分県(たけ)()市 七万石


『荒城の月』の舞台といえば竹田市の岡城ということになっており、地元も堅く信じて疑わない。だが、曲より()()(ばん)(すい)の歌詞のほうが先で、会津の(つる)()(じょう)や仙台の(あお)()(じょう)からインスピレーションを受けたものだと詩人自身が証言している。


 作曲した滝廉太郎がどこの城をイメージしたかは推測するしかない。滝は東京で生まれて横浜、富山、大分、竹田と移り、一五歳で東京音楽学校に入学した。ドイツに留学するが結核のために帰国し、大分で死んだ。竹田にいたのは二年だけだが、廉太郎が岡城から曲想を得たという土井の証言がある。日露戦争の軍神(ひろ)()(たけ)()中佐は当藩の出身で、滝とも親交があった。竹田市にあるが岡城と呼ばれ、兵庫県(あさ)()市の「天空の城」として知られる竹田城と混同されることも多い。


 城は源(よし)(つね)の反乱にも与した土豪の()(がた)氏に遡るが、大友時代に()()氏の居城となり、一五九四年にこの地に移った(なか)(がわ)(ひで)(しげ)が近世的な城郭に変貌させた。秀成は(しず)()(たけ)の戦いの緒戦で戦死した(きよ)(ひで)の子だが、(かたき)である()()()(もり)(まさ)の娘を(めと)っている。幕末には早くから新政府に与し、東征に十分な兵力を送ることに時間がかかって(しっ)(せき)されたが、ともかくも関東・東北方面に兵を派遣した。


 標高三二五メートル、麓から九六メートルという高さにあって、壮大な石垣が築かれたが、不便なため一六六三年からは麓の西の丸御殿が政務の中心になった。廃藩置県のあと、すぐに建物は売り払われたが、山奥にあることが幸いして、ほかに利用する方法もなかったため石垣は良好に残っている。滝がここにいたのは明治二〇年代の後半で、廃城から二〇年ほどしかたっていなかったため、(いにしえ)をしのぶといっても、現代の日本人がバブル期を思い起こすくらいの時間差しかなかったことになる。


 明治七年に再建された三層の天守閣は、少しピンボケの写真が残っているが、詳細は不明だ。それもあって再建されていないが、昭和六二年の築城八〇〇年イベントの期間中だけ外観を復元した。この天守をはじめ、建築は下見板張の古風な印象だ。


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