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昭和プロレス正史 上巻
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田鶴浜弘とはどんな人物か

『昭和プロレス正史 上巻』
[著]斎藤文彦 [発行]イースト・プレス


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 田鶴浜弘さんとプロレスの出逢いは、力道山の出現よりもはるかに古い。田鶴浜さんとはいったいどのような人物だったのか。田鶴浜さんが最晩年につづった田鶴浜さん自身のプロフィルがある。



 明治38年乙女座の生まれ。


 ガキ(・・)の時代、熱烈な忍者志向──忍者のトレーニング(修行)は、今にして思うと立派なウェイト・トレーニングで、そのおかげか、旧制中学時代になると抜群のバネ人間の筋肉マンとなり(ガキ時代の大正元年頃芝浦で怪力ロシア人の力技興行見物。実はポーランドの有名プロレスラー、スタニスラウス・ズビスコの実弟、ウラデイック・ズビスコだった。これがプロレスラーとの初出逢い)中学生の身で大学選手(陸上競技)ヒン負かし、当時国際オリンピック種目だった“立ち高跳”の日本記録づくり(1メートル43、さらに、“三段跳”“五種競技”の日本代表(極東オリンピック出場)になるなどで、当時の各大学からのスカウトが、引く手あまた(今は野球部以外ではないらしい)、一番条件の良かった早大(陸上競技)入り、だが、間もなく早稲田大学在籍のまんま、当時の旧報知新聞(中略)に入社(アルバイトに非ず正式社員で運動部と事業部兼務)が、以来スポーツ・ライター生活50余年のこれがフリ出し(おかげで早大は落第重ね、やっと昭和7年卒)


 折しも、かつて(大正10年)講道館柔道に道場破りをかけに来日したアド・サンテルを追って渡米した早大柔道部の大先輩庄司彦雄〔原文ママ=彦男〕五段の帰国をめぐって八田一朗等と、日本初の“アマレス協会”設立──これは戦争のため当時“幻の東京オリンピック”となってしまったが、“1940年オリンピック東京”組織委員会競技部宣伝部を兼務(報知新聞からの派遣)の立場からのテコ入れであり(庄司先輩のアメリカ土産“アマレス”は、今の“プロレス”に近いものだった)。これに深入りして、当時の世界アマレス組織(今日のF ILAの前身で、当時はヨーロッパが本拠)加盟の会議日本代表役員としてエストニアのタリン会議出席かたがた、組織委員会から“1940年オリンピック東京”の欧米各国PRの旅に派遣される(昭和13年2月~7月)


 その途上、ハワイでかつては父の教え児だった世界プロレス王座めぐる現役時代の沖識名との出逢い(父は第一次世界大戦で米国政府に没収されたハワイ中央学院を経営していた時代に沖も在学生だった)で、サンフランシスコのジョー・マルコビッチ(後年アメリカで力道山の後楯だった)、またニューヨークMSGの大ボスとして有名なトーツ・モント等2大プロモーターも紹介され、本場のプロレスを存分に観てまわる。(中略)


 第二次大戦後の“東京オリンピック”も筆者は組織委員会に連らなる。


 第二次大戦後のプロレスだが、折から発足したNTV正力松太郎氏の知遇で、“街頭テレビ”人気盛り上げの目玉として“力道山プロレス”テコ入れに一役買い、“シャープ兄弟戦”の解説(プロレスTV解説初代解説者)担当のみならず、“街頭テレビ”にリンクした日本最初の“プロレス専門雑誌”として“ファイト社”創設(現行のファイト誌は、その後新大阪新聞に譲渡して筆者から代替り)、プロレスと併行してNTVのボディビル定期番組“男性美の創造”のホスト役つとめ(“ファイト誌上”でも盛りあげをはかる)〔原文ママ〕昭和30年の大話題“ボディビル・ブーム”を巻き起こし(三島由紀夫を巻き込んでこれが彼の生涯の大転機になる)、“日本ボデイビル協会”設立する。(『プロレス オール強豪名鑑 世界編』、290〜293頁)


『プロレス オール強豪名鑑 世界編』と『プロレス オール強豪名鑑 日本編』の2作品は1986年(昭和61年)4月から6月にかけて、つまり田鶴浜さんが80歳のときに発表した生涯最後の著作で、プロレス・ライター生活50余年の総集編のような内容になっている。早稲田大学在学中にアルバイトではなく正社員として旧報知新聞に入社したというプロフィルはひじょうにユニークなもので、田鶴浜さん自身の記述には「おかげで早大は落第重ね、やっと昭和7年卒」とあるから、大学を卒業したのは26歳のときだったことになる。


 早稲田大学大隅講堂で日本初のレスリング大会──レスリング部設立から2カ月後──が開催されたのは1931年(昭和6年)6月のことで、このとき田鶴浜さんは25(同年8月29日の誕生日で26歳)。田鶴浜さんよりもひとつ年下の八田一朗(1906年=明治39年6月3日生まれ)25歳。アメリカ帰りの庄司彦男(1896年=明治29年生まれ)35歳。試合場として使用されたのは現在のようなアマレス用のマットではなくて、四角いキャンバスに3本のロープが張られたプロレス式のリングだったが、どうやらこれは庄司のビジョンだった。

“アマレスの父”八田一朗が“大日本アマチュアレスリング協会”を設立したのはその翌年の1932年(昭和7年)4月──戦後の1946年(昭和21年)、日本レスリング協会に改称──だが、庄司はその後、八田グループとは別に大日本レスリング協会をつくった。庄司はアマレスではなく、どうやらプロレスの日本への導入を考えていた。ここで注目すべき点は、まだ20代だった田鶴浜さんが日本におけるアマレスとプロレスのどちらの“輸入”にもきわめて深くかかわっていたということである。


 やや蛇足になるが、庄司のファーストネームの漢字表記については、現在でも“彦男”と“彦雄”のふたつの表記がメディア空間を漂流している。田鶴浜さんも著作によって“彦男”と書いたり“彦雄”と書いたりしているが、庄一ナラティブと櫻井ナラティブではなぜか“彦雄”で統一されている。庄司は1896年(明治29年)、鳥取県境港市出身。鳥取県郷土人物文献データベースという資料に記載されている表記は“彦男”で、プロフィルには「南カリフォルニア大学教授、1947年、衆議院議員(日本社会党)」と記されている。


 庄司との関係、プロレスに興味を持つようになったいきさつについては、田鶴浜さんは1968年(昭和43年)の著作でこう書いている。



 私がプロレスに興味を持ちはじめたのは、四十年ほど前のこと、アメリカから帰った庄司彦男氏から本場のプロレス談義を聞かされて以来である。


 この庄司氏は、大正十年春、柔道の総本山講道館に道場破りをかけてきたアメリカのプロ・レスラー、アド・サンテルを迎えて、東京の九段にあった相撲場でたたかい、その後、帰国したサンテルを追って渡米した人物だから、面白い話がたくさんあった。


 そのおかげで、私はアメリカの雑誌などを拾い読みするようになり、一九三八年アメリカに渡って本場の試合を見、レスラーに会うなどして、ちょっとしたプロレス通になってしまった。


 だが、これはあくまでも一ファンとしてプロレスに注目していただけであって、本格的にプロレスに関係するようになったのは、昭和二十六年、力道山にプロレス入りをすすめたバビー・ブランズ〔原文ママ〕が来日したとき、報知新聞で対談の相手に選ばれたときからだ。以来十数年、その間にNTVのプロレス中継における解説をはじめ新聞、雑誌等でプロレスの記事を手がけることになったのである。(『プロレス血風録』、1920頁)



 のちにプロレス・ライターのパイオニアとなる田鶴浜さんにプロレスの魅力を説いた人物がアド・サンテルと闘ったことで有名な柔道家・庄司彦男であったという事実はひじょうに興味ぶかい。1921年(大正10年)に靖国神社の相撲場でおこなわれたサンテルと庄司のプロレス対柔道の他流試合は、現在では日本におけるMMA(ミックスド・マーシャルアーツ=総合格闘技)のルーツという位置づけになっている。



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